「健康は自分で守る」意識を高め、互いに支え合う職場へ 法制度以外のアプローチも重要

労働政策研究・研修機構 池添弘邦氏

2025年01月09日

労働基準法で時間外労働に上限規制が設けられるなど、労働者の健康確保を目的とした法整備が進められている。働き手の労働時間と労働災害の関係などについて研究してきたJILPT統括研究員の池添弘邦氏に、上限規制のもたらした効果や、労働者の健康確保のために何が必要かを聞いた。

池添氏の写真独立行政法人労働政策研究・研修機構(JILPT)統括研究員 池添 弘邦氏

1996年、日本労働研究機構(現JILPT)入職。主任研究員、副統括研究員を経て現職。専門は労働法。研究テーマは、労働時間、労働者の健康、管理職の働き方、職場管理。



労働時間規制だけでは不十分 業務の「中身」もチェックを

池添氏は、2019年に施行された改正労働基準法で時間外労働に罰則付きの上限規制が課せられたことについて「一定の成果があった」と評価する。施行当初から上限規制の適用対象だった大企業の状況を計量分析した研究によると、時間外労働を抑制する効果がみられたという。

ただ、上限規制が従業員の健康確保にまで効果があったかどうかは、客観的なエビデンスが不足していることもあり「判然としない」と話す。

行政が法律の順守状況をチェックする体制も十分ではない。労働基準監督官の総数は全国で約3000人にとどまり、全国に約500万ある事業場全てを回るには、定期監督だけでも30~40年かかる計算だという。労災事案が起きた職場が、事後に労働基準監督署から長時間労働で是正指導を受けるケースも多く、労災が起きる前に長時間労働を予防できてはいないのが実情だ。

また東京都の産業労働局が調査した結果、同法施行後、36協定を見直した企業は全体の4割に上った。全体の25~30%は上限時間を引き下げたが、法律の上限に合わせて、協定の上限を引き上げるいわば「本末転倒」な企業も10~15%あった。

事業主は従業員に対して指揮命令権を持ち、従業員は労働契約上、残業命令を断ったら業務命令違反になるという縛りがある。また命じられた仕事は真面目にこなすべきだという勤労観もあり、たとえ36協定や法律の上限を上回る長時間労働があったとしても、労働者には断れない状況が生まれているのではないかと、池添氏は推測する。

「単に法律で時間を規制しただけでは、健康確保への効果は限定的です。企業から労働者への仕事の『与え方』『させ方』をみなければ、長時間労働が本当に改善されたのか、過重な負荷を与えていないかといった実態は分からず、解決策も見いだせないと思います」

働き手自身が健康を守る 意識高める教育が不可欠

日本では学校や企業が定期健康診断を実施し、子ども時代から社会に出るまで手厚い保健衛生のケアが提供されている。このため個人で健康を管理する意識が育ちづらく、「従業員は企業がケアを提供することを当たり前だと考え、依存する面もあるのではないか」と、池添氏は疑問を投げかける。

近年は、裁量労働制や高度プロフェッショナル制度が導入され、副業・兼業も政策的に容認されて、自由度の高い働き方が社会的に広がりつつある。

「使用者の指揮命令権から離脱する人や、使用者によるコントロールの度合いが希薄な人も増えています。こうした中では他人や会社に頼らず、自分で健康を管理するという意識を働き手に植え付けることが公共の福祉にもかない、政策的にも妥当だと考えています」

ただ、池添氏が行った調査では、主観的にみて健康状態が「普通」以上だと答えた人は8割を超えたが、実際は健診受診者の4割は、所見に異常がみられるという。「自分の健康状態を正しく把握できない人に管理を委ねると、予防がおろそかになるなどして医療費が膨らむ恐れがあります。社会保障制度の給付費138兆円のうち、医療費は49兆円と年金に次いで多く、これ以上の増大は財政的な逼迫(ひっぱく)を招きかねません」

こうした事態を防ぐためには、学校教育の中で健康管理の重要性を伝える必要があると、池添氏は主張する。

「教育過程で過労死や長時間労働の弊害を子どもたちに教え、自己防衛の考え方を持ってもらうことは重要です。労働に関する法制度や政策の策定プロセスに、教育の専門家を入れることも考えるべきです」

また労働者自身に健康確保の責任を一定程度委ねるなら、会社側の指揮命令権も一部制約し、労働者が残業を断る権利や、健康に問題がある場合に会社側に配慮を求める権利などを保障する必要もある。

「労働安全衛生法などで規定されている健康確保措置も、従業員側が年休や育休などを申請した場合に、企業が断れない『形成権』として定めることを検討すべきかもしれません。いずれにせよ、労働者に法的な『武器』を与えることが大事ではないでしょうか」

自己責任を重要視する一方で「職場の気付き合い」も大事 管理職の役割も大きい

労働者が健康管理の主体になったとしても、職場が全く関与せず労働者を放置すれば、健康状態が悪化し業務が回らなくなるリスクが発生する。このため、制度的、組織的な関与は薄まっても、職場で労働者の健康確保の意識を高めるといった取り組みが求められる。産業医や産業保健師らの関与も大事だが、池添氏はそれ以上に、職場での日常的な関係性を重視している。

「職場のメンバーが日々、お互いに顔をみて話す中で、健康状態の変化に気付いて注意喚起をすることが非常に重要になってきます」

特に、管理職の果たす役割は大きいと考えている。例えば職場で残業をいとわない人がいると、さまざまな事情で残業できない人が萎縮してしまう。管理職は職場全体の残業を抑えるよう業務をマネジメントすると同時に、残業できない人に「帰ってくださいね」と声掛けするなど、きめ細かいケアも求められる。

しかし、日本の管理職は忙しい。課長、部長の多くはプレイングマネジャーであると同時にマネジメントも担っており、労働時間も長い傾向がみられる。

「管理職である以上、部下の気持ちや家庭の状況を把握し日々の業務を差配することは、なすべき業務に含まれます。ただ、職場改革・業務改革を通じて管理職が管理業務に専念できる環境を整えることも、遠回りではありますが働く人の健康確保にとって有効な手段になると考えます」

その一方で、大きな負担を担う管理職のメンタルケアも重要だ。原則的には部長から課長へなど、直属の上司がケアを担うことになるが、それだけでなく、部下から管理職へ「顔色が悪いので、帰ったらどうですか」と勧めるなど、声掛けし合うことも大事だという。

「自分自身の健康に対する意識を高めることは、周囲の健康に対する意識も高める効果があると考えられます。このメリットを活かすため、上司から部下へ、部下から上司へ、互いにモノを言いやすい関係性を作るのも、管理職の仕事と言えるでしょう」

企業の義務に濃淡をつける フリーランスや非正規

非正規労働者やフリーランス、副業・兼業者については「事業への関与の度合いに応じて、企業側の負う義務を強めたり弱めたりと濃淡をつけられるよう、制度・政策を考え直す必要もあるかもしれません」と話す。

例えば、副業先で起きた労働災害まで本業の使用者が責任を負うべきではないし、フリーランスも、事業運営への関与は正社員に比べて薄くなる分、使用者の責任範囲は狭まり自己責任の領域が拡大すると考えられる。ただ、業務請負の働き手に対しても信義則に基づく安全配慮義務が認められた最高裁判例があり、企業側が責任を負うべき局面もある。

非正規労働者についても、一時的なパートと基幹的な役割を果たすパートでは、企業の負うべき義務は異なる可能性があり、働き手と企業の関係性の実態に応じて決めていく必要があるという。

また、労働者の自己責任を基本に産業保健のグランドデザインを描いたとしても、企業が負うべき領域は必ず残されると、池添氏は考える。「たとえ組織的に関与する濃度は薄まっても、管理職らを活用し、従業員の健康確保の意識を高めていく取り組みは、引き続き職場に求められるでしょう」

法制度や法政策についても、一概に厳しくしたり緩めたりするのではなく、実態と法制度のバランスを取ることが大事だという。

「世の中の状況をみながら、まず自己責任を考え、その意識が浸透してきたら企業の義務を緩める、浸透しなければ厳しくするといった差配が現実的だと思います」


執筆:有馬知子

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