Works 186号 特集 あなたの会社の人的資本経営大丈夫ですか?

伊藤邦雄氏インタビュー「人的資本の主体は個人 開示や調査の目的は従業員の声を聞くこと」

2024年11月11日

人的資本経営の潮流のきっかけとなったのが、2020年に公表された「人材版伊藤レポート」だ。「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」の座長を務めた伊藤氏が本当に実現したかったことは何か、現状をどう見るのかを聞いた。

伊藤邦雄氏の写真

人材版伊藤レポートを最初に公表してから4年になりますが、「人的資本経営」という言葉が、ここまで広く一般に浸透するとは、当初は思ってもいませんでした。

昔から「日本企業は人を大切にする」といわれてきましたが、私がそこに違和感を感じ始めたのは20年以上前のことです。研究会などで経営者の方と話したり、企業研修に招かれて人事部門や現場の社員の方々との接点を持ったりするなかで、果たして本当に人に優しいといえるのだろうかと感じることが増えてきました。

確かに日本では、一度会社に入れば、長期間、雇用は保証されます。外資系企業のように、ある日突然人事に呼び出されて解雇されるようなことはありません。それが最適なシステムとして機能し、日本企業の競争力となっていた時代もあり、実際、1980年代には、日本的経営は世界の注目を集めていました。

しかし、グローバル化が進んで経営環境は大きく変わり、若い世代を中心に価値観の異なる人たちも増えてきました。米ギャラップ社によるエンゲージメント調査では、日本は世界最低位に沈んでいます。「今の会社に長く勤めたい」「他の会社に転職したい」ともに最低レベルで、どちらにも進めないジレンマが見て取れます。

最大の原因は、日本的なメンバーシップ型雇用が機能不全に陥ったことでしょう。メンバーシップ型では人数を増やすことはできても、減らすことは難しい。賃金は人数分の掛け算になるため、少し上げただけでも人件費が跳ね上がります。

そうなると、人事部門では、人数管理することが仕事の中心になります。人的資源管理という言葉があるように、人材は管理される対象であり、会計上は「費用」として計上される資源とみなされ、いかに管理効率を上げるかが人事部門のミッションになりました。

従業員にとっても、メンバーになると、基本的には異動も転勤も会社の命令に従うしかありません。その一方で一度メンバーから抜けると、関わりは一切断たれてしまいます。ならば、雇用は保証されるのだから、不満があっても飲み込んでやり過ごせばいい。そんなあきらめが蔓延した結果、日本は働く人々が世界で最も自己研鑽しない国になってしまいました。このような状況が続けば、日本企業の競争力が落ちていくのは当然でしょう。

「管理」思考から脱却し 多様な知と経験を活かす

日本的なメンバーシップ型が限界を迎えているのは明らかであり、まったく新しい視点で人事・人材のあり方を変革していくことが必要でした。これからは人材を、価値を生み出す「資本」と捉え、一人ひとりの多様性に着目し、適所適材で配置していくことが重要だと考えています。

よく「日本人は同質的だ」などと決めつけたようにいわれますが、それは単なる思い込みにすぎないと思っています。たとえ国籍や性別などの属性が同じだったとしても、一人ひとりの持つ知と経験はそれぞれ異なる。その多様性を活かしていくことが企業の成長にもつながります。

人材版伊藤レポートでは、3つの視点と5つの共通要素からなる枠組み(3P・5Fモデル)を提示しています。共通要素の2つ目に「知・経験のダイバーシティ&インクルージョン」を掲げたのは、多様性は誰にも関わるテーマであるとの思いを込めてのことでした。

また、「人的資本経営」という表現にもこだわりがありました。「変革」ではなく「経営」という言葉を使ったのは、人材の問題を人事のアジェンダではなく、経営マターとして取り組んでほしかったからです。「3P・5Fモデル」でも、経営戦略と人材戦略の連動を最初に掲げ、その重要性を強調しました。

2023年4月からは人的資本開示も始まり、有価証券報告書や統合報告書に人的資本に関する記述が増えてきました。こうした情報は、ステークホルダーにとっても有用です。たとえば投資家は、会社の経営戦略やビジネスモデルを見ていますが、一番知りたいのはその実現可能性です。戦略の担い手である人材がどれだけいて、どのように育成しているかは、財務データだけではよくわかりませんでした。また、就職活動中の学生や転職先を探している人も、自律的にキャリア形成できる会社なのかを知るために見ていると思います。

自由も規律も含め 個人の選択肢を増やす

ただ、情報開示はしているものの、何をやったかというアクションの羅列や、エンゲージメント調査の結果を載せているだけの企業もまだまだ多いように感じます。会社として、そもそも人材をどう捉えているのか、どこに課題を感じ、どう解決していくのか、もっと哲学を語ってほしいですね。

エンゲージメント調査についても、どこの部門が高かったか、去年よりどれだけ上がったかが重要なのではありません。本来の目的は、従業員の声を聞くことです。

投資の世界でエンゲージメントといえば、投資家との深い対話を意味します。会社のために資金を拠出してくれる投資家との対話を通じて、その声を聞き、よりよい経営に役立てていくことは、経営の責任です。

会社のために自分のスキルや経験を拠出してくれる従業員に対しても、同じように対話を重ねていくことが重要です。期待に応えられなければ、投資家が資金を引き揚げてしまうように、従業員が自分の人的資本を引き揚げるのも自由です。あくまでもオーナーシップは個人にあるのですから。

私は、自由と規律はセットで考えています。かつての日本企業は、自由も規律も小さく、個人の選択の幅がほとんどありませんでした。これでは、やらされ感ばかりが募ってしまいます。

でも、これからは違う。大きな自由と大きな規律の間にたくさんの選択肢があり、個人が主体的に選んで、皆がどんどん大きな挑戦をする。人的資本経営を実践した先に、そのような未来が広がっていくことが、私の願いです。

Text=瀬戸友子 Photo=刑部友康

伊藤邦雄氏

一橋大学
名誉教授/CFO 教育研究センター長

1975年一橋大学商学部卒業。1980年一橋大学大学院博士課程単位取得退学。1992年一橋大学商学部教授に就任後、一橋大学大学院商学研究科長・商学部長、一橋大学副学長を歴任。2015年より現職。