パリ市 職業訓練制度の改善にイノベーションを活用する理由とは
極端なデジタル化の進展により、『デジタル・ディバイド』の問題はますます深刻化しています。こうした状況下において、職業訓練制度の改善になぜイノベーションが必要なのでしょうか
2024年には、世界中が注目するパリ・オリンピックが開催される予定であり(取材時は開催前)、現在のパリは国際的なスポットライトを浴びている。オリンピック期間中は約1500万人の観光客が訪れる見込みであり、この機会を活かして、市民参加型の画期的な政策が多く打ち出されている。パリ市はスポーツだけでなく、インフラの近代化や、持続可能なイノベーションを世界に示す貴重な場と捉えている。
初の女性市長であるイダルゴ市長が立ち上げた「パリを再創造する」プロジェクトでは、市民の市政参加を促進するため、プラットフォーム上で市民がプロジェクトを提案できる制度が導入された。オリンピック開催が決定されて以降、公共空間やスポーツ施設の改善、都市空間の緑化とデジタル化、市中心部における自動車交通量の削減など、積極的な取り組みが注目されている。
また、パンデミック時には、パリ市は厳しいロックダウンが実施され、地域経済に深刻な影響を及ぼした。しかし、公共サービスの適応や市民・地元企業への支援などにより、驚異的な回復力を示した。この成功は、デジタル化と同時に普及したテレワークが市営機能に大きな混乱をもたらさなかったことにも起因している。市職員の1万2000人が総出でテレワークを行ったことが、市の回復力を支えた要因とされている。
パリ市の人事部ではテレワーク普及プロジェクトが大成功を収めており、2019年からHRイノベーション事業の代表を務めるフランク=マンフレド氏と、パリ市のデジタル化の責任者であるレモン氏に、パリ市のHRプロジェクトとデジタル化構想についてお話を伺った。
HRイノベーティブ・コミュニティの発足
オリンピック開催に向けて、パリ市とイル・ド・フランス地方は、押し寄せる観光客の流動性を確保するための対策を検討しています。その一環として、公共交通機関や道路の混雑を緩和し、日々の通勤混雑を避けるためにテレワークが奨励されています。現在、テレワークが可能な業種に従事する1万人の職員がハイブリッドワークを実施していますが、開催期間中は大半の職員がフルテレワークに移行する予定です。
2019年に発足したHRイノベーション事業では、職員の労働エクスペリエンス向上を目指し重要な役割を果たしています。具体的には、オンボーディングからオフボーディングまでの一連の流れにおいて、職員が人間性を持って職業に携われるようなイノベーティブなプロジェクトを展開しています。これには、雇用主ブランディングの構築、革新的な採用プロセス、職員のリテンション、組織内のモビリティ推進、専門職の再教育、職業再訓練の支援、ウェルネス向上など、多岐にわたる側面が含まれています。
パリ市には、文化部、人事部、清掃・水道局、法務局、広報部、住宅部、情報システム・デジタル部、公衆衛生部など全部で23の部署が存在し、300の異なる業種に5万6000人の職員が従事しています。各部署では職業柄、職員の人数と男女比などに大きな差があります。たとえば、清掃局に所属する1万人の職員の大半は男性であるのに対し、6000人いる託児所の保育士はほとんどが女性です。法務部門は75人で男女比はほぼ同等です。そのため、各部署で異なる問題やニーズが存在していることが特徴です。
こうした多様性に富んだ組織においてHRプロジェクトを推進するのは容易ではありませんが、最も重要なプロセスとして、23の各部署から50名ほどの「HRイノベーター」と呼ばれる代表者を任命し、足場づくりとして「HRイノベーティブ・コミュニティ」を形成しました。
コミュニティメンバーは月に数回、定期的に集まり、年に3〜4回のペースで必要なテーマに基づいたワークショップを開いています。これらのワークショップでは、ファシリテーターとして、最初にカードゲームを提案しています。このアプローチは、部門横断的なプロジェクトを進める際に重要です。異なる部門同士のコミュニケーションが偏見などによって阻害され、人間的な対話が不足することでプロジェクトが進まないリスクがあるためです。こうした細かな努力とともに、ベストプラクティスの共有と、性格の異なる部署間のコラボレーションを促進する基盤をつくることができました。
HRプロジェクトはスタートアップとのコラボが必須
「HRイノベーティブ・コミュニティ」は、すぐに部門横断プロジェクトを立ち上げました。このプロジェクトはオンボーディングに焦点を当てており、2020年3月末時点で250人の異なる部署の事務職員、研修生、実習生からなるグループが参加しています。プロジェクトは、2015年に設立されたパリ市のスタートアップ・インキュベーターである「Paris&Co」にて、パリ市の経済開発・イノベーション機関として活動しているスタートアップ「Teelt」と協力して進行されました。
「Teelt」はHR機能に特化したスタートアップで、特に新規職員のオンボーディング・プロセスを得意としています。新規職員のオンボード・エクスペリエンスを向上させるため、人事部や管理職に有益なソリューションを提供し、従業員のエンゲージメントとリテンションを高めています。新規職員は「Teelt」のプラットフォームを通じてパリ市の組織に関する情報に簡単にアクセスでき、受け入れ部署の管理職は、既存職員との統合に関するサポート強化を可能にしています。こうした取り組みにより、新規職員はスムーズに部署に溶け込み、早急に実務に取り組むことができる体制が構築されています。
一方、道路、清掃、保育、自治体警察などの人手不足が顕著な部署では、現場職員のオンボーディングに大きなサポートが必要です。こうした部署では、適切な人材を惹きつけ採用することが不可欠ですが、最近では、採用プロセスの近代化に特化したスタートアップ「Goshaba」とのコラボレーションを進めています。このコラボレーションにより、パリ市に多くのメリットを享受しています。
フランス語が話せない人でも公平な採用プロセス
「Goshaba」の最新技術とアイデアにより、組織内の採用プロセスを迅速に改革することができました。具体的には、小学校などで働く職員の1000人の採用に関するパイロットプロジェクトがあります。
移民を多く受け入れるフランスでは、外国籍でフランス語を得意としない人々が多くいます。このような人々に対して、従来の採用方法では、履歴書とカバーレターだけではその人の能力を適切に評価できません。しかし、フランス語が得意でないからといって、その人が職業に適していないというわけではありません。そこで、「Goshaba」は従来の履歴書ベースのプロセスを廃止し、代わりに、認知科学に基づいたインタラクティブゲームを導入することで、応募者の意欲やヒューマンスキルを評価できるよう採用方法を導入しました。
「Goshaba」の採用プロセスは、偏見や不公平を排除します。この新しいアプローチは、若いZ世代の候補者を惹きつけるのにも役立ちました。パリ市と「Goshaba」のコラボレーションは、スタートアップ・DHRイノベーション・アワードの「コンファーム」部門でグランプリを受賞しています。
「Goshaba」との協力による素晴らしい成果を受けて、パリ市の採用活動には多くの新しいアプローチが導入されています。募集広告も、パリ市専用の応募形式からIndeedやLinkedInなどの採用専門サイトやネットワークを活用することで、さまざまなタイプの応募者を採用できるようになりました。公務員の上級管理職採用試験も、800人以上の受験者を対象に、デジタルモードで実施され、従来の筆記試験とは異なる実践的なアプローチが取られました。
職業訓練制度の改善に、なぜイノベーションが必要なのか
パリ市では毎年800〜900人の職員が別の部署への異動を希望しています。たとえば、30年間清掃業の現場で働いていた職員が、腰を痛めて仕事の継続が難しくなったことから、精神的に落ち込んでしまったというケースがあります。それから、現場職員の中には、同等のデジタルスキルを持っていない人々や、義務教育の恩恵を受けられなかった人々も多く存在しますが、人事部レベルでは個々のサポート体制を構築するのは難しい状況でした。そこで、HRイノベーション事業部は、職員の精神的負担を軽減し、組織内での活発な内部異動を促進するためのサポートプロジェクトを立ち上げました。
具体的には、異動希望者から、目的別に15〜20人のグループをつくり、実際のサポートプロジェクトの援助を受けるパイロットモデルを実施しました。6カ月の集中プログラムを経て、内部異動を成功に導くためのベストプラクティスを示すことを目指しました。たとえば、腰を痛めた清掃員は、6カ月間のプログラムで、ワークショップに参加したり、同じ状況にいる職員を励ましたり、パソコンスキルのアトリエのファシリテーターとしても活動しました。現在、彼は会計部の補佐として働いており、プログラムの成功事例としても話題になっています。従来の職業訓練制度では、既にパソコンやモバイルツールを使いこなせることが条件でしたが、新しいアプローチとして「Goshaba」のインタラクティブゲームなどを活用して、多様な人々が制度の恩恵を受けられるようになりました。これにより、人材のコンピテンシーの発達に大きく貢献しています。
デジタル・メディエーターの役割
パリ市の公共サービスにおいて、デジタルトランスフォーメーションはとても重要な位置を占めています。これは、デジタルインキュベーターの設立を含む革新的なデジタル技術の導入だけでなく、現場の職員へのサポートも含まれています。現在、パリ市の現場職員は約3万人いますが、その半分はデジタル化されてない人々であり、デジタル・ディバイドは社会的不平等の原因とされています。
HRイノベーション事業部では、デジタル・メディエーターを配置し、職員がデジタルスキルを向上させ、パソコンやスマートフォン、タブレットの使い方を学び、日常生活でデジタル技術を活用できるように支援するプログラムを構築しました。具体的には、先ほどの職業訓練制度のサポートプロジェクトと同じメカニズムで、15名のメディエーターが選ばれ、6カ月にわたってデジタルスキルを学びました。彼らの以前の仕事は、パリ市のスポーツ施設の受付や、食堂の料理人などです。現在これらのメディエーターは日々あらゆる部署に出向き、デジタルスキルを伝授しています。
誰一人取り残さないデジタルトランスフォーメーションを可能にするべく、デジタル・メディエーターの活動をさらに活発化させるため、今後さらに15名を増員する予定です。私たちの日々の作業はますますデジタル化が進んでいますが、その陰で「デジタル・ディバイド」の問題は深刻化するばかりです。しかし、私たちはこうした人々をサポートせずに、未来の仕事像を語ることはできないと考えています。
取材・TEXT=田中美紀(客員研究員)、村田弘美(グローバルセンター長)
PHOTO=小田光(photographer)