なぜ、知的ランダムウォークが必要なのか? ―知的ランダムウォーカー宣言!

2024年03月21日

執筆:梅崎修(法政大学キャリアデザイン学部教授)

この「知的ランダムウォークのinsight」の連載をはじめるに当たって、はじめに「なぜ、ビジネスパーソンに知的ランダムウォークが必要なのか?」について説明したい。

クリエイティビティの獲得=ランダムウォーク

知的であることに価値があることは、多くの人が同意してくれるであろう。現在はVUCAの時代と言われている。VUCAとは、Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)という4つの単語の頭文字をとった言葉である。
こういう先行き不透明で、予測不可能な時代だからこそ、既存知の枠組みを惰性で使うのではなく、既存知を理解しつつ、それらを新しく組み合わせたり、新しい知を生み出したりする探索(exploration)が求められている。
そのようなクリエイティビティがビジネスにおいて重要であることは、誰しもがわかる「答え」であろう。
では、どうすれば自らがクリエイティブな人材になれるのだろうか。そう問われても、その「方法」はなかなか見つからない。
私が、ランダムウォークでなければならないと主張すれば、多くの人は疑問を持たれるかもしれない。しかし、あえて宣言したい。VUCAの時代、ランダムウォークでなければ、本当に知的にはなり得ないのである。

コストの過大評価というバイアスが知的探求のブレーキに

VUCAの時代は、先が予測できないのだから「不安の時代」である。当然、予測できないものをなんとか予測したいという願望が生まれる。そのような気持ちの裏には、この不安を減らしたいという隠された心理がある。
多くのビジネスパーソンが、ビジネス書を真面目に読んでいるが、その理由の一つは、そこに誰にでも当てはまる「役に立つ方法」が書いてあると思っているからであろう。さらに、その方法を効率的に見つけたいと思っている。要するに、安心したいのだ。
しかし、クリエイティブであるためには、このような不安の埋め合わせ行動は阻害要因でしかない。知的探求とは、答えがあるかどうかわからない道を、あと一歩、あと一歩と余分に進むことである。言い換えれば、未知の中に飛び込む行為である。不透明性を減らしたいと思い、コストパフォーマンスを意識すればするほど、われわれは知的探求から遠ざかってしまう。
こういうコスパ感覚は、計測が容易な過去のコストと計測できない未来パフォーマンスの比較という点において、いつもコストを過大評価するというバイアスを伴う。結果的にわれわれは、合理的に知的探求を止めてしまうのだ。

VUCAそのものを嗜好し、新しい知の発見の可能性に賭ける

たしかに、多くのビジネスパーソンにとって若手時代には、効率的な仕事のやり方を身に付けることは必要である。しかし、キャリアのあるタイミングで、一度、それまでのやり方を破壊するという転機が生まれなければならない。効率性とは、一つの目的を疑うことなく、VUCAを縮減したり、リスクを最小化したりする短期の合理性でしかない。クリエイティビティとは、VUCAそのものを嗜好し、その中で新しい知を発見できるという可能性に賭けることでもある。
目先の合理性を否定し、心の中の不安を打ち消すには、不安が「ワクワク」に変わるPlayfulな好奇心が必要になる。それが、行動の過剰さを生み出すならば、結果的に知的活動は、あちらに過剰(あと一歩)、こちらに過剰(あと一歩)という、事前の想定をはみ出す大きな波になる。すなわち、知的ランダムウォークになるのだ(図参照)。

図 既知を飛び出す知的ランダムウォークの波(出典:梅崎氏作成)

このような知的な波こそがビジネスの波を作り出すのだ。とはいえ、われわれが知的ランダムウォーカーになるのは、至難の業である。
かつての深夜の名番組「タモリ倶楽部」(1982-2023)の名物コーナー「空耳アワー」で、タモリさんと名コンビであった安齋肇さんは遅刻魔であった。その安齋さんにタモリさんが言ったという名言がある。

「私たちは真剣に遊んでいるんだから、遊びのときは遅れるな」

仕事ならばよいけど、遊びなんだから、という逆転した価値観はすでに過剰である。こんな遊びの過剰が失われ、ツマラナイ、見かけだけの真面目さだけが支配するようになったから日本企業も弱くなったのだというのは言い過ぎだろうか。

このコーナーでは、日本のビジネスパーソンを愉快な知的ランダムウォーカーに変貌させるために知的に遊びまくりたいと、企んでいる。

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