介護を通じて見てきた、栄村の昔と今――長野県栄村・住民インタビュー

2025年03月17日

実践的住民自治という考え方のもと、過疎化によって生じる問題に対し、独自の施策を展開してきた長野県・栄村。なかでも住民をヘルパーとして養成し、介護の担い手不足を補おうという「げたばきヘルパー」の試みは、高齢化が進むアクセス困難地域での先駆的な福祉モデルとして注目を浴びた。しかし、人口の流出や高齢化はその後も進み、近年ではさまざまな行政サービスの維持が困難になっているという。栄村で20年以上にわたって高齢者福祉に携わり、げたばきヘルパーも務めた南雲恒子さんに栄村の現在の状況について聞いた。

南雲さんの写真長野県栄村 南雲恒子(なぐも・つねこ)さん

減少傾向にある、げたばきヘルパー

——南雲さんは長らく栄村で介護に携わっていらっしゃったそうですね。

45歳のときにヘルパーになり、社会福祉協議会の介護事業所で働き始めました。常勤のヘルパーとして57歳まで働いたのち、介護支援事業所でケアマネージャーとして勤務し、そのあとげたばきヘルパー(※1)になりました。げたばきヘルパーになったのは、ヘルパーの仕事が好きだったからです。常勤ヘルパーのときは“仕事”という感じでしたが、げたばきヘルパーは“楽しみ”としてやっているところが大きいですね。

——げたばきヘルパーと常勤ヘルパーの仕事にはどんな違いがあるのですか。

仕事内容は基本的に同じです。介護が必要な人のお宅に伺い、会話しながら身体介護や生活援助を行います。ただ、仕事は一緒ですが、心持ちは違いますね。常勤ヘルパーは利用者の生活全般について、「これはこうした方が良い」と確認・指導しながら、責任を持ってみていくことが求められます。同時に、げたばきヘルパーの養成もしなくてはなりません。

げたばきヘルパーの場合は、常勤ヘルパーの指示で動き、何かあれば常勤ヘルパーにつなげばよいので、責任の大きさが違います。ですから、同じ仕事をしていてもげたばきヘルパーのときは精神的なプレッシャーがなく、気分的にはとても楽でした。

——南雲さんはいつまでげたばきヘルパーをされていたのですか。

71歳までやっていて、2年前に主人が亡くなったのをきっかけに辞めました。家では田んぼと花きの栽培をしているのですが、それも私が回していかなくてはならなくなり、気持ち的にも余裕が持てないな、と。それまでは週2~3回、30分~1時間くらいで仕事しており、「お昼ご飯を用意して置いてくる」といったサービスを利用している方のお宅をまわっていました。

——げたばきヘルパーの制度は全国的にも注目されました。

栄村は大雪が降る地域ですから、遠くから介護に来てもらうのは困難です。そうなると、いざというときに介護を必要とする人に適切な介護サービスが提供できません。利用者の近くに介護者がいるという状況をつくるため、げたばきヘルパーの養成が始まりました。制度が始まった2000年頃は100名以上のげたばきヘルパーがいたのですが、介護する側も高齢化していて数年前からはだんだんと数が減ってきています。

介護保険制度で変わった介護の現場

——長年、介護の現場に携わられてきて、昔と今とで変わったところはありますか。

介護保険が始まる前は、訪問先で色々な話ができていました。ヘルパーを始めて3年後くらいに制度が始まったのですが、介護保険では時間が制限されてしまうので、掃除して、洗濯して、食事をつくって、とやっているうちに時間がぎりぎりになってしまい、じっくりコミュニケーションをとる時間が持てなくなりました。その意味では措置制度(※2)の時代が懐かしいですね。措置の頃は訪問先の家の方から色んな話を聞いたりして、2時間くらいかけて生活援助をしたこともありました。

——介護の現場から離れて2年ほど経つとのことですが、現在はどんな暮らしをされていますか。

私のところは農家なので、主に田んぼや花きの仕事をしています。田んぼは一町(1ha)ほどあるのですが、息子3人に手伝ってもらいながらなんとか農作業にも慣れてきました。

また、ここ1年半くらいは要介護度4の義父の介護もしていました。その義父が1週間ほど前に特養(特別養護老人ホーム)に入ったのですが、手が空いたところでもう一度何か役に立てることをしてみたいと考え始めています。以前のように、家とは別のところで人のために仕事をする時間があってもよいのかな、と。そう思えるのも、気持ちに余裕が出てきたからなのでしょうね。ただ、94歳の義母がいるので、義母の状況次第というのもあります。今は自立していますが、今後どうなるかわかりませんので。

——やはり介護の仕事がお好きなんですね。

自宅で義父をみていたときには仕事のスイッチが入る感じでした。ミキサー食だったのですが、ご飯をつくって食べさせ、それで大きく口を開けて良い顔をしてくれるとうれしくて。こういう生活も悪くないな、と。義父が特養に入所してからは、楽にはなりましたが、なんとなく寂しくもあります。そういったこともあり、この頃はもう少しどこかで仕事してみたいと思い始めています。

家の仕事をしていてもちょっとした時間であればつくれるので、30分くらい外に仕事に出る時間があれば、気持ちも切り替わってよいのかな、と。最近は年に数回、虹色ボランティア(※3)という活動に参加させてもらっているのですが、そこで利用者の方や支援員の方と話をできるのが楽しみになっていて、そんなふうに外に出る機会は自分にとっても良い影響をもたらしてくれるように感じます。

過疎化によって住民同士の交流の機会も減少

——栄村は人口減少が続いています。日常生活のあり方に変化はありますか。

スーパーなどのお店は減ってきています。今は買い物は生協でしていて、あとは近郊の飯山や津南に行って用を足している感じです。以前は村内の森宮野原駅のそばにスーパーがあり、そこで買い物をしていましたが、2011年の長野県北部地震の後に閉店してしまいました。

洋品店や食堂なども閉じてしまいましたね。以前は、洋品店の店先に高齢者が集まって会話しているのをよく見かけました。そこが寄り合い所みたいな感じになっていて、バスや電車の時間までお茶を飲みながら話していたんです。洋品店がなくなったことでそういった光景も見られなくなりました。

そんな感じなので、車がないと用を足せなくなっています。昔は路線バスもありましたが、今はデマンドバスがあるくらい。私もそのうち運転できなくなると思いますが、そうなると不便になるだろうな、と心配です。

——住民の方たちが集まって一緒に活動するような機会はあるのでしょうか。

それも少なくなってきていると思います。特に何か組織だってやろうとするのは難しいですね。そういうところだと順番で役員が回ってきますが、それを面倒に感じてやめてしまうというのがよくあります。勧誘しても入る人はおらず、老人クラブも一昨年くらいに解散しました。かろうじてJAの婦人部が苗の注文をとったり国道沿いの植栽の管理をしたりしていますが、新しく入る人はいません。私もJAの婦人部に入っていますが、私たちより若い人はほとんどいなくて、いつ潰れるかわからない状況です。

ただ、外に出る機会をつくるという意味でも、楽しみとして活動できる場所は大事であるように思います。私は女性6人のグループで、山菜をとって市場に出したりおこわをつくって文化祭で販売したりしています。収益が出たらみんなで慰労会をしたりして、そういうのが楽しみになっていますね。これは組織だったものではなく、あくまでも個人同士の集まりなので気軽に活動できます。

高齢化が進み、行政サービスが追いつかない状況に

——南雲さんのお宅周辺では人々の生活の変化を感じるところはありますか。

私が栄村にきたときは周辺に50軒くらい住宅があったと思いますが、今は30軒くらいなのではないでしょうか。後継者がいないので、亡くなられるとそのまま家がなくなってしまいます。

一人暮らしの方も増えました。一人暮らしは特に雪の時期が心配です。村の方で雪下ろしなどの雪害対策救助員事業や道踏み支援事業があるので、「どうにかここで暮らせる」と言っていますね。そういった制度がないと冬は越せません。若い人ならよいかもしれませんが、ほとんどは先に旦那さんを亡くした高齢女性の一人暮らしです。80代や90代の女性が1人で雪を片付けるなんてできません。

最近は救助員さんもまわらなくてはいけないところが増えて、「近隣に息子さんなどがいる場合は遠慮してほしい」という話も出てきています。道踏みは雪が降ったときにしなければならないので、よそで暮らしている息子さんがやるのは難しいですが、屋根の雪下ろしはいつでもできるので身内で完結してほしいといった状況になっているようです。

——行政サービスも追いつかない状況なのですね。

ただ、昔は周囲の人たちが自然に助け合っていたように思います。制度ができたことで逆にそういう関係性が失われてしまったのかもしれません。また、以前に比べて住民の要求も上がっているというのもあるでしょう。昔は「かんじきで踏めばよし」という感じでしたが、今は除雪機で雪を飛ばして歩きやすくしないと満足できない。以前なら朝1回、救助員が道をつけてくれ、あとはみんな自分たちでなんとかしていました。常勤ヘルパーをしていたときには車にかんじきとスコップを積んで、道がなくなったら自分で道をつくっていましたね。

雪害対策などの制度は現実に即した制度で的を射ていたと思いますが、村の状況が変わり、考え直さなくてはいけないところが出てきたのかもしれません。げたばきヘルパーも然りで、養成されたヘルパーたちが高齢化してきて数も減り、制度そのものを見直さないといけない時期にきているように思います。

——時代に応じた制度の見直しが必要かもしれない、と。

ただ、時代に合わせるといっても具体的にどうすればよいのかは難しいですね。介護保険制度もできたときには「これはすごい」と思いましたが、実際にその制度のなかで仕事をしてみると、全てお金で計算されるというのは融通が利かないところもある。人と人との関係にはお金で計算できないものってあるじゃないですか。心のつながりのようなお金には代えられない部分で仕事をするというのは、それはそれで幸せだったな、と。

――南雲さん個人として、今後、どんなことに取り組んでみたいですか。

今年は、農作業とは別に自分のなかで満足いくようなことを何か一つくらいできればよいかなと考えています。農作業に慣れてきて義父の介護もなくなりましたからね。また、息子の1人が介護施設で相談員をしていたのですが、昨年から村役場で働き始め、私のところにもよく顔を出してくれるようになりました。同じ福祉業界で働いていたというのもあって、色々と相談でき、自分にとって心強い存在になってくれています。そういったことも含めて気持ちに余裕が出てきたので、また何か、外に出て役に立てることに挑戦してみたいと思います。

(※1)げたばきヘルパー…独自で養成した栄村住民のヘルパー。介護事業所からのアクセスが困難な集落において、24時間ヘルパーが駆けつけ、安否確認や介護ができるように養成された。げたばきヘルパーの名称は「近隣なら真夜中でも下駄を履いて駆けつけられる」ということから付けられた。 
(※2)措置制度…行政が主体となって提供する介護サービスを決定する制度。2000年に介護保険法が施行されるまで運用されていた。
(※3)虹色ボランティア…元々は障がい者の居場所支援として始まった活動。現在は障がい者や高齢者、子育て世代など、色々な人が集まり、交流を図る場を週1回設けている。

聞き手:坂本貴志
執筆:高山淳

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