
人手不足時代、労働トラブルにも変化 未払い賃金からマタハラ、情報持ち出しへ
労働需給が逼迫する中、労働トラブルも人材の多様化、流動化に起因する内容へと変化している。森・濱田松本法律事務所パートナーの安倍嘉一氏と、同事務所シニア・アソシエイトの南谷健太氏に、「人手不足時代」の到来で新たに注目されるようになった労働トラブルについて聞いた。
マタハラや人権侵害 多様化にまつわるトラブルが増加
―人手不足の深刻化に伴い、個別労働紛争にはどのような変化がありますか。
安倍:政府が働き方改革などを通じて、より多様な人材の労働参入を進めた結果、職場には女性やシニア、外国人、障害者などさまざまな働き手が存在するようになりました。これに伴い、マタニティハラスメントや外国人労働者の人権侵害といった労働トラブルがクローズアップされています。
人手不足の中で人材獲得競争が過熱し、労働者が移動しやすい「売り手市場」の傾向も強まっています。これによって企業からは「競合他社への転職者に、社内情報を持ち出された」という相談も増えています。
南谷:企業が人手の確保を優先するあまり、採用基準を緩めることに起因したトラブルが増えているのも、近年の特徴です。とりあえず人を採用したものの、試用期間中に能力不足がわかって本採用を拒否し、トラブルになったという相談や、本採用はしたが長期的に見ると能力や適性がマッチしないため退職させたい、といった相談もあります。スタートアップが大企業で要職に就いていた人を迎えたが、前職の企業文化との相違などからトラブルになるケースも見られます。企業による引き抜きも増加している印象があり、大胆な引き抜きも散見されます。こうした引き抜きは、労働者の職業選択の自由の観点から制限をかけにくいといった特徴があります。
強まる労働者の力 顧客ごと競合他社へ移籍も
安倍:引き抜かれた社員が前の勤め先の顧客を奪い、被害企業が本人や転職先企業に警告を発する事例もしばしば見られるようになりました。終身雇用で転職が少ない時代には、競合避止義務のようなルールも守られていましたが、近年は労働者の力が強まる中で、業界内のルールに従わない人が増えてきた印象です。
本来、業務で得た情報は企業の資産であり、個人が勝手に使うべきではありません。顧客の名刺などを一元管理し、持ち出せないようにする企業も増えていますが、営業担当者が個人のデバイスで顧客に連絡をとるケースも多いため、転職後に顧客に連絡して移籍先に誘導することを防ぐのは容易ではありません。かといって漏洩を防ぐため、社員による重要情報へのアクセスを強力に制限すると、業務遂行に差し支えるおそれもあります。
また情報はひとたび流出すると、流出の事実を「なかったこと」にするのは基本的に不可能です。流出先が「データは破棄した」と言いながら隠れてコピーしている可能性もぬぐい切れず、損害賠償請求などで法的に措置すれば済む、という問題でもないのが難しいところです。
南谷:顧客情報持ち出しの問題が顕在化したのは、以前より転職が比較的身近になり、人材の流動性が高まったことから、競合他社への移動が頻繁に起きるようになったことも理由の一つではないかと思います。退職者に一定期間、競合他社へ転職しないという誓約書を提出させたとしても、法的に無効と判断される場合もあり、実際にトラブルになった時にこうした措置が功を奏しない事案も相応にあるように感じます。
ハラスメント対応は厳格化 能力不足も解雇要因に
―過去と比較した時に、改めてどのようなトレンドの変化があるのでしょうか。
安倍:終身雇用のもとでは離職そのものが少なく、引き抜きや情報漏洩などはあまり起きませんでした。トラブルの多くは長時間労働や未払い賃金、解雇に関する内容で、社内もしくは労使交渉によって解決を図るケースも多かったと思います。
近年は労働基準法の改正で時間外労働に上限規制が設けられたこともあり、長時間労働や残業代未払いに関する事例は減った印象です。一方、解雇・退職関連のトラブルはむしろ、増えたと感じています。昔は「窓際族」という言葉があったように、多少能力不足でも雇用は維持されましたが、今は企業側の余裕が失われたこともあり、ローパフォーマーをシビアに評価し雇用関係の終了に向けた手立てを講じる傾向が強まっています。また直接的な解雇ではないですが、ハラスメント被害者が加害者と同じ職場で働けなくなり、加害者の異動先がない場合、加害者に退職を求めるといった事例も見られます。
南谷:人手不足で働き方や職場環境を見直す動きが強まる中、企業の多くはハラスメントに厳正に対処するようになりました。若い求職者の多くは、ハラスメントに耐えて上の役職を目指すより、心理的安全性が確保された職場で働きたいと考えるようになっており、人材確保の面で働きやすい環境を構築することが求められていることも一因でしょう。
ハラスメント対策に限らず、昨今企業のコンプライアンス遵守の意識が高まっているように思います。また、人事労務関連に関する司法判断に応じて対応を見直す動きも見られます。例えば、賃金制度において固定残業代に関する司法判断が積み上がっていく中で、固定残業代制そのものを見直す流れがあるように感じています。
安倍:特に上場企業は、レピュテーション評判に対する意識も高まる中でコンプライアンスを重視するようになっています。アクティビスト的な株主が入るなど、企業活動が投資家の目にさらされるようになったことも一因と見られます。実際にM&Aが増える中、デューデリジェンス(適正評価手続き)で法令遵守に問題があると判断されれば、ディールが壊れることもあります。SNSなどを通じて、労働者個人が企業トラブルに関して、対外的に声を上げやすくなったことも影響していると思います。
予防と早期解決で紛争を回避 司法はアドボカシーを担う
―労働紛争の解決にあたっては、労働審判制度などの枠組みが整備されています。こうした解決システムの役割に、変化は生じていますか。
安倍:労働法は基本的に労働者を保護するための法律です。訴訟には弁護士を雇うなど高いコストがかかりますし、たとえ企業側が勝っても適法という判断が下されるだけで、大きなメリットが得られるわけではありません。このため、労働紛争に発展する前に、話し合いによる早期解決を目指すことはしばしば見られます。弁護士の役割も紛争の代理人から、司法の場に持ち込まれる前に解決を図る、いわば「予防法務」の方向性に向かいつつあります。企業に所属する弁護士も増えており、法務だけでなく人事労務の領域に関与するケースも出てくるのではないかと考えています。
南谷:新司法試験をはじめとした司法改革によって弁護士の人数は急増し、本来なら国民や企業は、リーガルサービスにアクセスしやすくなっているはずです。しかし、労働審判のような一部の手続きを除き、訴訟全体の件数自体が減少傾向で、訴訟手続きによる解決ニーズは低下しつつあるように思われます。
一方、司法の役割には紛争解決だけでなく、1票の格差の是正やLGBTQの権利擁護といった、アドボカシーの手段という側面もあり、こうした訴訟を専門に扱うサービスも生まれています。労働分野でも多様な労働者が参入し人権が問われる場面が増える中で、裁判で権利を勝ち取るというアドボカシー的機能に着目した訴訟が増えていくかもしれません。
―労働トラブルへの対応や解決にあたって、政府、行政にもできることは何かあるでしょうか。
南谷:人手不足に起因する問題は近年、あらゆる領域で顕在化しています。企業側はその対応に追われる中で、訴訟にリソースを割きにくくなり予防的な対応へと向かっている面もあるのではないかと感じています。人事労務・雇用政策は、労働者保護が主眼という性質から企業に対応を求める傾向がありますが、企業負担と労働者保護の両面においてバランスのとれた政策が求められているのではないかと思います。
安倍:労働人口が減少する中で、企業が外国人の受け入れや定年の引き上げなどを進めていけば、それらに付随したトラブルは今後も増えるでしょう。政府としてもそれぞれの政策が何のためなのかをよりしっかりと明確化したうえで、企業がどういった役割を担うべきなのかを、丁寧に説明するべきだと考えています。
聞き手:坂本貴志
執筆:有馬知子

安倍嘉一氏

南谷健太氏