Works 184号 特集 多様な働き方時代の人権

なぜ日本は「ビジネスと人権」後進国になったのか。その現状と課題。

2024年07月04日

近年、急速に注目を集める「ビジネスと人権」。
国連開発計画(UNDP)でタイを拠点に「ビジネスと人権」の促進に取り組む弁護士の佐藤暁子氏に、世界の動きと日本の現状について聞いた。


ビジネスと人権というテーマが世界的に注目されるようになったのは、2011年に国連の人権理事会で事業活動における人権尊重の指針としての「ビジネスと人権に関する指導原則」(指導原則)が加盟国によって全会一致で承認されて以降のことです。指導原則は国際社会で正当性を持ち、国際的な規範として機能する土台となりました。

ビジネス活動に関する人権問題は長く問題視されていました。特に第二次世界大戦以降、グローバルな経済活動が活発化するなか、NGOや労働組合など、人権侵害の当事者やその声を代弁する人たちによって、実態が世界に知られるようになりました。サプライチェーン上で起きている児童労働や資源の搾取、地域住民の健康被害などを指導原則が「ビジネスと人権」というフレームワークで示したことの意味はとても大きかったと思います。

並行して2015年には持続可能な開発目標(SDGs)が採択され、さまざまな紛争、危機の犠牲になっている人々の声に耳を傾け、持続可能な社会の達成を目指すことが国際的なアジェンダとなりました。

そうした流れに加え、ESGという考え方に基づく投資家からの後押しもあり、企業は単に経済的利益を出せばいいのではなく、事業を通じて社会に貢献すべきと、経営者の意識も徐々に変わってきています。

グローバルで先行する行動計画の策定と法制化

ただし、指導原則は条約ではなくあくまで原則を示したもので、それぞれの国、企業などの事業体が実務のなかで人権の保護や尊重を実現していく必要があります。国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)、ビジネスと人権作業部会はステークホルダーが協働し促進を担い、指導原則実現のためのロードマップとして国別行動計画(NAP)策定を各国に推奨しています。ビジネスと人権が関わる領域は広範囲に及びます。関連省庁や必要な施策を具体的に認識できるため、NAP策定は重要な一歩です。

最初のNAP策定はイギリスの2013年9月。OHCHRのWebサイトによれば現在、世界26カ国で策定されていますが、日本が策定したのは2020年と比較的最近です。また、NAP策定を踏まえたさらに具体的な施策として、ビジネスと人権に関する法律の制定も進んでいます。

たとえばドイツでは2023年1月にサプライチェーン・デューデリジェンス法という法律が施行されています。指導原則では、企業が事業活動に関わるすべての人々の人権への負の影響を認識し、防止・軽減、救済に向けた対策を実行し、その状況を評価、情報開示していく人権デューデリジェンスを求めています。ドイツは2016年発行のNAPに、一定期間内に従業員500人以上の企業の50%で人権デューデリジェンスの導入が進まなければ法制化すると明示し、目標値より低かったため、このプロセスを企業に義務付けました。直近では欧州議会でコーポレート・サステナビリティ・デューデリジェンス指令(CSDDD)が採択されました。

イギリス、フランス、オーストラリア、カナダなどでも法制化は進んでいます。ただし、法律がなければ企業は責任を問われないわけではなく、サプライチェーン全体に対する責任が企業の行動規範として強固なものになりつつあります。

人権侵害と認識されにくいジェンダー格差や長時間労働

日本のNAPは関係省庁のWebサイトで公開されており、❶労働(ディーセント・ワークという働きがいのある人間らしい仕事の促進など)、❷子どもの権利の保護・促進、❸新しい技術の発展に伴う人権、❹消費者の権利・役割、❺法の下の平等(障害者、女性、性的指向・性自認など)、❻外国人材の受け入れ・共生ステークホルダーを横断的事項として、既存の制度や取り組み、今後の具体的措置が記されています。

ただし、従来の施策と目指す国際人権基準のギャップの分析が十分ではないとしてNAPの実効性を危惧する声もあります。

企業の現場では、特に技能実習生への人権侵害問題をきっかけにビジネスと人権への関心の高まりを感じます。各国で主要な人権課題は異なりますが、ジェンダー格差、パワハラ、長時間労働などが人権問題であるという理解が十分に浸透していないことは日本の課題の1つです。たとえばジェンダーやLGBTQ+をはじめとするダイバーシティ・エクイティ&インクルージョンも、追加的な取り組みとして余裕があるときにだけにすればいい、とする考えがまだあるように感じます。

指導原則はサプライチェーン全体が対象のため、「途上国の問題」と捉え、従業員の人権尊重が手薄になっているとも考えられます。一方で、人権を担当する部署がさまざまな関連部署を取りまとめて、一貫した人権の取り組みを担保する動きは日本企業のなかにも出てきています。

ハラスメントや長時間労働の問題をなくすためにも、労働者一人ひとりが「自分の権利として主張していい・すべきだ」という考えを企業文化として浸透させることが必要です。労働者が自分たちをエンパワーメントする動きは、ここ東南アジアでも顕著です。権利のために声を上げることがよりよい社会につながるという共通理解の醸成が大切です。

同時に、経営者の意識改革も重要です。経済成長重視で長時間労働を許容する価値観を見直し、人権を守ることが企業の持続可能な成長にも必要不可欠であり、これを実践することが問われる時代になっています。

Text=入倉由理子 Photo=佐藤氏提供 Illustration:ワタナベケンイチ

佐藤暁子氏

国連開発計画(UNDP)ビジネスと人権
リエゾンオフィサー/弁護士

上智大学法学部国際関係法学科、一橋大学法科大学院卒業。International Institute of Social Studies(オランダ・ハーグ)開発学修士号(人権専攻)。企業に対する人権方針、人権デューデリジェンスのアドバイスの提供、NGOとしての政策提言などを通じて「ビジネスと人権」の促進に取り組む。