世界を拡張する「反復」の旅
旅によって読書の優位性を疑う
旅は、知的生産にとって欠かすことができない体験である。旅がわれわれに新しい知識をもたらしてくれることは、多くの人が同意見ではないかと思う。
子ども時代の遠足、中高の修学旅行の体験を思い出してもらいたい。また、初めての海外旅行はどうだったか。旅は、好奇心を刺激し、膨大な新・知識を浴びせてくれる。要するに、人は自分の生活圏を超えると、当たり前のことが当たり前ではなくなる。旅は日常を超えて、非日常という未知に向かう一歩になる。
このように書いているが、私が旅の魅力に気づいたのは遅かった。ブッキッシュな若者だったので、「旅なんかせずとも本を読めばよいのだ」という偏狭さを持っていた。体験を伴わない知識の偏愛者であった。
私が研究者の卵となり、自分のオリジナリティが求められたとき、今までため込んでいた知識にたいした価値がないことを自覚した。それまで読んでいた哲学・思想書は、私に「考えろ」と言っていたのに、私はそのまま他人に「書かれてあったこと」を伝達しただけである。まるで自分の考えのように……密輸入し、密輸出しただけだったのだ。
小林秀雄は、若き日を振り返った「✕への手紙」の中で、「書物に傍点をほどこしてはこの世を理解していこうとした俺の小癪な夢」というカッコイイ決め台詞を書いている。この夢を一挙に破ってくれた体験は、小林にとっては恋愛体験であるのだが……旅もまた、そのような破壊力を持った個人的体験なのだ。
「10カ所1回」よりも「1カ所10回」
旅好きの一般的なイメージには、観光地をめぐる人、もしくはバックパッカーの放浪者であろうか。私の好きな旅はちょっと違う。気に入った土地へなんども反復的に訪問するのである。10カ所にそれぞれ1回旅するよりも、1カ所に10回旅をする方が楽しい。もちろん、反復といっても毎回同じことをするのではなく、訪問先で同じことをしつつ、少しずつ新しいことを増やしていく。
例えば、何度も通う浅草。神社仏閣や芸能はもちろん、洋食や和食のお店も多い。私は、一人で、家族と、友人と、あれこれ食べ歩いた。最初の1カ所、1店舗から、どんどん点の数が増えてくれば面的に把握できる。
だが、時間はかかる。1日は3食しかないので、日帰り旅行だと2食が限界である。そこで、だったら宿泊すればよいと考えた。1泊すれば、昼食→夕食→夜食→朝食→昼食という5食のスケジュールが可能だ。私が、浅草に泊まっているというと、なぜ自宅から1時間程度の場所に泊まるのかという「?」が顔に浮かぶ人も多い。そんな「?の人」は、お金の計算をして朝から晩まで旅先での体験を繰り返すことの愉悦を知らないのだ。
そんな愉悦の一日。アンヂェラスで池波正太郎が好きだった梅ダッチコーヒーを飲みつつ、壁にかかっている森芳雄の「テラスの女」を見た。この絵は前も見たのだが、今回はこの絵についての個人史を語る洲之内徹の『気まぐれ美術館』を持ってきた。アンヂェラスはその後閉店してしまったのだが、このように記憶の集合に私の体験(記憶)を接続させて、その土地の時間を把握していく。そのためにも反復がどうしても必要なのだ。反復しないバックパッカーの放浪なんて、自分だけを見ている(自分探し)のであって……若いうちに終わらせておくべきではないか。
私は、旅の反復によって本とも出合うことができた。本→本→本というループから抜け出して体験→本→体験→本のループへ移ることができたのだ。当然、本も増えていく。例えば、以下の写真は、年に何度も訪れる秩父についての本棚である。もちろん、秩父に旅する前には、まさか『秩父商工会議所抄史』や『秩父廃寺録』を買うとは思わなかったのであるが。
写真① 秩父の本棚
「地理縛り」が生み出す全体と総合
私は、このような旅の反復を「地理縛り」と呼んでいる。漫画、『呪術廻戦』を読んだ人には、「縛り」の重要性は理解いただけるだろう。もしくは、漫画『HUNTER×HUNTER』の「制約/誓約」と言い換えてもよい。未読の人に説明すると、縛り(制約/誓約)は、戦闘において、あえて不自由/不利なルールを受け入れることによって呪力(念能力)の効果を高められるという設定である。
漫画の話はちんぷんかんぷんという人には、俳句における5・7・5の文字縛りや季語縛りを思い浮かべてほしい。この不自由があるからこそ、われわれは言葉の力を高められているのではないか。
地理縛りの効果は、一般的な学術研究と比較するとより理解できる。歴史研究は、実証の厳密性を求めた結果、文化史/経済史などの専門領域、古代/中世のような時期区分を絞る。つまり、絞ることによって厳密になるが、その視野は狭まってしまう。結果的に全体像も失われる。一方で、図1に示したように、あえて地理を限定してなんでも調べると(縛りをかけると)、専門領域も時期区分も横断することになる。その結果、総合的な把握が行われ、目の前に全体像が顕れるのだ。
図1 二つの地理縛り
地理縛りによる全体史の展望は、長崎学の基礎を築いた歴史家、古賀十二郎に学ぶことができる。大学人ではなく、市井の郷土史家であった古賀は、生まれ育った長崎の歴史を調べて書いた。なかにし礼の『長崎ぶらぶら節』は、古賀が、長崎・丸山の名妓であった愛八と一緒に長崎の古い歌を探し歩く物語で、直木賞を受賞し映画化もされている。小説では、ロマンスの要素が追加されており、渡哲也さんが古賀を、吉永小百合さんが愛八を演じている。
写真② 『長崎ぶらぶら節』と『古賀十二郎』
古賀十二郎の伝記を執筆した中嶋幹起は、古賀を「長崎のアナール派」と呼ぶ。様々な歴史家(他分野も)が集まったアナール派をまとめることは難しいが、政治・事件・軍事史や人物史中心の歴史学において見落とされてきた女性史・社会史・心性史への着目、さらに愛八とも行った聞き書き(オーラルヒストリー)の手法を鑑みると、古賀の歴史研究はアナール派との共通点は多い。
アナール派の代表的歴史家であるフェルナン・ブローデル(Fernand Braudel)は、1949年に『地中海』を刊行しており、その序論には地理学的序論を設けている。中嶋は、古賀の『長崎市史 風俗編』もまた、地理の分析から始まることを指摘する。刊行されたのは、『地中海』よりはるかに早く、1925年である。
注意すべきは、地理の分析から始めたからといって、地理決定論ではないことである。もちろん、経済決定論、政治決定論、文化決定論でもない。私に引き付けて解釈すれば、これらは長崎、地中海という「地理縛り」なのだ。そして地理縛りが効果を発揮したからこそ、アナール派特有の歴史学以外の人間諸科学への越境/統合が生まれ、様々な要素の長期的な関係性という総合的な歴史像が描かれた。
非日常へのメタモルフォーゼ
古賀十二郎のような大歴史家の足元にも及ばないが、私もまた地理縛りの反復旅にこだわり続けてきた。大阪、浅草、釜石、松山、ロンドン、秩父、京都……強弱はあるが縛りを入れている土地がいくつかある。
その一方で、古賀との質的な違いも感じる。古賀が、一生涯をかけて郷土である長崎を調べたのに対して、私の場合は、偶然に出合い、惹かれた土地に、あとから縛りをかけている。郊外育ちの私には、自信を持って郷土といえる土地がなく、それゆえに「郷土のようなもの」を探して反復を続けたのかもしれない。
真木悠介(=見田宗介)の言葉、「根をもつことと翼をもつこと」を挙げよう。図2に示したように、共同体に強い拘束性があれば、共同体の外へと翼によって飛び出したいという自由への根源的欲求が生まれる。一方、単に拘束がない自由を目的にしても意味はなく、共同体にどっしりと根を生やしたいという根源的欲求もある。この二つの根源的欲求をいかに創造的に両立させるかが、真木=見田が行った思索である。
図2 根をもつことと翼をもつこと
私の旅は、拘束性の低い土地(東京郊外)に生まれ、郷土という意識も持てなかった現代人のものだ。根を持つという根源的欲求があるがゆえに、いつも旅が反復へと移行してしまう。もちろん、反復による根は未完成のままであり、反復し続けたとしても郷土にはならない……それゆえに反復すべき土地との出合いは増えていく。これは、「反復の放浪」と呼べばよいかもしれない。
そもそも私は、日常であるはずの地元や職場も「旅先」のように感じてしまうことがある。法政大学に勤め始めてもう21年が経過したが、私には、大学近くの飯田橋や神楽坂は日常ではなく、旅先で、だからこそ反復を続けてきた。
学生たちと地元神楽坂のタウン誌を7年間作り続けたときは、地元住民86名にインタビューも行った。また現在、大学史委員会に所属し法政大学の歴史を調べている。つまり、同僚と比べても職場・地元に詳しい方なのだが、私は、非日常⇔反復のあいだの宙ぶらりんなのだ(図3参照)。そして、次の土地、次の土地へと時間がゆるす限り反復先が生まれてくる。
多くの人は、旅を日常から非日常への移行として捉える。しかし私の旅は、いつもの日常さえも非日常にメタモルフォーゼさせてしまう。非日常化(翼への欲求)と、根を持つための反復が自分の中で拮抗しており、その状況は、それはそれで大変ではあるのだが、私の知的生産の源泉だ。とても不安で不安定なのだが、同時にワクワクできる<旅の途中>なのである。
図3 非日常⇔反復のあいだ
参考文献
梅崎修・佐藤憲・筧隆太(2014)「(事例研究)オーラルヒストリーによる地域メディアの可能性―大学生によるタウン誌作成の実践を通じて」『地域イノベーション』Vol.7 pp.83-94.
小林秀雄(1962)『Xへの手紙・私小説論』(新潮文庫)
洲之内徹(1978)『気まぐれ美術館』(新潮社)
中嶋幹起(2007)『古賀十二郎-長崎学の確立にささげた生涯 (長崎人物叢書2)』(長崎文献社)
なかにし礼(1999)『長崎ぶらぶら節』(新潮文庫)
長崎市『長崎市史 風俗編』
真木悠介(2003)『気流の鳴る音-交響するコミューン』(ちくま学芸文庫)
フェルナン・ブローデル著、浜名優美訳(1991-1995)『地中海』(全5巻、藤原書店)
梅崎 修氏
法政大学 キャリアデザイン学部 教授
Umezaki Osamu 1970 年生まれ。大阪大学大学院博士後期課程修了( 経済学博士)。専門は労働経済学、人的資源管理論、労働史。これまで人材マネジメントや職業キャリア形成に関する数々の調査・研究を行う。
◆人事にすすめたい1 冊 『労働・職場調査ガイドブック』(梅崎修・池田心豪・藤本真編著/中央経済社)。労働・職場調査に用いる質的・量的調査の手法を網羅。各分野の専門家が、経験談を交えてコンパクトにわかりやすく解説している。