Works 186号 特集 あなたの会社の人的資本経営大丈夫ですか?

真の「人的資本経営」の前に30年間の失敗の反省から始めよ

2024年11月11日

日本の非正規雇用労働者は、今や労働者全体の4割近くに達する。それは日本の人的資本の大きなボリュームを毀損してはいないか。企業や国のあるべき支援のあり方とは。労働問題を長く取材している毎日新聞社記者の東海林智氏に聞いた。

「年越し派遣村」の様子リーマンショックで派遣切りにあった生活困窮者のために、2008年12月31日から日比谷公園に「年越し派遣村」が開設され、複数のNPOなどにより支援が行われた。
Photo=AFP =時事

私は労働問題を長く取材し、上梓した『ルポ 低賃金』では、1990年代から急増した非正規雇用の労働者や、その結果として増大した低賃金で働く人々の現場を描きました。

生活基盤が脆弱な人々は、大きな社会的出来事があると、その困窮が一気に深刻化しがちです。2008年のリーマンショックのときには、製造業の派遣労働者を中心に雇用契約期間中に契約を終了させられる「雇い止め」が多発しました。2020年1月に始まった新型コロナウイルスの感染拡大によって、非正規労働者やシングルマザー、低年金で暮らす高齢者などが、あっという間に困窮の度合いを深めていったのは皆さんの記憶にも残っているところでしょう。

コロナ禍で収入が減って出費だけがかさみ、子どもを道連れに心中を考えたというシングルマザーからは、こんな話を聞きました。「この世で最後」と覚悟を決めたフードコートでの食事で、初めてチョコレートパフェを食べた子どもが、あまりのおいしさのためか体をブルブルと震わせる姿を見て、彼女は「人生最後の思い出がフードコートのパフェでは悲しすぎる。娘も私も……死んでたまるかって」と思い直し、公や民間の支援など「使える制度は何でも使った」と。

この母親のほかにも、家賃の支払いに困って特殊詐欺グループと関わりを持ってしまった女性や、安心できる場所がどこにもないために漂泊を余儀なくされる若者たち、実績を積んできたにもかかわらず雇い止めになった非正規公務員らの話を聞きました。

私は、彼ら彼女らが厳しい状況に陥ったのは、「自己責任」で片付けられることではないと強調したい。真の原因は、20年以上にわたって日本の実質賃金が上がっていないこと、そして労働力が「商品」として扱われてきたことにあり、その構造ゆえに、普通に働いても普通に暮らせない人々が多く生み出されてしまったのです。

正社員・専門社員・非正規の分離が 日本の低賃金の根源にある

なぜ日本の賃金は低く、労働力は商品化されたのか。その根源をたどると、1995年、当時の日経連(日本経営者団体連盟。2002年に経団連と統合し、現在の日本経団連に改組)が発表した「新時代の『日本的経営』」という文書に行き着きます。

この文書は、終身雇用ともいわれた日本の安定した雇用スタイルを大胆に見直すとし、雇用のあり方を「長期蓄積能力活用型(正社員)」「高度専門能力活用型(専門社員)」「雇用柔軟型(非正規)」の3つに分け、このいずれかの枠に労働者を配置することを提言しました。

これらが意味するのは、正社員は会社の経営や管理を担うごく一部に限る一方で、高度な専門知識を持つ人は外から採用するなどして確保に努め、一般的な業務を担う人材は流動的な雇用とする、つまり非正規は景気の動向によっては契約を切ることもあり得る、ということです。

労働組合は反発しましたが、正社員だった団塊の世代の大量退職の後、企業は正社員の採用を抑えて非正規に置き換えていきました。労働者派遣法(1985年制定)の相次ぐ「改正」で、当初は限定されていた職種が製造業務や医療も含めて解禁されたこともあり、非正規労働の間口は次々と広がりました。

経済的に不安定な非正規労働者は1990年代から増え続け、今や労働者全体の4割近くになっています。特に影響が大きいのは女性で、2022年段階での非正規労働者は1432万人。働いている女性の2人に1人以上が非正規なのです。

自社で育てる正社員はごく一部に限り、あとは専門職と非正規に任せたいとの財界の提案の背景には、「日本の国際競争力を維持する必要がある」との考えがあったと理解しています。ところが、2023年の日本の名目GDPはドイツに抜かれて世界4位に転落。「チープレイバー」を確保し合理化しようとした経営層の皆さんには、その合理化の結果として、自社の国際競争力は増したのかどうかを問いたいです。

EUに比べ低い日本の雇用関連支出 非正規への視線欠く人的資本経営

国際競争力という面から、日本の実質賃金を他国と比較すると、イギリスやアメリカ、フランス、ドイツ、イタリアと比べて伸び悩んでおり、20年以上にわたって横ばいの状態が続いています。

国の支援も足りません。たとえばドイツでは、複数の職種で「業種別最低賃金」を定める対応が取られています。低賃金に陥りやすい「建設」「警備」「介護」などの職種が含まれており、企業が「業績が悪いから、最低賃金を低く設定する」ということができない仕組みになっています。またドイツやフランス、デンマークなどEU諸国では、失業給付や雇用訓練、若年者対策などの雇用関連の支出が高い傾向があります。

翻って、日本の雇用関連の支出はEU諸国に比べて低く、雇用保険の給付期間は数カ月間と短いのが特徴です。このため、退職者がスキルを身に付ける時間が十分確保されず、スキルが未成熟なまま満足のいかない転職を繰り返す、という悪循環に陥る恐れがあるのです。

さらに労働者の働き方について、2024年に入って気になる動きがあります。労働関連法について話し合う厚生労働省研究会の開催に合わせる形で、経団連が1月に「労使自治を軸とした労働法制に関する提言」というレポートを出しました。
「労働者の多様なニーズをくみ取り、労使双方にとってよりよい働き方を探ることが不可欠」とし、労使双方の合意を条件に、労働時間規制の例外を認める範囲を広げるべきだと提案するものです。ただ私の目には、これは「労働基準法で定められている労働時間の規制を外し、企業は自由にやりたい」と言っているように見え、労働者のよりよい働き方を支援するための提案なのかどうか、甚だ疑問です。

昨今、「人的資本経営」という言葉ももてはやされていますが、個人的には注意が必要だと感じています。経済産業省が2022年に発表した「人材版伊藤レポート2.0」は、会社で人を育てようとするなど、一見するともっともなことを指摘しているように見えます。ところが、その内容を読み進めると、今や労働者全体の4割近くなった非正規労働者への視点を欠いており、「新時代の『日本的経営』」への反省もなく、この30年間のやり方が雇用にもたらした負の影響についての考察は見受けられませんでした。経営層の皆さんには、まずは過去の失敗を直視するところから出発し、真の意味で労働者を大事にする経営を目指してほしいと切に願います。


Text =川口敦子 Photo=東海林氏提供

東海林 智氏

毎日新聞社
編集局社会部記者

一貫して労働と貧困・格差の現場を取材。2008年12月31日から2009年1月5日まで開設された年越し派遣村の実行委員を務めた。著書に『15歳からの労働組合入門』『貧困の現場』(ともに毎日新聞出版)、『ルポ 低賃金』(地平社)など。