企業から労働者個人をサポートする立場へ 産業医を変える――HJ Link-do/神栖産業医トレーニングセンター・田中 完氏

2024年12月03日

2022年に開設された神栖(かみす)産業医トレーニングセンターは、産業医育成を目的とした日本初の民間医療施設だ。同センター統括指導医の田中完氏に、これからの働く現場や地域で産業医が果たす役割や、産業医と地域医療の連携の在り方について聞いた。

田中氏の写真株式会社HJ Link-do 代表取締役/
神栖産業医トレーニングセンター 統括指導医 田中 完 氏
2005年産業医科大学卒業。名古屋徳洲会総合病院救急総合診療科勤務の後、2009年新日本製鉄(現 日本製鉄)に産業医として入社。2022年に同社を退社し、民間医療機関では日本初となる産業医育成機関である神栖産業医トレーニングセンターを設立。(株)HJ Link-do代表取締役。日本産業衛生学会指導医、社会医学系指導医。労働衛生コンサルタント。茨城産業保健総合支援センター産業医学相談員。著書、講演多数。

産業医の派遣と健診、医療を連携し、一体的な産業保健サービスを提供

――産業保健を取り巻く現状と課題をどのように考えますか。

産業医は座学のみで無試験で資格を取れるので、医師によって経験や知識の差が大きいという質の問題があります。また産業医の報酬は、企業の従業員数が多いほど高くなるので、規模が小さい企業ほど少なく、活動時間が短くなりがちな構造です。このため中小企業では、職場の巡視や必要な会議への出席など法的に必要最低限の活動が主体になり、組織介入や企業の求めている活動に時間を割けないという「産業保健サービスの格差」が生まれています。労働者の9割を占める中小零細企業の働き手に、必要なサービスが届きづらくなっているのです。

――センターの活動とその狙いについて教えてください。

センターの目的は、産業医の拠点化と育成、データ集約と研究、労働者へのサービス開発、産業保健チームの設立、地域の病院や大学との連携、報酬の定額制(実績払いからの脱却と産業医の能力別価格の設定)です。育成について当センターは社会医学系専門医と日本産業衛生学会専門医の研修施設として、主にOJTで産業医を育成しています。半年に1回、有害物質や有害な働き方、健康管理や組織との連携など、基本的な能力と知識に関する162の項目をチェックし、8割を満たした段階で卒業となります。産業医には知識とノウハウだけなく、労働者に寄り添う姿勢も必要なので、マインドの育成にも力を入れています。

医師が1人で力を身に付けるより、集まって互いに学び合う方が効果的なので、2025年4月にはつくば市、その後は熊本県や名古屋市など、全国各地にセンターを展開する計画です。一方で、施設にアクセスできない人が個人で学べるよう、将来的にはサブスクリプションでオンラインの教育サービスを展開できればとも考えています。

産業医トレーニングセンターの説明画像
――企業に対してはどのようなサービスを提供し、どのようにして継続性を担保しているのでしょうか。

当センターと産業医契約を結んだ企業には、社員向けの教育・講演、カウンセラーとの面談、訪問日以外のイレギュラーな対応・相談、健康管理システムなどを提供しています。料金は定額制で、中小企業にも手厚いサービスを用意しています。企業側も追加料金を気にすることなく困りごとを相談できるため、職場に隠れた課題があぶり出されるメリットもあります。

当センターは病院が基幹施設となっており、産業医の派遣と健康診断の実施、診断後の外来受診を一体で提供して、その収益をシェアすることでビジネスを成立させています。例えばがん検診などの受診率が低い企業で、産業医が社員を啓発して受診率が20%から50%に上昇すれば、労働者の健康維持につながり、検診による医療機関の利益も増加します。さらに治療の必要な労働者を病院につなげば、診療報酬を得られます。バラバラだった産業医と健診、病院を連携させることで、産業医報酬にこだわらなくても収益を確保でき、労働者と企業、産業医にも「三方よし」の状況が生まれるのです。

産業医を中心とした医療支援モデルの説明画像

企業規模による「産業保健格差」を解消

――リクルートワークス研究所が開催する「シン・健康研究会」では、サービス業従事者や非正規雇用の働き手が増える中、これまでの産業保健制度が時代に合わなくなっているのではないかとの指摘がありました。新しい産業保健制度は、どのような姿が望ましいでしょうか。

従来の制度は、安全や衛生、健康を「害するもの」から労働者を守るために作られていますが、これからは一歩進んで「労働者が幸せに豊かに働く」ためのサポートをすべきだと考えています。具体的には、良質な情報の提供と啓発などを通じて正しい選択を促し、健康増進に向けた行動を促すのです。

従来は資金のある大企業だけが、福利厚生でこうしたサービスを提供してきましたが、これからは中小企業の労働者も等しく恩恵を受けられる仕組みを作る必要があります。

――副業、兼業が許容される中、個人の働く時間を企業が通算で管理するのは難しくなりつつあります。またコロナ禍以降、テレワーク主体の職場から出社主体の企業まで、企業の働き方も多様化しました。次世代ヘルスケアの在り方をどのように考えますか。

労働安全衛生法は主に工場内の安全確保など、ある特定の「場」にいる従業員の健康を集団的に管理するという建付けになっており、副業・兼業や在宅勤務などが普及する中で、限界も生まれています。健康管理は集団から個人へ移行し、産業医も企業に紐づくのではなく、労働者が個人で利用する形になるのではないかと考えています。

また集団で管理する場合、仕組みである程度コントロールできますが、個人に健康行動を促すには、インセンティブが必要です。オンラインの食事管理や運動指導、カウンセリングといったデジタル技術を活用し、健康維持のメリットを実感させることも大事です。例えば、健康優良者の生命保険料を安くする、努力によって健康を維持していることを、ビジネス上でも評価するといったことも検討すべきかもしれません。

――日本では法的にも、企業が労働者の健康診断のデータなどをほぼ全て把握することが可能で、海外に比べると個人の健康情報の取り扱いが緩い印象もあります。

確かに外国人の高度人材は、健康診断のデータを企業に出すことへの抵抗感が強いですし、雇用主との信頼関係をもとに、全てのデータを提供する時代ではなくなりつつあります。産業医が企業から独立した外部機関なら、労働者が必要な検査や評価を受けて、評価結果だけを企業に提出できます。

私たちは、主に中小企業向けに健康管理システムを無償で提供し、労働者個人の同意に基づいて健康データを管理しています。中小企業の労働者は流動性が高いので、個人にデータを紐づけて外部に保管した方が、転職や定年後も含めた長期の支援をしやすいと思います。

地域の病院が、産業保健の「ハブ」になる

――「シン・健康研究会」では、産業保健と地域医療を連携して限られた資源を有効に使い、都市部と地方の格差を解消すべきだとの指摘も出ています。具体的にはどのような連携が考えられるでしょうか。

地域の基幹病院が、臨床医と産業医を結び付ける「ハブ」の役割を果たし得ると考えています。外来診療を行う医師が、臨床の事例などを示して健康の大切さを伝えると説得力がありますし、産業医も、労働者を治療につなげるにはある程度、臨床の知識が必要です。両者の連携は本人たちのスキルアップにもつながりますし、場合によっては両者が融合していくこともあり得ると思います。病院がハブになれば、そこで働く栄養士が中小企業で栄養指導をしたり、理学療法士が腰痛予防の運動を教えたりするなど、病院の医療資源を企業に提供することもできます。

病院だけでなく、地域の保健師などとの役割分担も必要です。当センターでも、産業医のほか保健師やカウンセラー、衛生管理者らをチームとして中小企業に提供し、シナジーを持たせたいと考えています。

――労働者はこれまで、健康に関するデータを全て提供していることもあって、その見返りに企業に健康を守ってもらえるのは当然と考えていたように思います。しかし自分の健康は自分で守る意識を高める必要があるのではないでしょうか。

労働者に自律的な行動を促すには、「豊かに幸せに生きる上で、健康を自分自身で確保していくことが重要」というマインドを持ってもらう必要があります。そのためには本人たちに「何のために生きるか」「どんな人生が幸せか」を考えてもらわなければいけない。労働者の中には、収入や業務を優先し、生きる目的に向き合わずに中高年期を迎えて「迷子」になってしまう人も意外に多いのです。こうした人は健康を後回しにして、健康アプリなどヘルスケアのツールも使おうとしないし、事業者が発信する情報も届きづらい面があります。

勤め先企業なら、全従業員に情報を行きわたらせることができます。また近年は企業も、パーパス経営などを通じて、社会に果たす役割やどう生きるべきかを、従業員に考えるよう促しています。企業の果たす役割は変わっても、産業保健において企業が重要な存在であることは変わりませんし、そこに産業医が加わることで、効果が増すという形が理想的です。

聞き手:松原哲也
執筆:有馬知子

関連する記事