能力開発の「空白」を、「キャリア自律」で埋めようとする危うさ
これまで能力開発やキャリア形成に関する調査・研究に従事され、2024年に日本企業の能力開発の現状と変化を分析した著作『日本企業の能力開発システム』(共編著、労働政策研究・研修機構)を上梓された藤本氏に、ご自身の研究を踏まえたGlobal Career Surveyの報告書『「日本型雇用」のリアル』の解釈や、日本企業の能力開発の課題を伺った。
評価や処遇、能力開発の情報が社員に届いていない。
企業と個人の間の「合意」が著しく弱い
——今回のGlobal Career Survey 2024の結果をご覧になって、どのように受け止められましたか。
いろいろと興味深い知見がありました。まずおもしろいと思ったのが、日本は、「業務命令により職種・勤務地が変わる」正社員の割合が高いのに、「職種・勤務地が変わらない」正社員の割合も高かったことです。会社に注目され、企業主導で異動させられる少数の社員と、注目されず、かと言って自分からも動かず放置された(=消極的な意味での企業主導)多数の社員が、企業内で併存していることを示していて、消極的な分化または個別化が広がっているという印象を受けました。
2つ目は、企業と社員の間での「同意」という要素の弱さです。自分に対する評価事項や、その評価がどう賃金などの処遇に結びつき、何が自分の処遇を決めているのかという認識が国際的に見て弱い。これは、企業と社員の間で、評価や能力開発に関するコミュニケーションがいかに不足してきたかを表しています。
3つ目は、「OJTは現場任せ」という結果です。私はもともと、日本の「OJT」と呼ばれるものは多くの場合「OJL(On the Job Learning=自分でやりながら覚える)」だと思っているんですが、この調査結果でも、「プログラム」「トレーニング」といった文言が選択肢に入ると回答率が落ちていて、非常に納得するものがありました。教育プログラムに基づかないということはつまり、職場任せになっているということであり、その結果私が著書で示したように、職場管理職の時間不足やノウハウ不足が個々の社員の能力開発に大きく影響していると考えられます。
4つ目は、「長期勤続傾向が強いにもかかわらず雇用不安傾向も強い」こと。これは本当におもしろいと思いました。先ほど言ったように、能力の評価が処遇とどう結びつくのかについてしっかりした認識がない状態で長年やってきて、昨今いきなり「キャリア自律しろ」「リスキリングをやれ」とあおられているのですから、不安になるのも当然という気がします。日本の企業別労働組合に関して「役割は主に給与の改善」という調査結果もありましたが、能力開発やキャリア形成のサポートまではできなくても、情報公開や個々の労働者への説明などを推進していくサポートくらいはできるのではないかと思います。
背景にあるのは、長期安定雇用を支えるために
存在してきた、能力開発=長期的能力開発という考え方
——OJTの機会も異動経験も少なく、評価や昇進、能力開発などの仕組みもブラックボックスな日本の雇用実態。昨今の「キャリア自律」の流れとは、非常に相性が悪いように見えます。
そうだと思います。日本企業の能力開発システムは、長期安定雇用を実現するという目的のための、「長期的能力開発」を行うべく形成されてきました。ところがにわかに「キャリア自律」と言われはじめた。社員にしてみれば、長年キャリアの選択や同意など求められたこともなくやってきたのに、いきなり選べと言われても困りますよね。社内公募制度などをはじめたとしても、それだけでは選択肢を与えたことにはならないのではないかと思います。
日本の企業の多くは、管理職昇進以外には、能力開発の組織的インセンティブを十分に提供できていません。能力開発やキャリア形成についてのコミュニケーションも十分にとってこなかった。こうした能力開発に関しての空白を、「キャリア自律」という言葉で埋めようとしているのが、昨今の状況なのではないでしょうか。埋めようとすること自体は悪くないのですが、しっかりとしたインセンティブやコミュニケーションが不足したままで進めてしまうと、空白が埋まらないままさらに深刻な問題が生じるのではないかと思います。
今後も進む個人の多様化。職場に放置されたままの
能力開発に、企業と人事は一刻も早く対応すべき
——ここまでのリアルな現状を踏まえて、今後、日本の雇用、企業と個人の関係性は、どうあればよいのでしょうか。企業は今、何をすればいいのか、お考えを聞かせてください。
上梓した著書(『日本企業の能力開発システム』)では、個別社員の配置や異動の決定を、人事部門から職場管理者(line manager)に分権化している企業がすでに3割に達していることを明らかにしています。個人の多様化に加え、人事の分権化まで進んでいるこの流れの中、社員の能力開発が何のサポートもなく職場に委ねられた状況は、現場にとてつもなく高い負荷を生んでいくことになります。
その負荷について、本当に全部が必要なものなのか、まず考え直していくことが必要です。その上でその重荷を、人事と職場と社員個々人とでどういうふうに分担できるか、あるいは負荷をかけずに済む方法はないだろうかなどと考えていく必要がある。そしてそれを主導するのは、やはり企業側、人事側なのではないかと思います。分権化が進んだとしても、人事としての責任というものは残ります。現場との関係において、「あなたたちが働きやすいように、仕事の中で成長できるように、そして働きぶりや成長を組織としての成果に必ずつなげていくように企業や人事が請け負うから、そこは心配せずにやってほしい」と整理することはできるのではないかと思うんです。それを放置してしまうと、職場管理職の負荷は限界に達し、社員個々人の面倒を見切れなくなり、結果、社員が孤立したり、さらに大きな不安をかかえたりして、能力開発への意欲を失ってしまうことになるでしょう。そういう一番まずい状況が起こり得ると思いますね。
聞き手 萩原牧子 石川ルチア 孫亜文 中村星斗 山口泰史
執筆 荻原美佳(ウィズ・インク)
プロフィール
藤本 真(ふじもと まこと)氏
人材開発部門/労働法・労使関係部門 副統括研究員
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程を経て、2004年より労働政策研究・研修機構に勤務。能力開発・キャリア形成に関する企業・職場・働く人々の取組や、公共職業訓練などの能力開発政策を主なテーマとして、調査・研究活動に従事。主な著作として『中小企業における人材育成・能力開発』(共著、労働政策研究・研修機構、2012年)、『日本企業の能力開発システム」(共編著、労働政策研究・研修機構、2024年)など。産業社会学、人的資源管理論専攻。