Works 186号 特集 あなたの会社の人的資本経営大丈夫ですか?
人的資本経営はなぜ迷走するのか 島貫智行中央大ビジネススクール教授に聞く
人的資本経営をめぐっては、誤解や混乱も少なくない。従来の人的資源管理との最大の違いは何か。人的資本経営をどのように実践していけばいいのか。人的資源管理論を専門とする島貫智行氏に聞いた。
2020年に人材版伊藤レポートが公表されて以降、「人的資本経営」への関心が高まっています。先進的に取り組みを進める企業がある一方、なかには人的資本経営をどう捉えたらいいのか混乱している企業もあるようです。
人的資源管理論の立場から見ると、人的資本経営をめぐる議論には、さまざまな誤解があるように思います。一般的には「個を大事にすべき」などといわれますが、従来の人材マネジメントとどこが違うのか。人的資本経営を進めていくうえで、あらためて人的資本とは何かを正しく捉えておくことが必要でしょう。
なかでも大きな誤解は、「人的資源」と「人的資本」の関係についてです。人材版伊藤レポートでは、「資源」に投じる資金はコストとみなされるが「資本」は投資の対象であることから、人材を人的資源として管理するのでなく、人的資本と捉えて活かしていくべきだとしています。つまり、人的資源から人的資本への転換が必要だと提唱しています。
しかし、人的資源も人的資本も、経営学や労働経済学の分野では昔からおなじみの用語です。漢字を見るとたった一文字の違いですが、意味はまったく違います。
人的資本は、個人が持つ能力やスキル、知識などのうち生産性向上といった経済的な価値につながるものを指します。つまり人的資本の所有者は、一人ひとりの個人です。
では、人的資源の所有者は誰か。私は企業だと答えたい。企業の経営資源には、ヒト、モノ、カネ、情報などがありますが、この「ヒト」が人的資源です。人材に同じように注目しても、経営の視点から、企業の戦略実現や持続的成長のために組織的に活用しようとするときに、人的資源というのです。
人的資本と人的資源は、そもそも見ている視点も指し示すものも異なります。「人的資源か人的資本か」というように、対照的に語られる概念ではないのです。
個人の人的資本を起点に マネジメントを考える
重要なのは、一人ひとりの持つ人的資本が、企業の人的資源になっているかどうかです。従業員が100人いれば、組織のなかに100人分の多様な人的資本が存在しますが、その合算が企業の人的資源だとは限らない。組織の力として100に満たないこともあれば、100以上の力を引き出していることもあるはずです。
これまでも人材育成や能力開発に取り組むなど、人的資源管理の一環として、経営者や人事部門が個人の人的資本を重視してきたことは確かです。しかし、圧倒的に欠けていたのは、人的資本は個人の持ち物であり、多様であるという視点でした。
人的資本経営を実践する第1フェーズは、個を起点にマネジメントを考えていくことです。従業員はステークホルダーであり、従業員の人的資本は企業の所有物ではありません。人的資本に投資するもしないも、どのような人的資本を蓄積していくかも、個人の意思や行動が重視されます。そうなると、個人の持ち物である人的資本を、企業のために提供しようと思ってもらえることが鍵になります。
そのためには一人ひとりが主体的に努力し、それぞれ独自の人的資本を蓄積して存分に発揮していけるサイクルを作ることが重要です。たとえば、企業主体の同質的な教育訓練を提供するのではなく、個人の強みや個性につながるスキルや能力を主体的に学習できるように支援すべきでしょう。配属も、目指すポジションに挑戦できるように自己申告や社内公募の仕組みを整え、キャリアのデザインや歩み方を個別にサポートする。フレキシビリティの高い働き方を用意し、心身のウェルビーイングに配慮することでポジティブに仕事に取り組めるようにすることも必要です。
経営の視点を持って 一連の人事施策を進めていく
ただし、従業員のキャリア自律やオーナーシップを強調して、個人のニーズに応えているだけでは、組織の力にはなりません。個人の人的資本を尊重して、一人ひとりの力を引き出していく目的は、経営の成果につなげるためです。第2フェーズとして取り組むべきは、個人が所有する人的資本を、企業の組織力となる人的資源に再構築することです。
そのために必要なのは、経営戦略と人材戦略を連動させ、縦糸を通すこと。経営目標の達成や企業価値の向上のために、必要な人的資源を創出、活用していく戦略人事を実践していくことです。たとえば「ジョブ型」は、単なる等級制度や評価制度ではなく、まさに個人の人的資本と企業の人的資源をつなぐ仕組みです。仕事に必要な人的資本を明示することで、個人は将来のキャリアを見据えて人的資本への投資を考えることができ、企業は必要な人的資源を効果的に構築できます。「パーパス経営」も、従業員一人ひとりにパーパスがあり、その個人のパーパスから見て、会社のパーパスに共感できることが重要なのです。
また、採用、育成、評価など人事の機能に横串を通すことも重要です。インターンシップ、1on1、エンゲージメントサーベイ、アルムナイなど局所的な施策では、従業員満足は高まるかもしれませんが、組織力に結びつくとは限りません。大切なのは、求職段階から在職中、退職後まで、一連の従業員体験を最大化することです。会社との関わりのなかで充実したよい経験を重ねることができれば、従業員は強みや個性を活かして会社に貢献しようと前向きに行動してくれるようになるでしょう。多様な個人の人的資本を束ね、人材を組織成果のために戦略的に活用できてこそ、人的資源といえるのです。
その意味でも、CHROをはじめとして、これからの人事部門には、経営の視点がますます必要になってきます。個人の人的資本を起点として組織の人的資源を創出し、顧客や取引先、さらに株主・投資家など社外のステークホルダーへの価値提供につなげていくという意識を持って、人材マネジメントを考えていくことが大切です。
Text =瀬戸友子 Photo=島貫氏提供
島貫智行氏
中央大学ビジネススクール
大学院戦略経営研究科 教授
1995年慶應義塾大学法学部卒業。総合商社人事部門勤務を経て、2007年一橋大学大学院商学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(商学)。同大学大学院経営管理研究科教授などを経て2023年より現職。