低賃金に寛容な日本社会―雇用と賃金を約束した日本的雇用の副作用― 中村天江

2019年11月13日

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1-1 平均賃金も貧困率もワースト2位

「日本の賃金は、他国に比べて高いのか? 低いのか?」と聞かれたら、皆さんはどうお答えになるだろうか。
実は、いまや日本の賃金水準は低いのである。厳密にいえば、発展途上国の平均賃金は、高くなってきているとはいえ、まだまだ日本よりも低い。しかし、日本が生活水準を比較するであろうG7の国々や、グローバル化の最前線で日本企業が人材獲得競争にある現地企業との比較においては、日本企業の賃金は安いのである。
例えば、図1は、G7諸国の平均賃金の推移である。この30年間で平均賃金が増えなかった国は、日本とイタリアだけである。かつてアメリカに次いで2番目の賃金水準だった日本は、もはや下から2番目の水準になってしまった。
しかも、平均賃金だけでなく、貧困率においても、日本はG7諸国でワースト2位になっている。貧困率のワースト1位のアメリカは平均賃金も1位なので、賃金格差が大きい国である。一方、日本は平均賃金も貧困率もワースト2位で、全体として賃金が少ない方に偏っている国である(OECD “Social and Welfare Statistics: Income distribution”)。

図1 G7諸国の平均賃金(米ドル換算)
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出所:
OECDAverage annual wages”

さらに経済発展では先を行くはずのアジア諸国においても、近年、日本企業の給与は、大企業の役職者では現地企業に劣後するようになっている(※1)。日本企業は外国企業に比べ、役職の上昇にともなう賃金の上昇率が小さいため、上級職になるほど現地企業に給与で追い抜かれてしまうのである(※2)。

1-2 この20年、賃金は減少

国内だけでみれば、日本の労働者の賃金は、バブル経済が崩壊して以降、減少している(※3)。図2は2015年の値を100とした、現金給与総額の賃金指数と、消費購買力を反映した実質賃金指数の推移である。いずれの指数も1997年は110を超えていたが、1997年をピークに漸減し、2017年は101程度と、20年間で10ポイント近く減少している。

図2
図2.jpg出所:厚生労働省「毎月勤労統計調査」
※事業所規模30人以上の集計結果

このような変化は、個人の人生に影響をおよぼしている。経済的困窮や将来の収入不安から、未婚率は上昇し、出生率は低下している。学生の奨学金受給率は5割に迫り、近年では奨学金返済の負担から一人暮らしをあきらめ、実家から通える就職先を選ぶ学生も出てきている(※4)。賃金が減少すると、個人の人生設計における選択肢は減ってしまう。将来的には、生活保護など社会保障の必要性も高まっていく。低賃金は、一個人の問題にとどまらず、社会の持続可能性も脅かし始めている。
いまや低賃金は、将来を考えるうえで看過できない問題となっている。

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2-1 内部留保は人件費の2倍に

個人の賃金が減少していることに対し、「企業は総額人件費を増やせない。だから、賃金を増やすことはできない」という意見をしばしば耳にする。
しかし、バブル経済が崩壊した1991年以降、人件費が一貫して200兆円前後を推移しているなかで、企業の内部留保である利益剰余金は増加を続け(※5)、2018年度には過去最高の463兆円に達している(図3)。
マクロ統計からは、労働者に分配しうる利益が企業のなかに残っているといわざるをえない。企業から労働者への賃金の分配メカニズムについて再考する必要がある。

図3図3.jpg出所:財務省「法人企業統計調査」、金融業、保険業以外の業種(原数値)
※人件費は役員給与・賞与、従業員給与・賞与、福利厚生の合算値

2-2 賃金交渉の仕組みの変化

労働者と使用者の間で賃金を決定するメカニズムは、個人⇔集団の「交渉単位」と、内部労働市場⇔外部労働市場の「労働市場」のマトリックスで整理できる(図4)。
日本企業の春闘は「内部労働市場×集団」であり、労働市場の流動性が高く個人ごとに職務で雇用契約を結ぶアメリカ企業では、「外部労働市場×個人」の賃金交渉がみられる。産業別労働組合が使用者団体と交渉を行っている欧州は、「外部労働市場×集団」である(※6)。

図4 賃金交渉の仕組み
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日本の賃金交渉は、左下の「内部労働市場
×集団」から、右上の「外部労働市場×個人」に移行しつつある。というのも、戦後55%を超えていた労働組合の組織率はいまや17%まで低下してしまった(※7)。かたや、労働市場は流動化し、転職入職者は1986年の170万人から2016年には294万人まで増加している(※8)
かつては転職により賃金が減ることが多かったが、近年では好条件で転職する者が増えている。すでに転職にともなう賃金変化は、増加が37.0%、減少が34.2%となっている(※9)。企業別労働組合による団体交渉は、外部労働市場を通じた賃上げには力を持たないため、流動的な労働市場では転職者自身による賃金交渉が必要になる(中村 2019c)(※10)。賃上げを要望した個人の方が、そうでない個人よりも転職後に高い賃金を得ていることも明らかになっている(中村 2019d)(※11)。
雇用システムの変容にともない、賃金交渉の仕組みも変化の過渡期にある。

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3-1 賃上げを求める個人は25%

団体交渉から個人交渉にシフトしているなかで、実際に個人で「賃金を上げてほしい」と企業に要望する労働者はどの程度いるのだろうか。表1は、リクルートワークス研究所「全国就業実態パネル調査」における特別集計の結果である。
会社に「賃上げについて何らか要望した」は24.7%にとどまり、「会社で賃金の額について話したことはない」が75.3%を占めている。しかも、声をあげたとしても、最も多い「雑談の中で、賃金を上げてほしいといった」が14.0%、「賃金を上げるために、査定評価を見直してほしいといった」6.6%、「会社の賃金制度や人事制度を変えてほしいといった」5.1%、「賃金を上げるために、職位や仕事内容を変えてほしいといった」3.4%などは10%にも満たない。
賃上げを要望する個人は、雑談という非公式な場を含めても、全体の1/4しかいないのである。

表1 賃上げの要望
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出所:リクルートワークス研究所「全国就業実態パネル調査」

※集計対象は、2017年調査で民間企業に雇われて働いていた20~59歳のうち
2018年調査で賃上げに関する設問に回答している19763人

3-2 賃金に対する切迫度が低い日本

ここに大きな矛盾がある。前述したように客観的なデータは、日本の労働者の賃金水準が低いことを、はっきりと示している。にもかかわらず、当事者である個人は、賃上げを企業に要望していない。今の日本には、賃金をめぐる客観的な状況と、当事者である個人の意識や行動に大きな乖離が存在しているのである。
実際、このような日本の特徴と整合的な調査結果も存在する。表2は、「仕事をするうえで大切だと思うもの」を、13カ国の大都市で、大卒20代30代に尋ねた結果である。「仕事をするうえで大切だと思うもの」の1位は、日本以外のすべての国で「高い賃金・充実した福利厚生」である。ところが、日本だけは「高い賃金・充実した福利厚生」は4位で、「良好な職場の人間関係」「自分の希望する仕事内容」「適切な勤務時間・休日」の方が上位なのである。
賃金の重要性が低ければ、職場で賃上げを求めようという気など起きない。よって、このような調査結果が存在するということは、日本では賃上げを求める個人は少なくても当然であるという帰結を導く。
裏を返せば、日本におけるこのような賃金に対する切迫度の低さが、長きにわたる賃金の低迷を招いたともいえるのではないだろうか。賃金が低迷している構造的な理由に関しては、すでに多面的な指摘がなされているものの(野田・阿部 2010, 玄田 2017, 田中・菊地・上野 2018など)(※12)、それを受け入れてきた労働者側の意識や行動に関する言及はほとんどない。

表2 仕事をするうえで大切だと思うもの
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出所:リクルートワークス研究所(
2012)「Global Career Survey
※複数回答で1番目から3番目を合算した値。各国1位に濃い網掛け、2位に薄い網掛け

3-3 賃金に対する「認知の歪み」

賃金に対しては「認知の歪み」が二重に存在する。まず、さまざまな事象に対する個人の満足感は、参照する他者との相対的な比較によって決定される(林・鳥取部 2016)(※13)。内部労働市場が発達している日本では、他者がどれだけの賃金をもらっているのかについて知る機会はほとんどない(※14)。労働者が他者の賃金水準を認識していない限り、自身の低賃金に疑問や、ましてや不満をもつことはない。
さらに、人は「貨幣錯覚」を起こす(※15)。人は、実際に財を購入できる実質賃金ではなく額面上の名目賃金に価値があると判断したり、為替の変動により自国の通貨が他国の通貨より安くなっていたとしても、自国通貨の価値を高く評価したりするのだ。
日本は今、貨幣錯覚を引き起こす典型的な状況にある。賃金の国際的な増加トレンドからの脱落や、年功による賃金増から賃金のフラット化は、いずれも本来増加するはずの賃金が増加しなかったというもので、現在受け取っている賃金が切り下げられたというのとは状況が違う。人は新たに何かを得るよりも、すでに得たものを失うことを忌避する損失回避特性があるため、賃金がどんどん切り下げられる状況であれば、労働者から大きな不満が起こる(※16)。しかし、将来もらえたかもしれない賃金をもらえなかったところで、そもそもの事情を知らない労働者は不満を感じない。
実際、セミナーなどで客観的なデータを添えて賃金について説明しても、「お金のことは考えなくてよい」「仕事を頑張れば、お金は後からついてくる」といった、賃金を軽視する意見をもらったことは数えきれない。生活に窮している一部の労働者を除いて、日本人の多くは事態の深刻さを正確に認識していない可能性が高い。
しかも、賃金に対する認知の歪みは、労働者だけでなく、使用者側にいる個人にも同様に起きる。労働者が賃金の低下を甘受し賃上げを求めなければ、使用者は賃金を切り下げはしても賃上げに真剣に取り組むことはない。賃金に対する認知の歪みは、使用者側に一方的に都合の良い富の偏在を生む。

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4-1 日本的雇用の副作用

賃金に対する客観的状況と個人の認知や行動に大きなズレが発生している理由は、日本的雇用慣行によって説明できる。図5は、個人が賃金の引き上げを求めるフローである。労働者はまず賃金に関する「情報」を得て、状況を「認知」する。状況に不満や要望があれば、「集団的行動」もしくは「個人的行動」によって使用者に改善を求める。
ところが、日本では今、賃金に関する「情報」は乏しく、「認知」に歪みが発生し、労働組合の組織率の低下により「集団的行動」が減少し、労働市場の流動化は進んでいるものの「個人的行動」を積極的に起こすまでにはいたっていない。

図5 個人が賃金の引き上げを求めるフロー

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長期雇用のもと年功序列で賃金が決まっていく内部労働市場では、賃金は職能資格という格付けで決定される。全社的に整備された賃金制度に個人が口をはさむ余地は少なく、賃金制度や賃金の額について情報を集めようというインセンティブが働かない。この点は、労働市場が流動的な国では、労働者の賃金に対する関心が高く、賃金に関する情報が出回りやすいのとは対照的だ。

他社で同じような仕事をしている人の賃金水準がわからなければ、自分の賃金に対して違和感を持ちにくい。賃金相場がわからないことに加え、前述したように賃金に対しては認知の歪みもある。本来、もっと多くもらえたはずの賃金があったとしても、労働者がその可能性を知ることはない。
それでも、なかには収入の不足に困り、賃金の向上を望む個人もいる。かつては、労働組合が労働者の要望をとりまとめて使用者と交渉してくれたが、いまや組織率は低下し、組合のない企業の方が多い。かといって、個人で使用者と交渉できるかといえば、これも限定的だ。労働者も使用者も賃金に対する感度が低いうえ、交渉する風土が日本にはないからだ。

4-2 交渉機会の欠如

賃金に対する切迫度が低い一因が、雇用制度にあることはアメリカとの比較からもわかる。
アメリカ企業では、職務ごとに雇用契約を結んでおり、職務が異なれば報酬は異なる。労働市場の相場賃金も給与に反映されるため、市場評価の高い人材ほど高い給与となる傾向がある(笹島 2008)(※17)。職務が変わるたびに、もしくは、毎年の査定にあわせて雇用契約の条件について使用者と労働者が合意しなおすのが一般的であり、待遇について交渉するタイミングが仕組みとして存在する。
対して、日本企業は一律の賃金制度で従業員を格付けしており、等級や評価が変わらない限り、賃金を上げる余地はほとんどない。賃金制度がこのように硬直的で、さらに終身雇用がともなうと、ひとたび企業に入社すると待遇はほぼ自動的に決まるため、個人が賃金について交渉する必然性や機会は存在しない。組織の構成員が変わらないなかで、個人で賃金について不満を表明したり、賃上げを求めたりすれば、組織内で不興を買う恐れさえある(中村2016)(※18)。
賃金交渉の明示的な機会がないこともまた、賃金に対する人々の感度を下げる要因となる。

4-3 制度と感度が風土をつくる

賃金に対する感度の鈍化は、使用者側の個人も同様である。企業で要職についている中高年は、賃金が右肩上がりで上昇した時代の恩恵を享受し、手厚い社会保障も約束されており、賃金に対する感度が鈍くても問題がない。しかも、使用者には利益を出すために賃金を抑制したいというインセンティブも働くため、賃金を軽視するにとどまらず、賃金の切り下げに傾きやすい。
このようななかで誰かが賃上げを求めても、自身の金銭感覚を一般的だと勘違いしてしまえば、真剣に受け止めることはない。賃上げに対する認識の欠如は、企業経営者や人事、職場の同僚においても、同じである。賃金に対する切迫度が低いマジョリティのなかでは、賃上げを求めるマイノリティの声は、重大な問題だとは理解されないのである。
そうなると縮小再生産で、ますます賃金に対する感度は失われ、賃金が増えなくても、疑問に感じる者は生まれず、ましてや声をあげる者は出てこなくなる。
終身雇用・年功賃金・企業別労働組合で特徴づけられる日本的雇用は、個人を雇用と賃金の不安から解放した(※19)。ひとたび企業に入社し、つつがなく働いていれば、個人で何もしなくとも、自然に賃金が増えていく仕組みだったからだ。しかし、日本的雇用の制度は瓦解しつつあり、日本的雇用の利点が、一転して新たな問題を引き起こし始めている。

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5-1 不確実な環境下では交渉が必須

日本的雇用が変容を遂げるなかで、雇用保障や賃金のあり方については、多大な関心が払われてきた。しかし、いまや日本的雇用の三種の神器「終身雇用、年功賃金、企業別労働組合」についてたずねると、「終身雇用、年功賃金、新卒採用」との答えが返ってくることの方が多く、労働組合の存在はまるで忘れ去られたかのようでさえある。
労働組合は労働者にとって、本来、当事者として使用者に向き合う仕組みであり、労働者の声を代弁する仕組みでもある。組合組織率の低下は、労働条件の決定における労働者の関与を弱め、条件交渉の放棄を意味する。組織率の低下により、限られた一部の労働者だけが長きにわたって組合活動を行うようになると、条件交渉のノウハウは次世代に伝承されず、条件交渉の重要性さえ忘れられていくだろう。
しかし、いまや雇用は流動化し、職務給や役割給の導入により賃金はフラット化している。もはや、無条件に、長期的な雇用や右肩上がりの賃金上昇を期待することはできない。労働組合が果たしてきた賃金や労働条件の交渉機能の重要性は、今後むしろ高まっていく。
ただし、条件交渉の形態は、「内部労働市場×集団」の再生にとどまらず、前述したように「外部労働市場×個人」寄りのものに変わっていく。個人が充実した職業人生をおくるためには、賃金交渉の仕組みのアップデートが欠かせないのである。
不確実な環境のもとで個人が充実した職業人生を歩むためには、労働者が当事者として賃上げの重要性を認識し、賃上げを求めていく風土を醸成していかなければならない。そのためには、賃金の可視化と、賃金に関する情報の流通、賃金交渉の仕組みのアップデートの3つが必要である。

5-2 賃金の可視化

まず重要なのは、賃金の可視化である。現状、賃金の相場がわからないことにより、労働者は使用者に賃金に関する声をあげることができず、使用者は賃上げの目安がわからずにいる。職種や業種ごとに、賃金相場を可視化していくことが、賃上げの土壌をつくる起点となる。
2020年4月から施行される同一労働同一賃金によって、正社員以外の労働者に対しては賃金制度や正社員との待遇差に関する使用者の説明義務が強化される。待遇説明義務を個人と企業双方がWin-Winとなるよう、有効に活かしていくことが望まれる(中村 2019b)(※20)。
また、派遣労働の同一労働同一賃金では、企業内部の賃金表ではなく、労働市場の一般賃金をもとに待遇改善を図る労使協定方式も導入される。労使協定方式では、政府統計(厚生労働省「賃金構造基本統計調査」など)に加えて、一定の基準を満たした独自の賃金調査の結果も利用できる。派遣労働者とその他の労働者では職種にかなりの差異があり、既存の統計を派遣労働者の賃金算出の根拠に用いるのには限界もある。
これを機に、派遣労働については企業横断で賃金表を整備していくことが考えられる。ただし、企業横断で賃金情報を共有することは、現時点では独禁法でカルテルとみなされる可能性を否定できない。賃金の可視化にあたっては、労働法と経済法の境界を、建設的なかたちで整理する必要がある。
なお、転職時の賃金相場については、人材サービス産業協議会が毎年、職種別に賃金相場を公表している(※21)。

5-3 賃金に関する情報

さらに、賃金に関する情報を広め、正しい認知を広げていく必要がある。低賃金を甘受する社会が生まれた底流には、個人が賃金に関して十分な情報をもたないことがあるからだ。
まず、賃金の現状、とくに職種や役職による賃金の違いや、キャリアチェンジにともなう賃金の変化、国際比較における日本の賃金水準など、賃金の多寡がどこで決まるのかについての情報を伝えていくことが肝要である。
賃金を上げるために個人に何ができるのかについても、あわせて伝えていくことが重要である。既存研究で、転職のタイミングや個人で声をあげること、エージェントの利用などが賃上げにつながることが明らかになっているが(児玉他 2004、森山 2006、小林・阿部 2014、中村2019dなど)(※22)、賃金を上げるために個人にできることは他にもあるだろう。賃上げに関する調査研究を拡充し、その知見を広めていくことが期待される。
個人に賃金に関する情報を届けるルートとしては、4つ考えられる。第1に、学校のキャリア教育の授業で賃金に関するトピックスを取り上げるようにする。第2に、個人のキャリア相談にのるキャリアコンサルタントの資格取得の教材や継続学習において賃金に関するトピックスを増やす。第3に、労働組合で情報を展開する。労働組合は今までも賃金に関してさまざまな情報を発信しているが、認知の歪みや、キャリアチェンジにともなう賃金変化は扱っていないようにみえる。より広範なテーマで、個人の問題意識を喚起していくことが期待される。
第4に、政府広報で賃金に関する情報発信を強化する。近年、政府による情報発信は、働き方改革や非正規雇用問題の解消に向けて、インターネット上でも積極的に行われている。しかし、賃上げに関しては、企業への協力要請は強力に行われているものの、一般個人に対する施策は限定的だ。今後は、一般個人を対象とした施策の強化が期待される。なお、政府内で賃金に関する情報を整理し、誰もが活用できるようにすることは、第1~第3の取り組みのためにも有効である。

5-4 賃金交渉のアップデート

賃金交渉の仕組みは、「内部労働市場×集団」から「外部労働市場×個人」にシフトしつつある。熾烈な人材獲得競争を背景に、すでにAIエンジニアなど一部の職種では、個別に処遇を設定する企業が出てきている(中村 2019a)。
個人による賃金交渉の環境を整備していくためには、交渉する待遇の内容、交渉するタイミング、交渉の手段について考える必要がある。
まず、交渉しうる待遇には何があるのか個人が知らなければ、企業から好条件を引き出すことはできない。2020年から施行される同一労働同一賃金の法整備では、「賃金」とは、基本給や手当、賞与、退職金などの金銭的報酬だけにとどまらず、教育訓練や職場の施設利用なども含む広範な概念である。2015年の特許法の改正でも、発明を行った労働者に報いる方法は金銭的報酬だけでなく、留学機会や職場の研究環境の整備なども含まれることとされた。金銭報酬に限っても、基本給だけでなく、一時金やストックオプションなどがありえる。労働の対価として交渉しうる内容について、労働者が知っておくことが交渉の第一歩である(※23)。
交渉するタイミングは、①入職時、②契約更改時、③日々、の3つがありえる。企業の賃金制度の硬直性を考えると、個人が最も交渉しやすいのは①である。入職後の待遇の伸びが皆同じだと仮定すれば、できるだけ好条件で入職した方が、その後の待遇もよいことになる。転職者の受け入れでは、企業はとくに考慮すべき事情がなければ、転職者の能力や経験に見合うなかで一番下の格付けで待遇を決定することも多いため、自身の能力や経験に見合った待遇になっているのかの確認が肝要である(中村 2019c)。
交渉の手段は、自身で交渉する方法と、第三者である「エージェント」に頼む方法がある。労働条件に関して個人で交渉する風土も、それに必要な情報も乏しい今の日本において、個人で交渉するのは容易ではない。とくに入職時の交渉では、企業の許容範囲を超えた要望を強く主張すると、採用そのものがなされないため、相手の許容範囲や自身への評価を見極めながら労働条件をすりあわせていく必要がある。マッチングの専門家である職業紹介会社のエージェントを介すのも選択肢になるだろう。実際、職業紹介のエージェントを介した転職の方がマッチングの精度が高い傾向がある(児玉他 2004、森山 2006、小林・阿部 2014、中村 2017)(※24)。

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賃金は、労働の対価として、企業から個人に支払われるものだ。経済が成長していた時代は、労働者が特段の働きかけをしなくても、企業の収益の増加と連動して労働者への分配も増加していた。その時代に形成された、堅牢な賃金制度や集団的な労使交渉のもとでは、個人一人ひとりが賃金について直接向き合わなくても、賃上げが約束されていた。しかし、バブル経済が崩壊し、さらに人口減少が始まり、日本企業はそれまでのように収益を上げていくことは難しくなってしまった。それが、いわゆる「非正規化」や成果主義の導入など、人件費の抑制につながっていったことは広く知られている。
今後、グローバル化やテクノロジーの進展により、個人の待遇は二極化していくことが懸念される。実際、テクノロジーによる雇用代替について大きな関心を呼んだオックスフォード大学のオズボーン氏とフレイ氏の研究によれば、テクノロジーによる雇用消失リスクは見事なほどに二極化している(※25)。市場評価の高い人材は高報酬を得られる一方で、失職リスクが高く弱い立場にいる個人ほど、労働条件も悪化する可能性を否定できない(※26)。
労働市場が流動化し、働き方が多様化するなかでは、働く一人ひとりが自身の労働条件と真剣に向き合わざるをえない。日本的雇用によって失われた、労働条件決定における労働者の当事者性を取り戻すことが、充実した職業人生を歩む必要条件になっている。
賃金は認知のバイアスもある。日本的雇用の副作用もある。だからこそ、わたしたちはあらためて、「働く」の最も基本的な対価である賃金についての感度を高め、風土を刷新していかなければならない。

中村天江

※本稿は筆者の個人的な見解であり、所属する組織・研究会の見解を示すものではありません。

(※1)日本経済新聞 2017.8.27朝刊「役員給与、アジア勢が上、中国4000万円、日本2700万円、人材獲得、競り負けも」
(※2)日本経済新聞 2018.5.13朝刊「米報酬、企業間の差鮮明、『CEOは社員の何倍か』初開示、フラットな日本、人材獲得で劣勢も」
(※3)政府統計(厚生労働省「毎月勤労統計調査」「賃金構造基本統計調査」)においても賃金の推移は完全に同じではない。
(※4)日本学生支援機構の「平成28年度学生生活調査」によれば、大学生の奨学金受給率は48.9%。
(※5)「内部留保」は法令上定義された言葉ではないため、利益剰余金以外の解釈も存在する。
(※6)最低賃金の引き上げは、「内部労働市場×集団」「外部労働市場×集団」に横断する施策である。
(※7)厚生労働省「平成30年労働組合基礎調査」
(※8)厚生労働省「雇用動向調査」、転職入職者(一般)の値。パートタイム入職者も加えるとさらに多い。
(※9)厚生労働省「平成30年雇用動向調査」
(※10)中村天江(2019c)「派遣と転職に共通する『労使交渉』の大切さ」『WEB労政時報』
(※11)中村天江(2019d)「個人の“Voice”と“Exit”と、賃上げ ―賃金に関する制度・感度・風土が乏しいなかで」『個人金融』2019年秋号
(※12)野田知彦・阿部正浩(2010)「労働分配率、賃金低下」『労働市場と所得分配』慶應義塾大学出版会、玄田有史『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』慶應義塾大学出版会、田中吾朗・菊地康之・上野有子(2018)「近年の労働分配率低下の要因分析」内閣府経済財政分析ディスカッション・ペーパー
(※13)林洋一郎・鳥取部真己(2016)「我が国の賃金制度に関する心理学からの考察 ─公正理論に基づくレビュー」『日本労働研究雑誌』No.670
(※14)2020年から施行される同一労働同一賃金の説明義務の強化により、賃金の見える化が進む可能性がある。
(※15)Irving Fisher (1928) "The Money Illusion" New York
(※16)ダニエル・カーネマン(2014)『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』早川書房
(※17)笹島芳雄(2008)『最新 アメリカの賃金・評価制度 ―日米比較から学ぶもの』日本経団連出版
(※18)中村天江(2016)「賃金に対する美徳と分配」『研究所員の鳥瞰虫瞰 vol.2』
(※19)経済開発協力機構(1972)「OECD対日報告書」では、生涯雇用、年功賃金、企業別労働組合が日本的雇用の三種の神器とされた。
(※20)中村天江(2019b)「『同一労働同一賃金』は企業の競争力向上につながるのか? ―待遇の説明義務に着目して」『日本労働研究雑誌』No.706
(※21)人材サービス産業協議会『転職賃金相場2018』
(※22)児玉俊洋・樋口美雄・阿部正浩・松浦寿幸・砂田充(2004)「入職経路が転職成果にもたらす効果」『RIETI Discussion Paper Series』04-J-035、森山智彦(2006)「転職媒介機関におけるジョブ・マッチング」『評論・社会科学』81、小林徹・阿部正浩(2014)「民営職業紹介、公共職業紹介のマッチングと転職結果」『経済分析』第188号、中村天江(2019d)「個人の“Voice”と“Exit”と、賃上げ ―賃金に関する制度・感度・風土が乏しいなかで―」『個人金融』2019年秋号
(※23)筆者らは、個人と企業の交換関係を「Total Reward」という概念で整理している。中村天江(2019e)「マルチリレーション社会 ―一人ひとりが生き生きと働ける社会の創造」国土交通省『ライフスタイルの多様化等に関する懇談会 ~地域の活動力への活かし方~』第2回配布資料
(※24)中村天江(2017)「個人と組織の契約関係の多様化 ―健全な契約関係をいかに創り出すのか―」公正取引委員会『人材と競争政策に関する検討会』第1回提出資料
(※25)Carl Benedikt Frey and Michael Osborne(2013)“The Future of Employment: How Susceptible are Jobs to Computerisation?” Oxford Martin School Discussion Paper
(※26)リクルートワークス研究所(2016)「Work Model 2030 ―テクノロジーが日本の『働く』を変革する」

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