職場での個別交渉“I-deals”の実態 ―ハードとソフトの労働条件―

2021年09月27日

働き方の多様化と雇用流動化の帰結

今日、働き方が多様化し、個人が希望する労働条件やキャリアパスは人それぞれになっています。また、雇用の流動化により、入社するタイミングや入社時に位置づけられる等級にも個人差が生まれています。

もはや旧来の日本的雇用が想定してきたような、社員のほとんどが新卒で入社し、全社一律で整備された人事制度の仕組みだけでは十分ではありません。

働き方の多様化と雇用の流動化が進むと、労働条件について交渉するタイミングは、雇用契約期間中から雇用契約の締結時・更新時に広がり、発言(ボイス)の単位も大きな集団から小さな集団へ、さらに社員一人ひとりへと小さくなっていきます(図表1)。

図表1 ボイスメカニズムの変化
図表1 ボイスメカニズムの変化.png出所:中村(2020)(※1)

社員と企業双方にメリットがある“I-deals”

このような、社員それぞれによる個別の労使交渉を、カーネギーメロン大学のデニス・ルソー教授は、“I-deals(アイ・ディールズ)”と名付けました。

“I-deals”とは、「労働者による個人的な交渉で、他の従業員の雇用条件とは異なるが、労働者と使用者双方にメリットがあるもの」のことです(※2)

“I-deals”は、企業と社員の雇用契約関係全体におよぶこともあれば、それこそ「今日は特別に早く帰ってよい」というような、特定の内容だけのこともあります。

また、“I-deals”は、単に社員からの要望を認めるというものではなく、企業にも何らかのメリットがある、たとえば意欲高く働いてくれるといった、取り決めのことを指します。

8割以上が交渉する海外、半数だけの日本

実際、海外では“I-deals”は頻繁にみられます。図表2は、個人が転職する際に企業と交渉した項目です。日本以外のすべての国で、「特にない」は20%未満であり、つまり転職者の80%以上が何らかの条件交渉を行っています。

一方、日本は「特にない」が48%と、条件交渉を行っている個人は約半数に留まります。日本以外の国では10%以上の転職者が交渉している「役職」や「入社後のキャリアパス」「休暇の取得」といった項目も、日本では10%に達していません。

また、海外では複数の項目を企業と交渉するのが一般的なのに対し、日本では要望を伝えるにしても1つか2つに留まっています

もちろん、待遇に満足しているなら、企業に要望を伝える必要はありません。しかしこの調査では、日本は他国に比べて、仕事や賃金、人間関係などに対する満足度が低いことも明らかになっています(※3)。

日本人は働き方に不満があっても、企業にその解決を求めずに、受容する傾向が強いといえます。

図表2 入社時の条件交渉
図表2 入社時の条件交渉.png※転職者のみ
出所:リクルートワークス研究所(2020)「5カ国リレーション調査」 

賃金、仕事内容……働く人が重視している労働条件

“I-deals”は入社するタイミングだけでなく、入社後の雇用期間中にも行われます(※4)。日本では、どのような内容について職場で交渉が行われているのでしょうか。

図表3は、民間企業で働く18~54歳を対象とした調査で「働くうえで重視している労働条件と満足」をまとめたものです。重視している人が多い項目は上位から、「賃金」「仕事内容」「労働時間や休暇取得」「一緒に働くメンバーや上司」「雇用の安定性」「働く場所」「家庭生活との両立」です。

ところが、「賃金」や「仕事内容」「労働時間や休暇取得」は、重視しているのに満足していないという背反状況にある人が少なくありません。とりわけ「賃金」は、重視しているのに満足していないが45.2%もおり、希望と現実の乖離が顕著です。

対して、「雇用の安定性」や「働く場所」「家庭生活との両立」は、重視していて満足している人のほうが、重視していて満足していない人より多いという特徴があります。これらは企業選びの段階である程度、見極めることができるからだと考えられます。

一方、「成長機会やキャリアパス」「会社の経営姿勢」「社外活動との両立」は、重視している人が多くありません。調査では「働くうえで重視している項目の上位3つ」についてたずねたので、重視している順番が4番目以降の項目はわからないためです。ちなみに「成長機会やキャリアパス」や「会社の経営姿勢」は正社員、とくに役職ありの正社員は、正社員以外の人に比べて重視していることも調査からわかっています。

「成長機会やキャリアパス」「社外活動との両立」などは、重視していなくて満足しているか、重視していなくて満足もしていないに二極化しています。重視しているのに満足していない、や、重視していないのに満足しているといったことはほとんど起きていません。成長機会や社外活動との両立などは、他の労働条件に比べると叶えやすいと考えられます。

図表3 重視している労働条件と満足
図表3 重視している労働条件と満足.png※働くうえで重視している上位3項目を集計
出所:リクルートワークス研究所(2021)「働く人のボイス調査」

個人が希望を伝えているのはどんな条件か?

つづいて図表4は、働くうえで一番重視している項目について、企業に要望を伝えているか、そしてその希望が叶ったかをまとめたものです。

まず、一番重視している条件であっても、企業に要望を伝えている人は30%もおらず、やはり日本では、働く人のボイスが乏しいことが確認できます(※5)。

「賃金」や「労働時間や休暇取得」「雇用の安定性」などは、要望している人よりも要望していない人が多く、入社後に声をあげるのが難しい項目であることがわかります。一方、「仕事内容」や「一緒に働くメンバーや上司」は、要望していない人よりも要望している人のほうが多く、職場で声をあげやすい項目だといえるでしょう。

次に、「要望し、希望が叶う」と「要望し、希望が叶わない」の値を比べると、「賃金」や「雇用の安定性」は要望しても希望が叶わないことが多いのに対し、「仕事内容」や「労働時間や休暇取得」「一緒に働くメンバーや上司」「家庭生活との両立」などは要望すれば希望が叶うことのほうが多くなっています。

これは、賃金水準や雇用契約期間は全社的にルールや基準が整備されていることが多く、職場の管理職の裁量が限定的なのに対し、仕事内容や仕事を一緒にするメンバー、仕事と家庭生活の両立などは、管理職の裁量でかなり調整できるからでしょう。

図表4 要望の有無と希望の実現
図表4 要望の有無と希望の実現.png※働くうえで一番重視している項目に関する要望の有無とその結果を集計
出所:リクルートワークス研究所(2021)「働く人のボイス調査」

一人ひとりが生き生き働くために

ここまでの考察をふまえると、労働条件は個人の要望に柔軟にこたえやすいかどうかで、大きく2つにわけることができます。

全社的に基準が決まっていて職場での調整余地が少ない賃金や雇用契約期間は「ハードな労働条件」、それに対して、明確な基準はなく職場での調整や判断によって実現できる仕事内容や休暇取得、一緒に働くメンバーや家庭生活との両立などは「ソフトな労働条件」ということができます。

ソフトな労働条件は職場の風土や人々の価値観によって希望を叶えることができるのに対し、ハードな労働条件は人事制度の見直しを必要とすることもあります。

たとえば、近年、エンジニアや研究開発などの職種に対してジョブ型雇用を導入する動きがあります。これは市場評価が高い人材に対して、ひきぬきや離職を防ぎ、自社で頑張ってもらうために、本流の人事制度とは別の制度を導入することで、賃金などのハードな労働条件も含めて、一人ひとりの社員に対して働き方を最適化することが目的です。

ソフトな労働条件についても、「ダイバーシティ」「ワークライフバランス」「1on1(上司と部下の1対1の話し合い)」などを重視する企業は増えており、企業は社員一人ひとりに向き合おうとしはじめています。

しかし、これらの施策は、人事制度上は整備されていても、職場の忙しさや上司や同僚の価値観によってはまったく使えないことも珍しくなく、発展途上にあります。

日本では、ソフトな労働条件に関しては“I-deals”が行われているのに対し、ハードな労働条件に関しては“I-deals”が乏しいという実態がありますが、いずれにおいても変化の兆しが出てきています

中村天江

(※1)中村天江(2020)「集団から個人に移る労働者の“Voice”―5カ国比較調査にみる日本の現状―」日本労務学会第50回全国大会
(※2)Denise M. Rousseau (2005) ”I-deals: Idiosyncratic Deals Employees Bargain for Themselves” Routledge
(※3)リクルートワークス研究所(2020)「マルチリレーション社会」
(※4)「安い賃金」を甘受してきた日本の労働者―ボイスは集団から個人へ― https://www.works-i.com/project/voice/employment/detail005.html
(※5)「5カ国リレーション調査」は各国の都市部に居住する大卒30~49歳を対象とした調査である。一方、「働く人のボイス調査」は18~54歳、学歴を問わない調査のため、同じ日本の結果であっても傾向に違いがあることがある。