【議論】健康確保も働き手が主体的に行動する時代へ 企業は多様な選択肢を提供――田中克俊氏×松原哲也
人口減少や働き方の多様化に伴い、企業が従業員の健康を画一的に管理する従来の在り方も変化を迫られている。シン・健康研究会の構成員であり、メンタルヘルスをはじめとした健康マネジメントに詳しい北里大学大学院医療系研究科教授の田中克俊氏と共に、労働者が安心して働くための新しい健康の守り方について考えた。
北里大学大学院 医療系研究科 教授 田中克俊氏
リクルートワークス研究所 客員研究員 松原哲也
シン・健康研究会の「議論の整理」について
松原:先生にご参画いただいている「シン・健康研究会」では、これまで議論された内容の整理を行っています。総論としてまとめた5つのポイント(下図参照)について、ご意見をお伺いできますか。
田中:未来を踏まえた視点を押さえていると思います。企業が世話を焼きすぎると、働く人が自ら考えることができにくくなり主体性が損なわれます。また、企業規模やパート、アルバイトといった働き方による健康格差を解消するためにも、健康確保の裁量権と責任、チャンスを個人に委ねる方向に向かうべきです。それに伴い企業の役割は、地域などと連携して教育や介入の機会を提供することへ変わっていくでしょう。
ただ若い世代はコロナ禍の経験もあって、「会社が健康を守ってくれる」という意識が薄れ、いざとなったら自分の健康は自分で守るしかないと思うようになった人も増えていると感じます。
シン・健康研究会 第5回までの議論の整理
テレワークの普及などで労働者の裁量が拡大 健康リスクも個別性が高まる
松原:コロナ禍で急速にテレワークが普及し、副業、兼業を認める職場も増えて、一企業が従業員の健康を守るのは難しくなりつつあります。産業保健の現状を、どのように分析されますか。
田中:コロナ禍による在宅勤務の普及は、産業保健にも変化をもたらしました。従業員が勤務時間中に仕事を「中抜け」して、その分夜に働いたり、また週末に兼業、副業に従事したりと自由度が高まり、これまでのように同じ職場で一緒に働く人を想定した一律的な健康管理のやり方は難しくなっています。また、在宅勤務は、職場と自宅、仕事と家族との壁を低くしましたが、その中で従業員だけに焦点をあてて健康管理を行うのもあまり効率的ではありません。今後の健康管理は職場に限定せず、いろいろなチャンネルを通して家族や周辺の人も巻き込みながら進めていく必要があると思います。
松原:中小企業の従業員や非正規雇用の労働者には、産業保健が及びづらいことも課題となっています。特に近年は介護や小売、飲食などのサービス産業に従事する非正規労働者の比率が高まっており、働く人の現状に合わなくなっているとも感じます。
田中:ご指摘の通り、従来の産業保健や労働安全衛生に関わる法制度は、大企業や製造業の従業員を念頭に作られています。製造現場での危険作業や有害物質への暴露などは、健康リスクとの因果関係が明確で対処しやすいですが、それ以外のリスクについては「こうすればこの人の健康を守れる」という明確な方法が確立されておらず、対策をフォーマット化しづらいのです。特にメンタルヘルスのような個別性の高い問題を、一律の手法でコントロールするのは難しい。個別のニーズに合ったサービスを自ら取捨選択できるシステムにすれば、効果は上がると思います。
「どう生きたいか」が主体的な健康管理の前提に
松原:働き方改革で労働時間に上限が設けられたのは、野放図に働くことを是とする価値観を変えるという意味で、非常に意味があると思います。ただ一方で、心身の健康維持に関する明確な物差しが他にないため、まずは時間を強い基準とせざるを得なかったとも言えます。あえて言えば、同じ長さの時間外労働をした人が全員健康を損なうわけではないですし、長時間労働をしていなくとも健康を損なう人はいます。労働時間以外に基準はないものなのでしょうか。
田中:医学的、生物学的な基準としては睡眠時間が最も重要だと思います。最低でも6時間睡眠を確保できる仕組みは必要です。また労働時間以外にも自分の大切なもの、例えば家族とのだんらんや趣味を楽しむための時間と心理的な余裕が確保されているかも、働き方を評価する一つの基準になるかもしれません。
そもそも健康は、自分の望む生き方を実現するための手段です。このため「自分はどう生きたいのか」という考えをまとめていく過程で、自然と健康の重要性に気が付き、主体的に健康管理に取り組むというのが本来の流れだと思います。
命と健康を守るのは自分 企業は教育と健康維持の選択肢を提供
松原:企業が従業員の健康を害さない環境を整備することは大事ですが、働き手が企業に身長、体重など全ての健康情報を渡すことと引き換えに、健康管理を「丸投げ」しているような現状には疑問も感じます。命と健康は働く人本人のもので、基本的には個人が自分の健康を管理すべきではないでしょうか。
田中:企業は長労働時間や有害物質への暴露を防ぐなど、基本的な作業管理や環境管理を担い、それ以上の予防や健康増進は、個人の責任で行う形が望ましいと思います。
残念ながら健康診断の有所見率は増え続けており、従業員の健康管理に費やす労力が本当に有効に機能しているかは分からないのが実状です。これからは、自分の健康は自分で守るという意識を向上させ、企業からだけでなく世の中にある多様な健康サービスの中から、従業員が自分のニーズや興味に応じて、主体的に選択する形にするのが望ましいと思います。
デジタルの可能性は大きい リテラシーに合わせ多様なツールを用意
松原:健康管理、健康確保を個別化するには、AIなどデジタル技術の活用も将来的に大きなポイントになると思います。一方でデジタルツールは、使える人とそうでない人との格差を生む懸念もあります。デジタル技術を有効に活用するには、どうすればいいとお考えですか。
田中:デジタルツールの可能性には、大きな期待を寄せています。AIに何十年後かの自分の健康状態を予測させ、それを基に今どんな健康づくりをすべきかを考えるといった時代も来るでしょう。メンタルヘルスの不調を感じた時、ファーストゲートとしてデバイスと対話することで、患者の思考を外在化するというカウンセリング効果もある程度見込めるかもしれません。クリニック受診に抵抗があって対面診療に行けない人も、デジタルツールならアクセスしやすいという利点もあります。
ただデジタルリテラシーは人によってさまざまなので、一律に同じデバイスを導入するのは難しいでしょう。基本的な情報提供のツールから対話型AIまでさまざまなツールを準備し、レベルに応じて選べるようにする必要があります。一度ツールを使えば便利さを実感し、より高度なツールを使おうとする人も出てくるでしょう。
働き方に中立な健康管理を提供し、格差を解消
松原:大企業と中小企業、正社員と非正規雇用労働者の間で、健康管理へのアクセスに格差も存在します。どうすれば格差を解消できるでしょうか。
田中:企業規模や雇用形態で、自分の健康を守る手段に格差が生じている状況は改めるべきです。ただパート・アルバイトや副業・兼業者、企業規模別などに応じて、健康管理の手法を細分化するのは難しいですし、効果的でもありません。だからこそ、今後は健康管理を企業や職場ではなく個人のニーズに合わせていくことが重要になるでしょう。
また限られたリソースを産業保健と地域保健に分けていては、コスト面でもいずれ行き詰まってしまいます。将来的には、個人の健康管理は地域と職域が連携・一体化して、さらに介護、障がい者も含めた保険制度全体を連携させて取り組むことで、健康サービスを効率化させる必要があるかもしれません。
地域に多様な相談先を整備 働き手の裁量と選択肢を広げる
松原:健康不安に陥った時、専門家である医師や保健師ではなく身近な上司や先輩に相談するという人も少なくありません。ただ管理職は健康に関する専門知識を持っているわけではないですし、日常業務もある中で部下の健康管理まで担うのは負荷が大きすぎます。職場でのサポート体制をどう構築すべきだとお考えでしょうか。
田中:従業員は「会社に体調不安を知られたくない」と考えるのが普通ですから、人事との関わりが深い産業医には相談しづらいでしょう。管理職はとても大事な役割を負っていますが、そう気軽に相談できるわけでもありません。例えばメンターにその役割を果たしてもらうことは有効かもしれません。2~3年目の社員を一律にメンターにアサインするのではなく、相談対応の適性がある人に心理的支援を任せると、意外とうまく介入できることが少なくありません。
これからの健康管理は、職場に限らず、家族、地域も含めた包括的なチャンネルを設けることが大事です。地域にも、保健師や薬剤師、行政の健康相談窓口などもっとアクセスしやすい多様な相談先が増えればいいと思います。
働く人が自分の健康は自分で守るという意識を高めていくこと、これが新しい時代の、個人をベースとした新しく多様な健康確保につながっていくと考えています。
執筆:有馬知子
撮影:平山諭