企業の把握する健康情報は、必要な範囲に絞り込む 働く人自身が一定のコントロールを

関西大学法学部准教授 河野奈月氏

2025年01月27日

身長体重や持病などの健康情報は、本来個人の機微に触れる重要情報であり慎重に取り扱われるべきだ。ただ産業保健の分野では、企業が幅広い健康情報を把握することが法的にも認められており、その結果、情報が拡散してしまうリスクも生じている。健康情報取り扱いの在り方について、関西大学法学部准教授の河野奈月氏に聞いた。

河野氏の写真関西大学法学部准教授 河野奈月氏
専門は労働法。主な研究テーマは、職場でのプライバシー・個人情報保護の在り方について。主な論文として「労働関係における個人情報の利用と保護(1)〜(7・完)」法学協会雑誌133巻12号1859頁、134巻1号1頁、同2号217頁、同3号341頁、同5号765頁、135巻1号73頁、同11号2684頁、「労働者の健康情報の取扱いをめぐる規制の現状と課題」季刊労働法265号89頁等がある。

健康情報、保護と利用のバランスに難しさ

――健康情報はプライバシーの機微に触れ、企業も含めた他者がそれを把握することで、差別や解雇を引き起こすリスクがあります。健康情報の取り扱いについて、どのような問題意識を持っていますか。

日本の職場では従来、個人情報保護の意識はかなり希薄でしたが、近年ではその重要性が労使の間でも共有されつつあります。しかし職場では、労使が共有せざるを得ない情報も多く、情報を把握してよいか、把握すべきでないかという単純な話でもないのが難しいところです。

企業側は一般的に、労働者の健康に配慮する安全配慮義務があり、義務を果たすためには健康情報の把握が必要不可欠です。また企業が従業員の労働力を評価し、それを踏まえて採否や配置、昇進などを決めるためにも、心身の健康状態を知ることが必要です。

一方で個人の心身の健康状態や病歴に関する情報は、私生活・私事の中核に位置する情報であり、また偏見・差別の原因ともなり得ることから、情報の取り扱いを制限する必要性も大きいです。しかし現在の制度のもとで、健康情報の利用と保護の適切なバランスが取れているかには疑問があります。

――個人情報保護法は、基本的には本人の同意があれば情報を取れる建て付けになっています。企業は健康情報を、どこまで把握すべきでしょうか。

日本も欧州も、健康情報を特別なカテゴリーの個人情報と位置づけており、個人情報の中でも特に慎重に取り扱うべきだという認識は共通しています。ただ欧州では、労働関係においても健康情報の取り扱いは大きく制限されています。欧州の企業が従業員一般を対象に健康診断を実施し、その結果を把握することは、たとえ従業員への配慮として行われたものであっても、プライバシー・私生活の保護や、障害者差別の抑止の観点から、許されないと考えられています。米国でも障害者差別の一形態として位置付けられるため、健康診断の実施を制限するといったことが行われています。これらの制限は、本人の同意の有無を問わずかかってくるものです。

他方、日本企業は定期健康診断を通じて広く従業員の健康情報を把握することが法律上義務づけられていて、時には法定義務を超え、福利厚生として法定外の健康診断などを行うこともあります。日本のように、企業側に情報が伝わることを前提に健診を実施する国はあまり例がありません。

現在の法定健診は項目が多く、仕事特有の健康リスクだけでなく私傷病のリスクもカバーするような内容となっています。しかし私傷病の予防も含め、労働者本人の健康のためとして、多くの健康情報を把握する現状には疑問を感じます。企業が本人同意の有無を問わず健康情報を把握できるのは、仕事をする能力・適性の把握や、第三者の健康・安全の確保など、企業固有の正当な利益がある場面に限定し、自らの健康確保のために企業に健康情報を提供するかどうかは、労働者の自己決定に委ねるべきではないでしょうか。

情報管理も個人主体の健康管理が前提に

――デジタルの世界では、「同意する」をクリックしなければ先へ進めないためやむを得ず同意するケースもあるなど、本当に本人の意思を示しているのか疑義が生じるケースも少なくありません。同意の在り方についてどう考えますか。

個人情報保護法や労働安全衛生法(安衛法)では、目的達成に必要な範囲を超える個人情報であっても、本人の同意さえあれば取得可能です。しかし欧州では、同意があっても得られる情報は目的達成に必要な最小限の内容にとどまります。私生活に関する情報や個人情報には、本人同意の有無にかかわらず侵害が許されない部分があるという考え方からだと思います。

これに対し、日本では、本人同意の有無にかかわらず適用される規制が乏しい上、「同意」を緩やかに認定する傾向があります。例えば安衛法に関する省庁の手引き書には、労働者の個別の同意は必ずしも必要ではないと示唆する記述があったり、同意一つで将来にわたる包括的な情報取得が可能になる同意書のひな型を示していたりします。実務上も、就業規則に盛り込めば個別の同意は不要だとの認識も広まっていますが、こうした同意の取り方は改めるべきです。

また安衛法は健康情報の取り扱い規程を、労使で策定するよう定めています。しかし健康情報の取り扱いに対する労働者の関心の度合いや意向は、健康状態や病歴、遺伝的特徴や個人の考え方によって異なる部分も大きいと考えられ、労使の集団的な関与・決定になじみにくい部分もあります。労使合意や本人の同意があったとしても企業が取り扱うべきではないという、最低限のラインを設定することも必要ではないかと考えています。

――働き手が企業に常に健康情報を渡すことに慣れてしまうと、健康は企業が守って当然、といったマインドが定着しかねません。全てを企業任せにするのではなく、働く人自身が健康を管理する意識を持つ在り方へ、変える必要があるのではないでしょうか。

雇用が多様化・流動化してフリーランスという雇用労働ではない働き方も広まる中、こうした人々へ、法定健診を含む安衛法の枠組みを全面的に当てはめようとするのは現実的ではありません。個人が主体となって健康管理を行うことを前提に、健康情報の取り扱いをめぐるルールの在り方を再検討することが望ましいでしょう。

健康状態や病歴などは、専門的知識を欠く人が把握した場合、偏見・誤解を生じさせやすい情報です。現在の制度のもとでは企業が健診を行うことで、人事担当者や管理職に従業員の病歴などの情報が伝わり、仕事をする上で具体的な支障はなかったとしても、偏見や誤解を招いて業務のアサインや昇進に影響するリスクもあります。専門知識のない管理職等にとっても、健康情報を把握して意味を正しく理解し適切な措置を取ることは、責任が重すぎると言えます。例えばフランスでは、企業から独立した労働医が健診を実施し、健診結果について守秘義務を負うことが法制化されています。事業主に生データは伝達されず、労働者の健康状態がポストに適合しているか、配置転換の必要があるかといった情報に変換して伝えられます。日本の現行の産業医制度を前提とする限り、こうした仕組みを直ちに取り入れることは現実的ではありませんが、専門知識のある人だけが健康情報を把握し、人事に関する情報に変換して他者に伝えるという発想は、参考になると思います。

安衛法の基本思想を見直し、情報を絞り込む方向で改正を

――デジタル技術の進展という面で、企業が多くの健康データを持つことによって想定されるリスクはあるのでしょうか。

デジタル技術の進展や遺伝学研究、ゲノム医療を含む医療の発展により、健康情報が持つ価値は今、従来とは比較にならないほど大きくなっています。企業側が健康情報などのデータを使って、従業員一人ひとりの将来の健康状態を予測することも可能になりました。このため将来の健康度合いを序列化し、それをもとに採用可否を決めたり、昇進の判断に使ったりといったことも起こり得ます。

個人の労働能力・適性の評価に、プロファイリングされた将来の健康状態に関する情報が入り込むことが、果たしてあるべき姿なのか。これからは、従業員の健康情報は従来想定していなかったような用途で使われ得るのだということを踏まえて、適切な規制を検討する必要があるでしょう。

――今後、どのような改善が考えられますか。

広く労働者の健康確保措置を講じることを「良し」とする安衛法の基本思想を変え、企業に提供される情報を絞り込む方向で考えていくべきです。法令で明確化することに限界があるなら、ガイドラインや書式のひな型などの緩やかな形で、企業による取り扱いが「必要な範囲」を限定するためのポイントを、行政が具体的に示すことが望ましいと思います。健康情報を取り扱う者を企業内で限定し、守秘義務違反には厳正に対処するよう求めるということも考えられます。

法定健診そのものを見直す必要性もあると思いますが、職場での健診が公衆衛生の中で果たしてきた役割は非常に大きく、廃止するとなればさまざまな副作用が生じることも予想されます。法定健診の項目を見直すことや、職場での健診の仕組みは変えずに情報の流れを変え、ストレスチェック同様、使用者への結果通知を労働者が拒否できる仕組みにすることも一案です。本人が健康情報を「提供しない自由」を行使する場合には、企業の安全配慮義務の範囲も縮減すると考えられ、安全配慮義務の在り方も変わるでしょう。


聞き手:松原哲也
執筆:有馬知子

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