
今は時代の転換点 働き手自ら健康を管理し、政策やテクノロジーが「自ら助くる者を助く」
働き方の多様化や労働市場の流動化、生成AIの進化など働き手を取り巻く環境が急速に変化する中、従来の集団的な健康管理の手法は通用しなくなるのではないか。リクルートワークス研究所はこうした問題意識から「『新時代の多様な個人を起点とした健康確保』に係る研究会」(略称、シン・健康研究会)を設けて議論を重ね、報告書を取りまとめた。研究会の委員を務めた近畿大学法学部の三柴丈典教授に報告書が打ち出したメッセージや今後求められる取り組みについて聞いた。近畿大学法学部教授 三柴 丈典氏
1971年生まれ。1999年に一橋大学大学院法学研究科博士後期課程修了、博士(法学)。2000年に近畿大学法学部奉職、2012年より教授。専門は、労働法、産業保健法。2011年4月から2021年3月まで厚生労働省労働政策審議会安全衛生分科会公益代表委員。2014年6月衆議院厚生労働委員会参考人。産業保健・安全衛生法に関する著作を多数執筆。2020年8月にUKのラウトレッジで研究書を発刊。2020年11月に日本産業保健法学会を設立し、現在副代表理事。
安全衛生政策も個別対応の時代へ
――研究会に参加した感想と、報告書の意義について、ご意見をお聞かせください。
研究会では、タブーを排して自由闊達(かったつ)な議論を交わすことができました。報告書も、個人を基点にした健康管理が必要というメッセージが分かりやすく示され、新しいフェーズへの転換を明示したものとして、意義が大きいと考えています。
安全衛生や労働基準の政策は今、一律の基準ではなく働く人の能力や健康状態、価値観などに応じたテイラーメイドの対応が求められています。例えば労働時間に関しても、働き手の心身の健康状態などに応じた個別対応の方が、実態に合っています。最低基準の規制を掛けるべき過酷な職場もありますが、大きな流れとしては一律的な規制から、法の趣旨を現場にマッチさせ、「生きた法」にするという、「在り方への転換点」に来ていると言えます。
また組織の側も、一律のコンプライアンスを守るより、組織と働き手のマッチングを通じて、双方の個性と納得感を最大化するという「その組織らしい」施策を講じることが重要になっています。
――労働安全衛生法は従来、労働者保護において一定の役割を果たしてきました。ただ同法は成り立ちからみて工場で働くような人を平均的な労働者像に設定しており、サービス産業で働く人の増加といった、就業構造の変化に対応しきれないのではないかという指摘もあります。
安衛法は歴史的にブルーカラーを守ることからスタートしましたが、労働市場の変化に伴い保護の対象がホワイトカラーへ広がり、さらにプラットフォームエコノミーの発展などによってフリーランスなどへも拡大しつつあります。このため「雇う者に雇われる者を守らせる」という、雇用契約を軸とした在り方を見直し、守るべき対象を再定義する必要があります。指揮命令を直接受けて働くという人的従属性だけでなく、事業に経済的に依存しているという経済的従属性、事業の仕組みに組み入れられているという事業的従属性も考慮して、対象を設定すべきでしょう。これに伴い安全衛生の管理責任を負う主体も、雇用主にとどまらず業務発注者や運輸業の荷主、プラットフォーム運営者ら、働き手のリスクを創出し、そのリスクを管理している人へと拡大することを考えていくべきです。
守るべき対象が雇用されている労働者から幅広い働き手へと広がれば、労働基準関係法制だけでなく、いわゆる内職者を対象とした家内労働法、下請け業者との公正取引を支える経済法・経営法など、幅広い法律が関与することになります。事故や災害が起きた際の賠償や生活保障という面で、民法や社会保障関連法との関わりも重要となってきます。出典:三柴教授作成
「健康」も人によって異なる 個別対応にAI活用は不可欠
――研究会では「働く人の健康とは何か」がテーマとなりました。安全衛生の領域も、工場内・事業場内での事故に伴うものからメンタルヘルス、生活習慣病などに広がってきています。
体の健康状態は数値化しやすいですが、飲酒・喫煙といった生活習慣やメンタルの状態は、個人の生き方や価値観に根差しており、絶対の指標はありません。このため、安全衛生がカバーすべき「健康」の在り方も、個人を起点として再定義する必要があります。
心身共に良い状態を指す「ウェルビーイング」もWHOの定義はあるにせよ、働き手個人のレベルでは「持病があっても精神的に豊かに生きる」「お金を稼ぐ」など、人によって認識が異なります。このため多様な働き手一人ひとりが、専門家と相談しながら納得できる生き方を自分で選ぶという在り方へ、発想を転換する必要があります。
――報告書でも、予防のための健康管理には、デジタルヘルステクノロジーの活用が有効とされていますが、健康確保の個別化に、AIをはじめとするデジタルヘルステクノロジーはどのように関わっていくとお考えでしょうか。
例えば働き手の心の健康を維持するには、その人にとって働きやすい職場や業務をマッチングするという人事労務管理が不可欠です。さまざまな事情を考慮した個別のマッチングは非常に複雑で、AIの力なしにはなかなか成り立たないでしょう。このほか個人の健康情報をAIに読み込ませて健康に関するアドバイスをさせたり、集団のデータを分析させ、予防策を提案させたりといった活用法も考えられます。
デジタルヘルステクノロジーは、既にウェアラブルデバイスを用いるなどの形で日常的に健康を支える仕組みとなりつつあります。しかし常に健康状態を監視されることが、メンタルヘルスに悪影響を与える恐れもあり、過剰な介入を避けつつ予防的なアプローチを進めるというさじ加減が重要になってきます。AIの活用に失敗して事故や災害が起きた場合に、プログラマーやデータ入力者、導入の意思決定者などのうち誰が責任を取るのか、という問題が生じる可能性もあります。出典:三柴教授作成
職場の環境整備は企業の責任 生活困窮者には社会が支援を
――働く人が自ら健康管理をする意識を持つことが重要になる中で、企業に課せられる義務はどのように変化していくと考えられますか。
製造現場で有害物を排除するなどの環境整備については、引き続き管理責任を負うことになるでしょう。プラットフォームの運用するシステムが、働き手に過剰なプレッシャーを与えるなどして健康障害や交通事故などを引き起こすような場合も、運営者が管理責任を問われるようにしていく必要があります。
一方で、個人を起点にしないと本来の健康対策は進みません。副業・兼業を自発的に選択している人について、労働時間や安全衛生の管理責任を企業に負わせることには無理があります。個人起点の健康管理には、デジタルヘルステクノロジーの発展が大いに貢献すると考えています。生計を立てるためやむなく低賃金のパートを掛け持ちする兼業者などについては、社会的にサポートをしていく体制を整備すべきです。
また、個人起点の健康対策が進む中での健康障害が起きた場合の補償の在り方、負担の在り方についても、検討していかなくてはなりません。
――報告書では、企業の内と外からの働く人への寄り添いが必要とされ、外からは医師、保健師その他の専門職が連携する総合チームで寄り添うことが求められています。こうした専門職は、どのように関わっていくべきでしょうか。
職場では今、本人に起因するのか職場に起因するのかが明確でない複雑な作業関連疾患を抱える人が増えています。こうした場合、人事担当者や医師、弁護士らが多角的に関わり、本人の自立した健康意識を高めていく必要があります。具体的には専門家が本人の意思に基づき、家庭に問題があるなら生活の立て直しをサポートしつつ、会社側とも連携して業務負担や配置の見直しを促すといった対応が望ましいでしょう。
「健康」をどう実現するかはそれぞれ 予防の視点も重要
――事業主が健康情報を把握するという現在の在り方については、どのように考えますか。
技術の進展に伴い、情報管理の仕組みは構築しやすくなりましたが、それでもミスによる流出や悪用は起こり得ます。しかしリスク回避のため取り扱いのハードルを上げすぎると、健康管理や人事管理に必要な情報まで扱えなくなる恐れがあります。流出のリスクと活用のメリットを引き比べながら、取り扱いの基準を厳しくしたり緩めたりする必要があります。
行政は健康情報の取り扱いについて、本人の同意を取る、組織内でルールを策定するといった4つの基準を設けていますが、本人の同意が取れないケースがあることからも、個人的にはこの基準に、情報が偏見をもたらす内容か、職場で管理可能か、業務遂行や職場の秩序に影響するか、の3つも加えて判断すべきではないかと考えています。例えば働き手の病気が、強い偏見にさらされるもので、職場では対処のしようがなく、業務に支障を来さない場合は取り扱いを厳格にする、といったやり方です。こうした作業も人の力で行うには限界があり、生成AIに力を借りる必要があるでしょう。
――報告を踏まえて、今後取り組むべきことは何でしょうか。
私たちは現在、テクノロジーが加速度的に発達し、人間の担う仕事が絞られていくという大きな時代の転換点に立たされています。こうした中、健康管理についても今までと同じ考え方では対応できなくなり、働き手が健康を自ら管理するという発想が求められるようになりました。
企業の施策や国の政策も、働く人にとって何が「健康」で、誰の手を借りてどのように「健康」を実現するのかを個別的、多角的に考える必要がありますし、事後対応より予防の視点を強化する必要もあります。AIなどの技術を活用しながら、「天は自ら助くる者を助く」という自助の取り組みを進めつつ、公助も忘れないような、個人を起点とした健康確保を進めていくことになるでしょう。
聞き手:松原哲也
執筆:有馬知子