Works 186号 特集 あなたの会社の人的資本経営大丈夫ですか?
非正規社員がいないドイツ 短時間社員も含めた教育投資が経済復活の支えに
前出の調査結果によれば、日本の雇用における人的資本投資は主要各国と比して見劣りし、働く人々の不安につながっている可能性がありそうだ。実際に他国ではどのような人的資本投資が行われているのか。ドイツの雇用や社会制度に詳しい筑波大学名誉教授・田中洋子氏に寄稿してもらった。
「人的資本経営」は経済産業省の2020年「人材版伊藤レポート」、2022年「人材版伊藤レポート2.0」、内閣官房の「人的資本可視化指針」で示され、2023年からの非財務情報の開示義務化により、一気に注目されるようになった。
人的資本経営とは、人に投資することで従業員のスキルアップと成長を促し、生産性の向上や企業の利益拡大を実現する経営であり、従業員と企業がともに成長し合う好循環を生み出すことで、企業価値を中長期的に向上させる、とされる。
はて。日本企業は以前から、人づくりを第一に考えてきたのではなかったのか。「モノづくりは人づくり」「人を大切にする経営」「人財」など、日本的雇用は現場での丁寧なOJTと長期的な養成・昇進を特徴としてきたはずだった。なぜ今になって、政府からトップダウンで指導される必要があるのか。
この疑問に、リクルートワークス研究所の国際比較調査(Global Career Survey2024)の衝撃の結果が答えてくれる(2023年1年間にOJTを受けた割合グラフを参照)。これによると、「上司や先輩などから指導を受けた」と答えた従業員は、国際的に見て日本がダントツに少なかったのである。「一定の教育プログラムをもとに」指導を受けた人の割合は、外国の25~50%に対し、日本はわずか12.0%だった。それ以外で指導を受けた人を合わせても、海外6カ国の57~76%に対して日本は39.8%である。
この数字は、いかに日本の職場では、何の指導も受けないまま、放っておかれている人が多いかを示している。就職氷河期の調査で、職場で教育指導を受けない人の増加が指摘されていたが、それがその後20年続いたことになる。日本的経営が賞賛された時代はとうに一転し、日本はOJT貧困国になっていたのである。
では、それに対して、外国ではどんな状況になっているのだろうか。たとえば、前述の調査でOJTを受けた従業員割合が70.5%だったドイツでは、実際どのような形で、人材への教育投資が行われているのだろうか。ここではそれを考えてみたい。
日本では、非正規雇用が多いためか、小売業やサービス業で人的資本開示項目が非常に限定的であるといわれている。確かにスーパーマーケットの店舗では非正規割合が平均7割で、正社員を探すのも簡単ではない。では、ドイツのスーパーマーケットではどうなのか。人的投資はいかにして行われているのか。ここでは、ドイツの二大スーパーの1つ、レーベ社(REWE、2023年売上約16兆円、従業員39万人)の事例を見てみよう。
有期雇用は限定的なEU 教育投資少ない日本のパート
まず、レーベ社が日本と決定的に違う点は、基本的に非正規雇用がいない点である。
一見したところ、スーパーでは多くの女性パート労働者が、レジや商品棚で入れ代わり立ち代わり働いており、日本と特に変わりがない。しかしこれらのパート労働者は、短時間正社員である。無期雇用で、社会保険に入っており、賃金はフルタイムの給与に働いた時間の比例割合をかけて支払われる。週40時間のうち20時間働けば、40分の20で50%、30時間働けば75%である。ただ働く時間が短いだけの正社員となっている。
ドイツでは2001年のパートタイム・有期雇用法により、どんな人でも、短く働くことを希望すれば短時間正社員になれるようになった。時短にしたい理由を説明する必要もないと規定されている。働く時間も、自分や家族の都合と職場の必要性をすり合わせて、自由に決めることができる。
またドイツをはじめEUでは、有期契約で人を雇えるのは短期雇用であることの必然性があるときに限られる。日本のように「ずっとある仕事だけれど、一応人を切れるようにしておきたい」といった理由で有期雇用にすることは法的にできない。その結果、ドイツのスーパーの仕事は無期雇用となる。
日本のスーパーでは、店舗運営を実質的に担っている7割の非正規のパート労働者は、主要な人的投資の対象から外されている。日本の「人的資本経営」は、その対象範囲を正社員に限定しているのだ。それに対してドイツのスーパーでは、働く時間の長短に関係なく、フルタイムもパートも正社員として教育投資の対象となるのである。
こうして全従業員を対象としたうえで、レーベ社は非常に包括的な教育プログラムを展開している。少し内容を紹介しよう。
レーベ社の方針の特徴は、「キャリアのスタート地点からマネジャー・管理職に至るまで、従業員が継続的かつ個別のサポートを受けられるようにする」点にある。「計画的な人材育成により、従業員の潜在能力を最大限に発揮し、それぞれの成長を実現する」ことが目指されている。
レーベ社では販売ラインごとのトレーニング・プログラムを従業員が受けやすい形で提供している。社内には小売、卸売、貿易、食品生産、IT、物流などの専門分野があり、挑戦したい人は新しい職業訓練プログラムに参加して、スキルアップすることもできる。
すべての販売従業員やマネジャーは、人材育成プログラムや継続教育(学び直し)のための研修に参加できる。この研修を通じて、社内のネットワーキングを促進し、参加者はほかの販売部門についての洞察を深めるという。
レーベ社が包括的な職業教育・継続教育プログラムを通じて、すべての従業員とマネジャーをサポートする目的は、魅力的な雇用主になることで人々を惹きつけ、彼らを会社に結びつけることにある。社内でキャリアを積んだ人々のなかから、スペシャリストやマネジャーを育て、有能で意欲的な従業員を長期に維持すること、これが社の目標である。
このようにレーベ社は、個人個人のスキルアップを支えることで、働く人にとって魅力的な企業であり続け、これらの人々によって企業が支えられることを目指しているのである。
リーマンショック時の教育投資が 景気回復時の復活を支えた
リーマンショックのとき、ドイツは日本同様、自動車生産が大きく落ち込んだ。当時、メルセデス・ベンツ(当時のダイムラー)社では、操業短縮の間に、いかに労働者の資格・専門性を高める教育を行うか、その進め方について労使で協定が結ばれた。そのおかげで、その後生産が急回復したときも機敏に対応できた。「従業員のスキルアップと成長を促し、従業員と企業がともに成長し合う好循環を生み出す」経営は、ドイツでは普通なのである。
人的資本経営論を主導する伊藤邦雄氏は、日本で「経路依存性を乗り越える」「パラダイム転換」が必要だと言う。失われた30年の間に、日本では人への支出は「コスト」として削減され、OJTや教育もやせ細った。これを人づくりの本道に戻せるのか。ドイツの企業のあり方は日本にも示唆を与えるだろう。
Photo=田中氏提供
田中洋子氏
筑波大学名誉教授
ベルリン自由大学フリードリヒ・マイネッケ研究所、法政大学大原社会問題研究所 客員研究員
東京大学大学院経済学研究科修了。博士(経済学)。東大経済学部助手、筑波大学社会科学系講師、同大学人文社会系准教授、教授を経て、2024年より現職。専門はドイツ社会経済史、日独労働・社会政策。最近の編著に『エッセンシャルワーカー 社会に不可欠な仕事なのに、なぜ安く使われるのか』(旬報社)がある。