人事のアカデミア
柳田国男
無数の名もなき人々が積み上げてきたものの価値を知る
日本民俗学の巨匠として、柳田国男の名前は広く知られている。実はその足跡をたどると、文学から農政学へ、官僚から民間学者へ転身を重ねて民俗学に至ったことがわかる。生涯を通じて彼を動かしてきたものは何か、柳田民俗学の独自の方法はなぜ生まれたのか、日本近現代史を専門とする鶴見太郎氏に、柳田が目指したものについて聞く。
多面的に見えても問題意識は変わらない
梅崎:柳田国男の生涯を振り返ると、その多面性に驚かされます。青年時代は文士として活躍。大学で農政学を学んで官僚になり、自営農民社会を目指して積極的に地方を回りましたが、やがて野に下って日本の民俗学の礎を築きました。それぞれの時代において多様な活動をしており、一見、わかりにくい人に感じます。
鶴見:多面的に見える最大の理由は、我々が近代の思考で彼をとらえているからでしょう。柳田は、近代的な学校制度以前の家学の伝統を受け継いでいる人です。柳田の父親は漢学、国学に習熟しており、小さい頃から家のなかで江戸時代の学習法である素読が行われていました。日々、母親から受けた躾の影響の大きさについて本人も述べており、学校の授業はあまりなじまなかったようです。
小学校卒業後は、郷里の豪農である三木家に預けられて、近代教育ではほとんど目にすることのない絵草紙など、和漢の蔵書を読破。その後、関東に移ってからも近所の医者の家の蔵書を手当たり次第に読んでいました。我々が学校で指導されるような系統的な読書とは異なる経験をしてきたわけです。
梅崎:近代の細分化された学問体系に照らすと、はみ出しているように見えますが、そもそも近代的な教育の影響をあまり受けていない人だったということですね。
鶴見:はい。もう1つの大きな理由は、柳田が問題から出発していること。柳田にはいくつかの原体験があります。故郷の家は狭い田の字形の家で、長兄が結婚したとき無理に同居したために、2度にわたって結婚生活が破綻してしまいました。家の大きさや構造が、兄嫁との離別という家庭的な不幸を招いたのです。
さらに隣町の北条町に引っ越すと、1885年には、日本で最後と思われる飢饉に見舞われました。炊き出しを求める人たちの長い行列が1カ月も続いたといいます。南方熊楠も折口信夫も宮本常一も、このような飢餓体験は持っていません。子どもの頃に見たその光景によって、柳田とほかの民俗学者との決定的な違いが生まれたと私は考えています。
「何ゆえに農民は貧なりや」という有名なフレーズは、1930年代初めに『郷土生活の研究法』で初めて使ったとされますが、柳田のなかにはずっとその問いがありました。こうした問題を起こさないためには何が必要かという問いが、柳田の出発点です。そのための学びを行うと、おのずと複合的、脱領域的になります。
梅崎:一般に、柳田は農政官僚としての限界を感じて民俗学の道に進んだといわれますが、内なる問題意識はつながっていた。
鶴見:農政学から民俗学へ移行したことについては、研究者の間でも「挫折説」と「深化説」があります。決着はつけられませんが、強いて言えば私は深化説に近い立場です。官僚機構では、人事によって資質を発揮できないことがあります。柳田も法制局参事官だった頃は全国の農村を回って民俗採集ができましたが、貴族院書記官長になって奥向きの仕事ばかりになってしまいました。傍目から見れば栄転であっても、本人にとっては適材適所とはいいがたかった。政策論議よりももっと深く農民の心性に触れる必要があるとの思いから、民俗学の領域へ入っていったと考えています。
梅崎:官僚システムに失望しただけで、農政への関心を失ったわけではなかったと。
鶴見:あるべき官僚像とは違うという柳田なりの矜持だったのかもしれません。そもそも明治前半には、学問と政治が混然としていました。ヨーロッパの法制度を学んで日本の国政に反映させなくてはいけないという点で、常に学問と政治はつながっていた。1875年生まれの柳田はその頃の官僚像を知っている、ほとんど最後の世代に属します。
さらに柳田の場合は、そこに文学が加わります。10代半ばから兄を介して森鷗外のもとに出入りし、西欧文学の手ほどきを受けました。鷗外自身も、陸軍軍医総監など官僚の道を歩んできた人ですよね。鷗外の影響を強く受けていた柳田のなかでは、政治と学問と文学が結びついていました。
梅崎:明治という時代背景を踏まえて柳田を見る必要がありますね。
鶴見:明治の時代には、地方から東京の大学に入り、刻苦勉励して、官僚や学者になるというルートがありました。柳田は「母の糸車」という言葉で表現しています。東京の学校で遊びたいという気持ちが起こったときにも、故郷の母親が糸車を回して学費を捻出してくれていることを思い出して学業に励んだといいます。
地方を離れて立身出世していくと、郷土での記憶や体験はやがて薄れていくものですが、柳田は、その一つひとつの記憶をずっと持ち続けていた。この点は彼の大きな特色だと思います。
概念を先行させるのではなく無数の記憶と経験を集める
梅崎:これも近代的な見方かもしれませんが、柳田民俗学の「方法」は、現代の社会科学の方法論と比べると洗練されていないと見る向きもあります。概念の定義が曖昧で、論文としての切れ味が鈍いと感じる人もいるようです。
鶴見:しばしば学者は、概念から外れるものを排除して定義を作ってしまうことがある。その場合、定義は確かに切れ味鋭くなりますが、日常生活から乖離してしまいます。柳田はそれをしません。民俗学は、人や人の営みを研究する学問。人間のやることには、定義から外れることがたくさんあります。
梅崎:概念先行ではない方法を採ったということですね。
鶴見:保守主義の体系を作ったとされるエドマンド・バークは、本来の保守主義とは、自分の生まれた場所の迷信も一緒に受け継ぐものだと言っています。たとえ不合理なものであっても、長い間その土地に伝承されてきたからには何らかの理由があり、価値があるものなのです。それを持ち続けて生きるということが、柳田の根幹にある。その意味で、柳田は紛うことなき保守主義者です。
柳田民俗学では、そうした人々の心に伝わる心意伝承に着目していました。さまざまな民俗事象が説明できるものとして、特に信仰に軸足を置いていました。そのために、各地の民俗語彙を丹念に採集し、その時代における言葉の用例を、ほかの地域のものと比較総合するという方法を基調としています。
梅崎:全国の郷土史家、民俗学者を組織化し、ネットワークを構築していきました。そこで重要な役割を果たしたのが、柳田の高弟だった橋浦泰雄です。
鶴見:私自身が柳田に関心を持ったきっかけは、橋浦でした。成城大学の柳田文庫で全国山村調査の記録を見たとき、際立って綿密に書かれているフィールドノートがあり、それが橋浦のものでした。しかも彼は社会主義運動に関わっていたらしい。柳田門下には橋浦のほかにも、中野重治や福本和夫、石田英一郎など、弾圧を受けて社会主義運動から離脱した人が多くいた。そうした人たちを悠然と従えている柳田国男に対しても興味を持ちました。
梅崎:橋浦は、いわばネットワークのオーガナイザーですね。
鶴見:橋浦のもとには全国の郷土史家、民俗学者から、おびただしい量の書簡が届いています。橋浦もそれに見合うだけのものを返していたということ。郷土史家が亡くなったあとは、息子さんや娘さんと文通していました。
出典:『柳田国男 感じたるまゝ』をもとに編集部改変
未完成の「総論」はこれからも更新されていく
梅崎:柳田はネットワーク化された人々とよく座談を行っていたそうですね。
鶴見:自宅に各地の郷土史家や民俗学者らを集めて「木曜会」という談話会を主催していました。そこでは民俗語彙があちこちから飛び交って、これはどういう意味か、どういう脈絡で使われていたかが盛んに議論されていました。初めて参加した人は議論についていけないことが多かったそうです。柳田は昔から座談が好きで、いろいろな場に参加しています。
梅崎:研究会報告とはかなり趣が異なります。
鶴見:その言葉がどう使われていたのかを何とか再現することで、心意伝承に肉薄しようというものです。柳田はアカデミックな論文に対して明らかに距離をとっていました。すべてを切れ味鋭く説明できる「貫く」論理ではなく、「連なる」論理を求めていたといってもいい。各地の郷土史家の感触を尊重し、それぞれの郷土が連なることで全体像をとらえる。安易に結論を出さず、時間をかけて対象を見極めようとする態度だといえます。
梅崎:柳田が「総論」という言葉を好んで使っていたのもわかる気がします。
鶴見:橋浦もいっていますが、あらゆる事象を1つの原則によって説明しようとする「体系」に対して、「総論」はそこに至るまでの余裕を残しています。大きな体系的な理論があると、学問としては使い勝手がいいが、閉じている。総論は、理論体系には至らない小さな隙間を見出し、有機的な連関を探っていくものです。
梅崎:現代に生きる我々が見直すべき方法のように思います。ただし時間はかかりますよね。
鶴見:柳田は天才論の否定者なんです。彼の芸術観、政治観では、1人の天才が作ったものよりも、無名の人たちが数百年かけて作り上げてきたもののほうが遥かに大きい。
柳田は「ご先祖になる」という言い方をしています。これから新しい場所に行って、自分が草分けとなって、自分の一族を作っていくことができる。先祖とは、系譜をさかのぼった先に単体で存在するものと思われがちですが、今の自分でもご先祖になれるというのです。
梅崎:「全集」という言葉も避けていた。
鶴見:完成した体系として受け止められるのを嫌い、隙間のある総論として進化していく余地を残したかったということでしょう。柳田は教養主義ではなく、生活のなかでその時々に現れる知恵に信を置く人なのだと思います。自己完成を目的としていない。自分の代で説が完成しなくても、後に続く人が付加していくことで、総論が更新されると考えています。
梅崎:常に新しい人の参加を肯定している。
鶴見:隙間が多い分、柳田の文章は人それぞれの読み方ができるのではないかと思います。読む側の体験や問題意識が深ければ深いほど、独創的な読みができるのではないか。
わかりにくいといわれますが、柳田の文体には、読者を圧倒するのではなく、読者に追体験、再検証の道を開いてくれる力がある。「確かにこういうものを見たことがある」「こういうことは私の身近にも起こり得る」という体験を思い起こさせてくれると思います。
梅崎:だからこそ、柳田は今も多くの人に影響を与えている。改めて柳田の本を手にとって、追体験に誘われてみたいと思います。
Text=瀬戸友子 Photo=刑部友康
鶴見太郎氏
Tsurumi Taro
早稲田大学 文学学術院教授
明治学院大学文学部卒業後、京都大学大学院博士後期課程修了。専攻は日本近現代史。柳田民俗学の伴走者として知られる橋浦泰雄研究の第一人者。著書に『柳田国男入門』(角川選書)、『柳田国男とその弟子たち』(人文書院)など。
人事にすすめたい本
『柳田国男 感じたるまゝ』
(鶴見太郎/ミネルヴァ書房)
青年詩人、農政学者、官僚から民間学者へと転身し、日本の民俗学の礎を築き上げた知の巨人、柳田国男の全貌を浮き彫りにする。
梅崎修氏
法政大学キャリアデザイン学部教授
Umezaki Osamu 大阪大学大学院博士後期課程修了(経済学博士)。専門は労働経済学、人的資源管理論、労働史。これまで人材マネジメントや職業キャリア形成に関する数々の調査・研究を行う。
Navigator