「働く」のイニシアチブを個人の手に!―個別労使関係が集団に回帰する―
雇用流動化と働く人の「ボイス」
ボイス(voice、発言)とは、「実際の条件と望ましい条件とを近づけるために直接の意思伝達を行うこと」だとFreeman and Medoff(1984)はいいます(※1)。
日本では働く人のボイスメカニズムとして、労働組合による集団的労使交渉が重視されてきました。企業別労働組合による団体交渉は、雇用システムの中軸ともいえるでしょう。
けれども、働き方の多様化と雇用の流動化により、労使交渉の単位は集団から個人へ、タイミングは雇用契約期間中から雇用契約の締結時・更新時に広がりつつあります(図表1)。
このようなボイスメカニズムの変化は不可逆的に起きているものの、従来の労使関係や社会の価値観、土壌づくりとしての教育など、さまざまな仕組みと相容れず、労使交渉は変化の途上で機能不全を起こしているのが、いまの日本の実態です。
仕事に不満。ボイスと転職、どちらを選ぶ?―日本における“Exit Voice”理論―で紹介したような、「個人は不満だらけでも会社を辞められない」という状況は、個人にとっても企業にとっても望ましくなく、社会にとっても健全ではありません。よって、広い意味での労使関係をアップデートしていかなければなりません。
図表1 ボイスメカニズムの変化
出所:中村(2020)(※2)
個人は、企業に比べて力が弱い
自分らしく働いていくには、個人が自身の希望を企業に伝えることが大事だといわれても、「できる気がしない」と感じる人は少なくありません(※3)。なぜなら、希望を伝えようにも聞く耳をもたない上司や、希望が叶うとは思えない職場の風土や人事制度があるからです。
そもそも個人と企業では、企業のほうが情報量や経済的余力が豊富なため、交渉力も企業のほうが上です。労働組合がこの力の不均衡を乗り越えて、賃上げなど、労働者が望ましい条件を勝ち取ることができるのは、3つの力をもっているからです(※4)。
第1は数の力です。ひとりの従業員に対しては聞く耳をもたない企業も、多数の従業員からの要望であれば、向き合わざるを得ません。
第2に労働組合は、マンパワー(役務提供)とのトレードオフを交渉材料にできるからです。ストライキを実施されたり、労働条件に対する不満から離職者が大量に出たりすると、業務が滞るため、企業はそれを回避するために交渉に応じます。
第3に労働組合による集団的な労使関係には法的な裏付けがあるからです。日本国憲法第28条は労働者の権利として団結権・団体交渉権・団体行動権を保障しています。企業は労働組合の団体交渉に応じなければならないのです。
力の源泉である「集団」への無関心
労働法や雇用政策は、企業に比べて労働者は弱い立場にあることを前提に整備されています。経営者など強い立場にある個人は、公的支援を必要としないため、これは妥当なことでしょう。
例えば近年、労働組合の組織率の低下を補うために、従業員代表制(労働者代表制)に注目が集まっています。ところが、働く人の6割以上は従業員代表制について聞いたこともなく、具体的に何をしているかわかっていない人も含めると、働く人の9割弱から認知されていません(図表2)。
図表2 集団的ボイスメカニズムの浸透度
出所:リクルートワークス研究所(2021)「働く人のボイス調査」
他方、労働組合は組織率が17%まで低下しているだけでなく(※5)、「問題意識があり、自ら組合に加入した」という人はわずか1.4%しかいません(図表3)。
労働組合に加入したきっかけは、「入社すると自動的に組合員になっていた」が78.8%で最多です(図表3)。逆に、労働組合に加入したくない理由の最多は、「自分にとってメリットがない」の51.2%です(※6)。労働組合は現状、労働者が自らの意思で参加したい組織にはなっていないのです。
図表3 労働組合に加入したきっかけ
出所:リクルートワークス研究所(2021)「働く人のボイス調査」
以上から、いまの日本では、個人が希望を叶えるための集団の仕組み、従業員代表制や労働組合に、当事者であるはずの労働者が関心をもっていないという矛盾が生じているといえます。
「労働者を守る」仕組みのパラドクス
いったいなぜ、労働者のための仕組みに、労働者自身が関心をもたず、活用もしていないという矛盾が起こるのでしょうか。
それは、「労働者は企業よりも弱い」という前提のもとで、法律や仕組みだけを整備していくと、当事者であるはずの労働者が「蚊帳の外」になるというパラドクスが起こるからです。
働き方に関する法律は、基本的に企業(使用者)にさまざまな義務を課します。よって法改正があると、企業側はその対応に追われますが、労働者側は法律が変わったことも知らなければ、権利を履行することもないということが起こります。
一例をあげれば、不安定雇用が社会問題になり、同じ職場で5年間働けば、有期雇用から無期雇用に転換できるよう、2012年に労働契約法が改正されました。しかし企業と個人では改正法に対する認知度が全く違うことが、調査からわかっています(※7)。いまなお、権利を理解・行使しないことで、無期雇用に転換できないままの労働者がいます。
また、前述の従業員代表制においても、よくわからない内に誰かが代表になっている職場がかなりあります。従業員代表制で労働時間や待遇に関して労使協定を交わすことが、結果的に、労使間の取り決めを「自分事(じぶんごと)」ではなく「他人事(ひとごと)」にする面があるのです。
つまり、労働者は弱いという前提に立ち、労働者を守るための法律や仕組みを整備すればするほど、当事者であるはずの労働者はその問題に直接関わらないで済んでしまうという構造があります。
法律や仕組みによって守られ、救われている人が大勢いる一方で、受け身な、もっといえば、働き方の条件や環境を自分事とはとらえていない労働者を生み出すという副作用もあるのです。
個人のボイスは、個人に力があってこそ
労働組合による団体交渉とは違い、個人単位の労使コミュニケーションや“I-deals”には、法的な裏付けがありません。また、交渉力の源泉である数の力もききません。
よって、個人単位の労使交渉では、マンパワー(役務提供)の重要性が交渉の拠り所になります。企業が、その人に働いてほしい、辞めないでほしい、さらに頑張ってほしい、と思うことが、好条件を引き出します。
また、個人が自ら交渉する場合、労働組合のように交渉に関するノウハウやスキルも蓄積されていないため、個人の交渉リテラシーが直接結果に影響します。そのた労働者自身の交渉リテラシーを高めることも求められます。
今後、ますます働き方が多様化し、雇用が流動していく環境下で、個人の交渉力を高めていくには、以下の3つの取り組みが必要です。
1.個人のスキル向上のために教育訓練投資を増やす
2.好条件で転職できる離脱オプションを増やす
3.個人に交渉リテラシーを授ける教育を拡充する
個人のスキル向上のために教育訓練投資を増やす
個人が交渉力を高めるのにまず必要なのは、企業にとって魅力的なスキルや経験を有していることです。
日本では、企業は終身雇用を約束できなくなっているにもかかわらず、教育訓練投資が乏しいままです。しかし、企業はその人に頑張ってほしいと思うからこそ、“I-deals”によって個人の要望に応えるのです。
そのため、企業は、労働者に対するリスキリングやアウトスキリングといった教育訓練への投資を増やすことが強く期待されます。
現状、教育訓練投資は企業頼みになっていますが、欧米では教育訓練プログラムの策定に組合も関与しています。また、日本でも、解散危機に陥った三井物産労働組合は、なぜ大復活できたのか?など、労働組合主導でキャリア支援を拡充する動きも出てきています。
労働組合が労働者の能力開発についても労働協約を結ぶなど、個人がスキルを高める仕組みを整備していく必要があります。
好条件で転職できる離脱オプションを増やす
また、「仕事を辞めても希望の仕事につくことができる」という離脱オプションを有している個人は、自身の希望を表明しやすいことが明らかになっています(※8)。
ところが、日本の労働市場は流動化しているにもかかわらず、好条件での労働移動はできないという中途半端な段階にあります。
スキルや経験を有した人材に対しては、企業が一律に定めた賃金テーブルにとらわれず、市場評価を反映して待遇を決めるジョブ型採用(ジョブ型雇用)を広げ(※9)、転職によって賃金アップやキャリアアップできる環境を整備することが急務です(※10)。
個人に交渉リテラシーを授ける教育を拡充する
個人が企業と効果的に労働条件を交渉するには、
・雇用契約に関する基礎知識
・待遇に関する相場観や交渉材料
・交渉する相手やタイミングの見極め
・企業が対応可能な範囲の理解
・前向きな合意が得られるコミュニケーション
が求められます。ところが、雇用が安定している正社員は、実は契約社員や派遣社員に比べて、雇用契約に対する理解が不十分という実態があります(※11)。賃金などに関する相場情報も流通していません。
加えて、ボイスが乏しい日本では、要望されたほうもプレッシャーを感じたり、困惑したりします(※12)。交渉というのは本来、互いが要望を出したうえで、妥結点を見出すものですが、交渉に不慣れな者同士だと、「要望したのに断られると自分が否定されたように感じる」「要望されたのに断るのは心理的に負担」といったことが起こります。
交渉で重要なのは、伝えること、聞くこと、そのうえで互いの妥結点を見出すことであって、どちらかの要望を100%叶えることではありません(※13)。「相手が何を言っているのか」と「相手はどんな人物か」を過剰に同一視しないことも重要です。
いまや働く人の7割が一度は仕事を辞める時代です。個人が自分らしいキャリアを選択するために、企業に要望を伝え、互いに発展的な “I-deals”を行うには、社会に出る前の段階で、ボイスや交渉に関する基礎知識を身につけていることが望ましいといえます。
個人の交渉リテラシーを高めていくには、ワークルールや交渉・対話に関する教育を拡充する必要があります。
雇用政策と教育政策を横断したキャリア政策を
これまで政府の雇用政策は、労働法の整備や社会人のキャリア形成の支援を行ってきました。これらは前述したように、「個人は企業より弱い立場にある」という前提に立ち、集団的な仕組みを整備したり、困難や事情を抱えた人限定でサポートしたりするものです。
しかし今後は、一人ひとりが自身の希望を企業に伝え、実現することが重要になっていきます。
そのため雇用政策も、従来の集団的な仕組みの整備に留まらず、一人ひとりに働き方の希望を伝える力を直接授ける必要があります。これは、雇用政策と教育政策を横断した、キャリア政策といったほうが適切かもしれません。
集団か? 個人か? ではなく、個人あっての集団
日本では、“I-deals”のような個人単位の労使コミュニケーションは、要望を伝えるほうも、その要望を聞くほうも、慣れておらず、簡単ではありません。そのため、個別の労使交渉が広がれば広がるほど、集団的労使関係が再評価されるでしょう。
逆にいえば、これまで日本では、集団的労使関係にばかり着目してきたがゆえに、結果的に当事者である労働者から主体性を奪ってきたのです。そして、そのことが、労働組合への関心や支持を下げ、他の集団的ボイスメカニズムが広がらない原因にもなってきました。
個人は、働き方の決定に自ら関与することで、当事者性を取り戻すことができます。
いま必要なのは、労使関係は集団でつくるのか、個人でつくるのか、という二項対立の議論ではありません。個人が働き方のイニシアチブをもつことで、個人単位の労使コミュニケーションも、集団的な労使関係も発展していきます。集団的労使関係を活性化するためにも、個人単位の労使コミュニケーションが重要なのです。
「働く」のイニシアチブを個人の手に。
それがこれからの雇用システムの基盤です。
中村天江
(※1)Freeman, Richard B. and Medoff, James L. 〈1984〉 “What Do Unions Do?, ”New York: Basic Books, Inc. (R.B. フリーマン・J.L. メドフ〈1987〉『労働組合の活路』島田晴雄・岸智子訳, 日本生産性本部)
(※2)中村天江(2020)「集団から個人に移る労働者の“Voice”―5カ国比較調査にみる日本の現状―」日本労務学会第50回全国大会
(※3)社員のボイスとエンゲージメントの意外な関係 ―「希望を叶える」前にできること― https://www.works-i.com/project/voice/employment/detail007.html
(※4)独立のコミュニティユニオンはマンパワー(役務提供)のトレードオフよりも、社会にセンセーショナルに訴えるなど、先鋭化した手法が力になっている
(※5)厚生労働省「労働組合基礎調査」
(※6)リクルートワークス研究所(2021)「働く人のボイス調査」における「労働組合に加入したくない理由」の結果
(※7)中村天江(2017)「個人と組織の契約関係の多様化―健全な契約関係をいかに創り出すのか―」公正取引委員会「人材と競争政策に関する検討会」第1回資料
(※8)中村天江(2020)「集団から個人に移る労働者の“Voice”―5カ国比較調査にみる日本の現状―」日本労務学会第50回全国大会
(※9)中村天江(2020)「ジョブ型雇用の種類と、日本企業が進むべき道」『「働く」の論点』リクルートワークス研究所
(※10)転職時は、ボイスが賃上げに効く―日米仏中の比較分析― https://www.works-i.com/project/voice/employment/detail008.html
(※11)中村天江(2018)「わたしは正社員?―会社との新たなつきあい方―」玄田有史編『30代の働く地図』岩波書店
(※12)職場での個別交渉“I-deals”の実態 ―ハードとソフトの労働条件― https://www.works-i.com/project/voice/employment/detail006.html
(※13)中村天江(2018)「『Voice』を言える個人、『Voice』を聞ける職場―多様な働き方を叶える鍵―」『研究所員の鳥瞰虫瞰vol.3』リクルートワークス研究所