Works 186号 特集 あなたの会社の人的資本経営大丈夫ですか?

[人事担当者座談会]日本企業が歩むべき人的資本経営の道を考える

2024年11月28日

経営戦略と連動した人材戦略のあり方を提唱した「人材版伊藤レポート」。これによって日本企業の経営・人事はどう影響を受けたのか。これから人事が果たすべき役割とは──。4社の人事責任者にディスカッションしてもらった。

座談会参加者の写真

ビフォー伊藤レポートの取り組みは

浜田敬子(以下、浜田):皆さんの企業では人的資本経営をどのぐらい意識していらっしゃいますか。人材版伊藤レポートの前後で、取り組みに変化はあったのでしょうか。

三井化学・小野真吾氏(以下、小野):人的資本経営という言葉が一般的になる前から、経営戦略と人材戦略の連動という議論は社内で重ねてきました。グローバルでのM&Aにあたり、社内だけでは育てられない人材をキャリア採用するため、HRと事業部の連携を進める必要もありました。

その途上で伊藤レポートが出ましたので、ビフォーアフターで大きくは変わらないものの、経営の意識がESGや人的資本経営へと加速された面はあります。人事の立場からはやりやすくなりましたね。

サイボウズ・中根弓佳氏(以下、中根):サイボウズはもともと、自律分散的な会社のなかで一人ひとりがやりたいことをやり、合わないなら抜けるという考えでしたが、社員が1000人を超えた時点で、チームとしての経営戦略をもっと見える化しようという流れになっていました。その流れが伊藤レポートのタイミングと一致した形です。

さらに人手不足の観点から、いかに自分たちが魅力的な仲間を得られるかも重要視しています。そのためには、やはり働きやすさと働きがいといった「人的資本経営」は近い考え方であると捉えています。

丸紅・鹿島浩二氏(以下、鹿島): 総合商社のビジネスモデルは昔から、「人材」こそが収益の源泉であり、人的資本経営という言葉が一般的になる以前から、人材戦略と経営戦略の連動にも取り組んできました。

それでもやはり、伊藤レポートが出たことによって、背中を押していただいた感があります。加えて開示の必要性については、新たな課題として認識しています。

ミスミ・佐々木貴子氏(以下、佐々木):当社は、2010年代はまだ従業員が数千人規模で、個の自由を尊重し権限委譲でのびのび仕事をしてもらい、それを会社として束ねていく、というやり方が通用するサイズでした。

しかし、海外の売上比率が国内より大きくなり、グローバルで社員が1万人を超えてくると、全社を貫く「グローバル共通の価値観」が非常に大事になってきます。

私自身も海外赴任でそれを実感したうえで、5年前に帰国し、人事に戻りました。そこから時間をかけて経営と議論を重ね、「成長連鎖経営」の制度をようやくグローバルで構築したのがこの2、3年です。そこに伊藤レポートによって開示をしっかりやらなくてはという意識が加わって、2023年は有価証券報告書での開示に力を入れました。

伊藤レポートをどう読んだか

浜田:そのうえで、伊藤レポートをどう読まれたのかをお聞きしたいです。 私自身、人材版伊藤レポート(2020年)の有識者会議の議論メンバーでした。特徴的だったのは、投資家の視点に重点が置かれたことです。

中根:学びになったのは、社外に対してどう伝えるかという点でした。サイボウズは人材戦略や経営の思想を伝えることは得意ではあったのですが、「自分たちの論理」を優先していました。ただ「自分たちの論理」では伝わることと、伝わらないことがある。その意味でレポートは伝え方のヒントになっています。

たとえば厚生労働省からは男性育休取得率の提出を求められますが、私たちは育休取得だけが育児参加ではないと考えています。サイボウズでは、一時的に仕事を抜けて子どもをお風呂に入れる社員もたくさんいるので、テレワークや時間勤務の利用率も目安だと捉えています。ただ、それを伝える際に、取得率をフォーマット通りに公表したうえで、自分たちの思想を乗せていくと、多くの人が理解しやすいのだなというような気づきはあらためてありました。

鹿島:伊藤レポートによって、経営戦略と連動した人材戦略を進めていくことの重要性を国全体にメッセージされたことは、やはりインパクトがあったと思います。ただ、このレポートがあたかもバイブルや教科書のように捉えられているケースもあります。たとえば、「伊藤レポートのこの部分は御社のどの施策が該当しますか」などと質問されることがあり、少し違和感はあります。各社の状況に応じて、経営戦略・人材戦略は異なるものとなりますし、策定の際に同レポートをどれだけ参考にするのかも各社それぞれ違うと思います。

佐々木:長く人事にいた私からすると、2020年のレポートは「当たり前のことを書いているな」という印象でした。ただ、事業経験を経て思うのが、人事には会社の枠を超えた「共通言語」があり、これが人事経験者以外からはわかりにくい世界でもあるということ。伊藤レポートは、その翻訳や通訳をするためのヒントという意味で価値があったと思いました。

一方で、鵜呑みにして全部実践しようとすると、企業ごとのコンテクストが薄まってしまう面もあります。ただ実践すればうまくいくというより、机上の計算式として捉えて、どう解釈してうまく使うかに、各社の「色」が出るのではと思います。

佐々木氏:伊藤レポートを鵜呑みにせずどう解釈してうまく使うかに各社の「色」が出る

小野:欧米でも開示義務の機運が高まり、ESG投資ではEnvironmentの次はSocial、Socialといえばヒューマンキャピタルという流れが生まれていました。ただ欧米でいうヒューマンキャピタルと日本での人的資本の捉え方はだいぶ違うな、と思っています。

人材市場がジョブごとに整理されている欧米では、ヒューマンキャピタルというと人権やダイバーシティの議論が進んでいますが、日本はガラパゴス的なところがあって、労働市場も流動性が低く、同じようにはいかない。伊藤レポートが出たことによって投資家、経営者、人事、労働者を結ぶ1つのフレームが設定され始めたと感じました。

日本がいろんな意味で、グローバルでの比較が可能ではない状態を可能な状態にすることで、雇用流動化も加速し、労働市場が変わる時期が来るのかなと見ています。

人的資本開示はどこまで?

浜田:人的資本開示には実際どう取り組まれていますか。

佐々木:株主に外国人の機関投資家が多いこともあって、ESG投資を相当意識しなくてはならず、実質要件、形式要件ともにしっかり開示するという意識は持っています。女性管理職比率などの数字も定量的に開示していますが、どこに課題があってそれが企業価値とどういう方程式でつながっているかやグローバルの人的資本経営への言及などは、これから取り組む分野です。数値の開示は、特に海外の関連会社や子会社の社員へのコミュニケーションツールとしての役割に期待しています。

小野:経営が積極的に解決に向けて動いている事柄は組織の「課題」でもあり、改善するために皆が努力すべきことなので積極的に開示しています。

ただ2024年度は、会社目線の人的資本の開示から、もっと社員を主体にした統合報告書にしようとしています。もともとリーダー育成に力を入れていて、「後継者準備率」などを重視してきたのですが、今は、社会課題視点をあらゆる事業に組み込む必要があり、それはリーダーだけでは成し遂げられません。複雑かつ先行き不透明な環境のなかで、すべての従業員が価値を出さなければならない。グループレベルでどんな社員がどんな体験をしているか。社員の体験をより豊かにしていくための人材管理システムにどんな投資をしているか。それらを可能な限り開示しようとしています。

中根:人的資本の開示義務化にあたり、あらためて、サイボウズの強みは何だろうと考えました。制度ももちろんですが、圧倒的に強みがあるのはカルチャーです。女性の活躍や子育てしやすい環境に加え、特徴的なのは「情報共有」です。情報共有による個々人の動機づけや、人と人との関係性づくりなど、グループウェアの開発・販売という事業内容と密接に関わっているカルチャーこそが強みです。

さらに、会社の規模が大きくなるにつれ、効率性を考えてチームとしての戦略を重視しているのが現在地です。その点からも、今後は開示のあり方もかなり変わると思います。

鹿島:開示の目的は、投資家・株主を含む社外の方々に会社の人材戦略を理解してもらうことであり、その結果として、会社の将来性を期待して当社に投資してもらえたら、なおよいと思っています。

だからこそ細かなデータの開示も重要ですが、それらを用いながら人材戦略をストーリーで説明することが必要なのではないでしょうか。

鹿島氏:データは開示するだけでなく戦略をストーリーで説明するために必要

浜田:メディアの視点では、きれいなストーリーだけでなく何が課題かが書かれていないと「都合のいいことしか言っていないのでは」と見てしまいます。会社の今の正直な姿と、ありたい姿をどう描いているかも大事ですよね。

小野:だからこそ開示戦術上、課題はしっかり出したほうがいいと思います。経営も含めて確実にコミットしている課題を開示すれば、ギャップを埋めるために改善しようという動きになりますよね。そこをデータで示せると、信憑性があります。

未来の人事はどこへ向かう?

浜田:開示が進むと、将来の人事、人材戦略にどんな影響を与えると思いますか。人事の役割にも変化はあるでしょうか?

佐々木:これからの人事に必要な人材は、事業もわかり、「ピュア人事」以外の視点を持っている人だと思います。人事部自体の多様化が必要ではないでしょうか。人事スタッフの国籍の多様化を進めている会社もありますし、伊藤レポートのように「ファイナンス視点から見た人事」も面白い。そういった専門以外の人との交流によって価値観の多様化が図られると、人事の未来の役割がもっと見えてくるように思います。

中根:人事部門はプラットフォーマーであろう、コネクターであろうといっています。ただ制度を作るのではなく、ハードとソフト両方で経営戦略を実現する構造を作るのが役割だと。サイボウズのなかに自律的でチームワークあふれるチームを量産するプラットフォームを作りたいのです。

中根氏:人事はコネクターでありプラットフォーマー経営戦略実現の構造を作る

そのためには人と人、情報と情報をつなげることが必要で、この役割こそ人事の重要な部分だと思っています。

鹿島:当社の人事部員はずっと人事部でキャリアを積んできた人が多かったのですが、私が人事部長になってからは、人事部も多様な視点を持つ必要があると考え、社内公募やキャリア採用を積極的に進めてきました。その人たちの活躍は組織にとっても大いに刺激になっています。

これからの人事部はより戦略的な業務が増えていくことになりますが、管理の業務が減るわけではないので、そこはすごく悩ましいです。たとえば採用の業務などは、過去と比較してもかなり増えていると思います。

中根:雇用が流動化するとそうなりますよね。

鹿島:雇用の流動化ということでいえば、事業部のニーズでのキャリア採用が増えています。採用に限らず、現場がより主体的に人材マネジメントを行うことを方針としています。

中根:サイボウズも現場が人事に関する裁量権を持っていて、実際に現場に人事的な役割の人がいます。彼ら彼女らは人事の仕事だけではなく、ほかにもいろんな業務を持っています。それは時に非効率である面もありますが、一方でそれが価値にもなります。

現場の担当者やメンバーから直接人事にインプットをもらうのは非常に大事です。人事が現場を理解せずに制度を作って現場に適用するなどということをしては、経営戦略と人事制度が離れてしまいますよね。民主的に一緒に作りあげていき、共感とともに仕組みができているというのが理想です。

小野:人事部門のこれからは、一歩踏み出して経営をデザインする方向へもっとシフトしていく必要があると思います。経営戦略と人材戦略の連動というのは、分離しているものを結びつける話ではなく、その会社のあり方をどうデザインするのか、どう変革するのかを議論すること。そしてそれを推進できる状態を作ることだと思っています。

小野氏:人事のこれからは経営をデザインする方向へシフト


Text=滝川麻衣子 Photo=今村拓馬

小野真吾氏

三井化学
グローバル人材部長

中根弓佳氏

サイボウズ
執行役員人事本部長/法務統制本部長

鹿島浩二氏

丸紅
常務執行役員 CHRO

佐々木貴子氏

ミスミグループ本社
常務執行役員/人材・法務プラットフォーム
代表執行役員