Works 186号 特集 あなたの会社の人的資本経営大丈夫ですか?

人的資本経営の第1歩は経営側が持つ情報の積極的開示 SAPジャパン

2024年11月11日

グローバル企業は統合報告書で独自の指標を設け、開示を積極的に行っている。世界130カ国以上に支社を置くドイツのIT企業SAPも、「リーダーシップへの信頼」や「イノベーションインデックス」など独自の情報を外部に開示し、同時に社内でも施策の推進に活用している。日本法人SAPジャパンの石山恵里子氏と樋口将嘉氏に、その狙いや効果を聞いた。


SAPが投資家向けに公表している統合報告書は、「従業員エンゲージメントインデックス」「リーダーシップへの信頼」「イノベーションインデックス」「従業員のリテンション」「女性管理職比率」など7つのKPIを開示している(下図)。その背景にあるのは、優秀で多様な人材の獲得とスキル構築、インクルーシブな文化の醸成、新たなリーダーシップのあり方などに重点が置かれている従業員に関する3つの「戦略的優先事項」だ。

SAPジャパンの人事部門を統括する常務執行役員人事本部長の石山氏は、「たとえば、優秀で多様な人材の獲得がどの程度できているかは、エンゲージメント、リテンション、ビジネスヘルスカルチャーなどのKPIによって見る、というように戦略とKPIはつながりを持っています。KPIは目的ではなく、あくまで組織の状態を見るための指標なのです」と説明する。

2023年の「従業員のリテンション」は前年から3.6ポイント増の96.4%、「女性管理職比率」は0.4ポイント増の29.7%だった。数値は上がっているものばかりではなく、下がっているものもある。「リーダーシップへの信頼」のNPS(ネットプロモータースコア)は71で前年より1下がっており、「従業員エンゲージメントインデックス」は80%と、2020年と比べると6ポイント下がっている。

同社は、こうした指標を2012年から外部に開示している。「SAPが、クラウドとAIの会社として変革していくために、ヒト、モノ、カネにどう投資しているか、その結果をわかりやすい数値として示し、株主など社外のステークホルダーの理解を進める目的で公表しています。継続して数値を見たうえで、我々を信頼して投資してほしいと考えています」(石山氏)

公表KPIは7つだが調査設問は約50部署ごと属性ごとに分析

こうした人材戦略のKPI開示は、外資系企業ならではのものなのか。石山氏は以前、日本企業で働いた経験があるといい、「多くの日本企業は『人的資本経営』という言葉が生まれる前から、『人は資本だ』という考え方のもとで、人材育成のための投資を続けてきたと思います」と評価する。「一方、日本企業がやってこなかったことは、人材への投資や育成に関するデータを取って分析し、適時に数値として開示すること。どのKPIを使って何を伝えればいいのかに迷い、明確にできないまま立ち止まっているように見えます」と指摘する。

SAPでは、社外に公表している人材戦略のKPIは7つだが、従業員サーベイの設問数は約50問だという。回答データはダッシュボード化され、社内では共有されている。グローバル全体、各国・各地域、事業部や部署ごと、女性や若手の属性など、さまざまなカテゴリで分析し、傾向を把握することが可能だ。

担当者によって、データの活用の仕方も異なってくる。現場の部門リーダーは、自身の職場の状態を把握し、問題がある場合には改善のためのアクションプラン作成の材料にする。「とはいえ、現場のリーダーに全責任を押し付けるわけではありません。HR部門はコンサルテーション役として、ともにデータを見ながら、リーダーが部署の改善に取り組むのを支援するのです」(石山氏)

また、石山氏は、日本の人事責任者として、アジアパシフィックの各法人の人事責任者と、各国のデータを比較しながら施策とその有効性を議論することに役立てているという。

SAPの人材関連のKPIの概況出所:SAP Integrated Report 2023より抜粋、編集部が和訳

人材戦略のKPIが職場改善とリンク 計測で従業員にも生まれた変化

基本的に同社の人的資本開示は投資家向けだというが、社員にとってもこれらのサーベイや結果の開示は意味のあるものとなっている。人事・人財ソリューション事業本部チーフストラテジーオフィサー兼業務コンサルティング部長の樋口氏は、「当初は『従業員にどう関係するのか』という冷めた受け止め方もあったことは事実ですが、徐々に変化が生まれてきました」と振り返る。

樋口氏が具体例として挙げたのは、従業員に「上司は、自分の仕事がうまくいくように支援できているか」どうかを聞いた後の一連の対応だ。

同社はサーベイの導入と同時期に、人事制度を改革した。上司の仕事は「従業員の業務上の目標を達成させること」と定義され、関連する設問で、従業員の満足度を計測しているのだ。低ければ前述の通り、HR部門とその部門のマネジャーがともに改善策を検討する。「サーベイを起点に、職場の改善に向けた循環が生み出されているのが従業員にもわかるのです。こうした循環を通じて、KPIが組織の運営や会社の業績にきちんとリンクしているという認識が定着してきました」(樋口氏)

KPIに限らず、ネガティブに受け止められがちな情報も、社内で積極的に共有している。2024年1月、SAPはAI事業強化のため、大規模な人員削減を含むリストラ計画を発表した。従業員には、いわゆる人員整理という意味での『リストラ』のみに留まらない、ビジネス戦略を実現するための組織の再構築であることを丁寧に説明した。

「皆、理解できると言ってくれたものの、2023年から2024年のサーベイで、エンゲージメントのスコアは下がっています」と、石山氏は明かす。「下がった数字は真摯に受け止めて改善のための施策を打っていけばいいし、何より人がそれぞれ持っているスキルや経験を最大限に発揮してもらうためには、まず会社の戦略を明確にして、その実現のためにどんなビジネスにシフトするのか、そこで生まれるジョブ・なくなっていくジョブを提示し、従業員に『同じ船に乗ろう』と思ってもらうことが重要です。当然ながら、選ぶ権利は従業員側にもあります。経営側が持っている情報を公開するのは、従業員にSAPを選んでもらうためなのです」(石山氏)

Text =川口敦子 Photo=SAPジャパン提供

石山恵里子氏

SAPジャパン
常務執行役員
人事本部長

樋口将嘉氏

SAPジャパン
人事・人財ソリューション事業本部
チーフストラテジーオフィサー 兼 業務コンサルティング部長