Works 184号 特集 多様な働き方時代の人権
非正規化が加速するエッセンシャルワーカー。不公正が低成長の要因にも
日本とドイツの労働市場を研究してきた筑波大学名誉教授の田中洋子氏は、日本ではエッセンシャルワーカー、特に非正規で働く女性が、社会的に不公正な地位に固定されていると訴える。
事態の打開策を聞いた。
コロナ禍以降よく耳にするようになった「エッセンシャルワーカー」という言葉。医療、高齢者・障がい者支援、小売り、生活サービス、物流、育児関連など、社会の機能を維持する人々のことを指す。「社会にとって不可欠な仕事をしているのに、働く条件が悪い。しかもバブル崩壊後の『失われた30年』のなかで悪化の一途をたどってきました」と、田中氏は話す。
田中氏が編者となった著書『エッセンシャルワーカー』のなかでは、エッセンシャルワーカーを大きく「小売業の主婦パート」「飲食業の学生アルバイト」「公共サービスの担い手の非正規化・民営化」「女性中心の看護・介護職」「委託・請負・フリーランスの担い手」の5類型に分け、働き方の変化を詳細に分析している。これらの多くに共通するキーワードが「非正規」と「女性」だ。
「非正規雇用は働く女性全体の54%、半数以上を占めています。その多くが来年も働き続けられるかさえわからない、先が見えない不安な状態に慢性的に置かれているのです」 非正規で働く、特に主婦層の女性たちを「自分で自由な働き方を選んでいる」とみなす人もいる。「そういう人は、女性が出産などを経て仕事に復帰しようとしても、残業ありきの正社員の働き方では育児などとの両立が難しく、非正規を選ばざるを得なくなるという企業側の構造的問題を見逃しています」
飲食チェーンの店舗では、店長以外すべて非正規というケースも珍しくない。店の開閉、売上管理から発注・廃棄管理、新人研修まで、本来なら社員が担当すべき店舗の基幹業務を、時給1000円程度の主婦パートや学生アルバイトが担っている。教員やスクールカウンセラー、保育士やハローワークの相談員など高い専門性を要する公共サービスの仕事でも、非正規割合が年々高まっている。
「小売りや飲食から始まった非正規の戦力化は、30年かけてあらゆる業種に広がりました。専門的で大きな責任を持って働く労働者を、最低賃金近辺の時給で安く使って現場を回す。日本は、こんな不公正な事業運営を当然のことだと考えるまでに至ったのです」
非正規拡大が経済成長妨げる
「主婦相場」が足かせに
田中氏によると、ドイツなど欧州諸国では、有期契約で労働者を雇用できるのは、期間が定まった仕事・プロジェクトに限られる。日本のように、経営者の一存でどんな仕事も有期にできるというのは、あまりに働く側に不利で、「欧州では考えられない」という。
非正規雇用の拡大は日本経済の成長力を損なっているとも指摘する。非正規の人々の多くは、何年勤めてもわずかな昇給しかなく、教育機会も限られ、大きな購買力も持てない。「日本では働く人全体の4割近い人たちが、非正規の枠に押し込められ、収入も能力も伸ばせない構造になっており、経済が成長できるはずがありません。特に非正規割合の高い女性は、伸ばせたはずの力、得られたはずだった収入の多くを奪われているとすらいえます」
なぜエッセンシャルワーカーは低処遇化が進んでしまったのか。
田中氏はその原点は、1970~1980年代に、家庭の主婦らがパートとして小売りなどで安く働き始めたことだと指摘する。「高度成長期以降、当時は夫の給与が右肩上がりで伸びていた時期だったため、主婦や子どもは『お小遣い程度』の収入でいいと考えられました。ところが1990年代以降、リストラで雇用が不安定化し、夫の収入の伸びも鈍化した後もなお、この慣習が続きました。主婦の側では、家計維持のため、安い時給でも受け入れて働かざるを得なくなったのです。学生たちもまた学費や生活費のため、かなりの時間、アルバイトをせざるを得なくなりました」
これは企業が、不況下の価格競争で生き残るため、コストダウンを目指して非正規の利用や外部委託化を大きく増やしたことでもたらされた。「それまで日本企業は、社内で長期的に人を育てて能力を発揮させることを自らの競争力の源泉としてきました。しかし、目の前の人件費削減をひたすら進めるべきだ、という短期的利益の追求が広がるなかで、日本経済は強みの源泉であった『人』という基盤を自ら毀損してしまったのです」
共通点多い日独の構造
分けたのは非正規の働き方
日本とドイツは人口規模や産業構造などで似ている点が多いが、「この30年でドイツはどんどん働きやすく、日本はどんどん働きづらくなったと感じます」と田中氏は語る。両国の大きな違いは、働く時間の長短で処遇・給与に差をつけるかどうかという点にある。
ドイツではフルタイムとパートに処遇格差をつけない。つまり、労働時間は違うがどちらも正社員だ。ドイツの場合、週40時間働いていた人が30時間勤務を希望したら、無期雇用のまま給与が単純に4分の3になる。労働者自身が就業時間を決められるうえに、個人や家庭の事情などで変更することもできるという。
他方、日本ではパートは非正規、フルタイムは正社員で、まったく別の雇用身分になり、そこには大きな処遇の格差がある。しかし日本にも、既にドイツと同種の法的枠組みが導入されているという。それは育児・介護休業法に基づく正社員の短時間勤務だ。田中氏は、この短時間正社員の制度を日本に大きく広げ、ドイツのように理由を問わずすべての労働者が、自由に働く時間を選べるようにすることが、働きやすさを実現する第一歩になると主張する。
「正社員のまま働く時間を変えられる柔軟性が組織にあれば、育児中の社員も離職を迫られることはなく、子育てが一段落したらフルタイムに戻ってキャリアを続けられる。組織も優秀な人材を失わずにすみます」「いつ職を失うかわからない」という労働者の不安が解消されることで、多くの非正規が抱く社会の閉塞感や、結婚・出産への不安の緩和にもつながる可能性がある。
「30年間かけて定着した仕組みや『常識』を変えるのは時間がかかるでしょう。しかし、未来への希望を取り戻すためには、同じ年数をかけてでも、非正規の拡大がもたらした悪循環を逆転させていく必要があると考えています」
Text=有馬知子 Photo=田中氏提供
田中洋子氏
筑波大学名誉教授
法政大学大原社会問題研究所客員研究員
東京大学大学院経済学研究科修了。博士(経済学)。東京大学経済学部助手、筑波大学社会科学系講師、同人文社会系准教授、教授を経て、2024年4月より現職。専門はドイツ社会経済史、日独労働・社会政策。最近の編著に『エッセンシャルワーカー 社会に不可欠な仕事なのに、なぜ安く使われるのか』(旬報社)がある。