シンガポールのキャリア教育

芦沢柚香氏(常磐大学人間科学部・助教)

2025年03月25日

1.はじめに

シンガポールは1965年にマレーシアから分離独立して以来、その限られた天然資源を補うべく、人的資源の活用を基盤として目覚ましい経済発展を遂げてきた。そうした国の発展を支える人材を育成する教育システムへの関心は極めて高く、国家予算に占める教育省予算の割合は約15%と多額の投資が行われている。そして、その成果に目を向けても、PISAやTIMSS等の国際学力調査において同国は常にトップクラスの順位を収めており、シンガポールはまさに教育立国であると言っても過言ではないだろう。そのような国において、教育と労働との結節点となり得るキャリア教育は、近年特に大きな期待が寄せられている分野のひとつである。日本以上に、「国家の発展に資する人材育成」という切実な願いがダイレクトに反映されたキャリア教育とはいかなるものであろうか。

2.シンガポールの経済発展を支えてきた2本柱

シンガポールにおけるキャリア教育について論じる前に、その重要性が叫ばれるようになった背景を押さえておきたい。同国における経済発展を支えてきたのは、「積極的な外資導入政策」と「徹底したメリトクラシーに基づくマンパワー政策」の2本柱である。前者については、詳細は他稿に譲るが、外国企業の誘致、外国人労働者の受け入れを国家主導で積極的に推し進め、少ない人口を補うための人的確保を企図した政策である。後者については、個人の能力に応じて進学する学校が振り分けられる分岐型学校制度によるところが大きい。同国の学校教育では、小学5年生から成績に応じた選択科目が導入され、小学校卒業時の修了試験(PSLE: Primary School Leaving Examination)、中等教育学校卒業時の修了試験(GCE-OもしくはGCE-N: Singapore Cambridge General Certificate of Education, Ordinary LevelもしくはNormal Level)の成績結果によって、卒業後に進学可能なコースや学校種が決まっていく。前者の政策と対比させるなら、こちらは少ない人口を最大限活用できるよう、有能な人材を早期に選抜し、その能力を育成することを企図した政策として位置づけられる。このような国外から人材を集め、国内の人材を適材適所に配置し育てる2本柱によって、同国の経済発展は支えられてきた。

しかしながら2000年代末以降、この2本柱にひずみが生じ始める。まず、居住人口に占める外国人の割合が高まり続けることで、シンガポール国民の生活や雇用が脅かされる懸念が指摘されるようになり、同時期に国家の経済成長率が鈍化したことも相まって、多くの国民から、外国人労働者の積極的受け入れへの批判がなされるようになった。また、学力試験に基づく選抜性の高い学校教育システムに対しても、コンピテンシーに基づく教育改革という国際的潮流の中で、早期からの過度な選抜を忌避する姿勢が強まり、よりホリスティックな教育を志向するようになっていった。そして、こうした背景を踏まえて、同国の経済成長を支える新たな政策として打ち出されたのが「SkillsFuture」と呼ばれる政策である。同国におけるキャリア教育は、今日、このSkillsFutureの一部に位置づけられている。

3.生涯学習を通じた職能開発を支援するSkillsFuture

2014年、シンガポールでは、国民のための職能開発の機会及び雇用機会を充実させることを目指して、SkillsFutureと呼ばれる政策が打ち立てられた。上述の通り、外国人労働者の積極的受け入れを抑制せざるを得ない中で、同国の政府は国民一人ひとりの労働力向上のための取り組みに注力し始めたのである。同国において、従来、労働力開発は労働省(Ministry of Manpower)の管轄であったが、国民の一層の職業能力開発のためには教育と職業訓練とを統合的に発展させることが不可欠であるとして、関連諸機関の再編を経て、教育省(Ministry of Education)の下部組織として新たに「SkillsFuture Singapore: SSG」が設立された。当該政策にまつわる業務はすべてこのSSGが担っている。

SSGのウェブサイトにおいて、「SkillsFutureは、シンガポールの人々がその出発点にかかわらず、生涯を通じて潜在能力を最大限に伸ばす機会を提供するための国家的運動である」と説明される通り、当該政策は、学校教育の段階、入職の段階、ミドルキャリアの段階、定年後の段階と、人々の生涯の各段階に応じて、適切な職能開発の機会をシームレスに提供することに主眼が置かれている。ゆえに、SkillsFutureに包含される個別の政策は、小学生から成人までのあらゆるシンガポール国民を対象としたキャリア形成支援に関するワンストップ・サービスを提供するポータルサイト「MySkillsFuture」の運営、成績中下位層のための中等後教育機関である技術教育学院(Institute of Technical Education: ITE)やポリテクニック(Polytechnic)におけるインターンシップ「Enhanced Internships」の充実、成人向けの職業訓練や生涯学習のための助成制度「SkillsFuture Credit」の運用など、その内容と対象は多岐に及んでいる。

4.SkillsFutureの一部としてのキャリア教育

上述の通りSkillsFutureは学校教育に限定された政策ではないものの、国家の労働力開発を管轄する組織が、労働省から教育省へと移ったことは、シンガポールにおいて、当該分野は学校教育段階からの継続的な取り組みが必要であると強く認識されていたことを示唆している。ここでは学校教育段階におけるキャリア形成に資する取り組みをキャリア教育として捉えることとし、シンガポールにおけるキャリア教育を整理していく。

同国のキャリア教育は「Education and Career Guidance: ECG」と呼称される。SSGのウェブサイトにおいて、「教育・キャリアガイダンス(ECG)は、人生の様々な段階にあるすべてのシンガポール国民のためにある。学校に通う生徒であれ、キャリア初期・中期の成人であれ、ECGは、自分自身の興味、能力、情熱についてより深く知り、十分な情報に基づいたキャリア選択を下せるよう支援する。教育と雇用の機会を探究することで、自らの望む進路の実現に向けて前向きな一歩を踏み出し、生涯を通じて学び続けることができる」と説明されている。ECGを通じて学習や職業能力向上のための意欲を育み、これを原動力として国民の生涯学習を促進することが企図されている。同国においては、中等教育段階以上の学校にECGカウンセラーという専門職スタッフが配置され、生徒たちの科目選択や進路選択を支援するほか、教員と連携してインターンシップや職場見学、ゲストスピーカー等のプログラムを開発・実施する。

今日ECGに大きな期待が寄せられる理由は、以下の2点から説明できる。1点目はSkillsFutureの一環として、大学以外の中等後教育機関(ITEやポリテクニック)卒業後の進路が多様化したことに由来する。以前より、これらの教育機関からいくつかの段階を経て大学へ編入し学位を取得することは可能であったが、「スキル習得系科目等履修生制度(Skills-Based Modular Courses)」の導入によって、学校卒業後、就業経験を得たのち、あるいは就業を続けながら、上級職業資格や学位の取得を目指しやすくなった。すなわち、個々の経済的事情等により短期的には実現困難な進路であっても、長期的な将来展望として思い描くことが可能になったのである。ゆえに、中等教育段階において、卒業直後の進路を決定するに留まらず、より長期的展望を持って、そこから逆算的に短期的な進路選択を行うことの重要性が一層高まったと言える。2点目は、こうした様々な教育・訓練機会の充実と連動するようにして推進されている中等教育改革である。本稿前半にて、シンガポールの学校教育の特徴として、学力試験に基づく選抜性の高い学校教育システムに触れたが、2024年より、小学校卒業時の修了試験であるPSLEの結果によって、中等教育学校の所属コースが決まるというシステムが廃止された。その代わりに、PSLEの結果に基づき、科目ごとにレベル別クラス編成が行われる「Subject-Based Banding: SBB」が、先行導入された小学校段階から拡大させるように、中等教育段階においても新たに適用されることとなった。生徒たちは各科目において自身の習熟度に応じた教育を受けることが可能となり、科目選択の幅も大いに広がったとみることができる。この点においても、自身の将来展望に応じた科目選択の重要性がより高まったのである。

このようにシンガポールにおいては、SkillsFutureを合言葉として多様な教育・訓練機会の提供が推し進められ、それらの機会を最大限効果的に活用できるように、生徒個々の長期的及び短期的な進路選択を支援するECGが求められていると言える。

5.おわりに

シンガポールにおいて、キャリア教育を含む学校教育の主眼は非常に明確であり、それは国家の経済発展に向けられている。ゆえに、労働力開発に関わる政策と連動しながらキャリア教育政策が展開されており、国民のための職業能力開発の機会を豊富に提供するとともに、そうした機会をどのように活用しながら自身の生涯にわたるキャリアを形成していくのかを学校教育段階から考えていくための機会としてECGが位置づけられている。そしてそれらが一体としてSkillsFutureというひとつの政策を形作っているのが、シンガポールのキャリア教育の特徴であると言えよう。

主要参考文献
加藤雄司(2018)「シンガポールの生産性向上政策―SkillsFuture等職業訓練施策を中心に―」『Clair Report』No.473、自治体国際化協会
シム・チュン・キャット(2024)「シンガポールの教育制度におけるリーダー育成と教育格差の是正―日本の教育制度への示唆―」『政策オピニオン』No.290、平和政策研究所
シンガポール教育省ウェブサイト最終アクセス2025.3.10
SkillsFuture Singaporeウェブサイト最終アクセス2025.3.10
劉一杰、山崎茜、エリクソン・ユキコ、大國綾子、栗原慎二(2018)「シンガポールの教育におけるキャリア形成支援 : ECGの取り組みから」『学校教育実践学研究』第24巻、pp.47-54、広島大学大学院教育学研究科附属教育実践総合センター

芦沢柚香氏

常磐大学人間科学部・助教。専門は、米国における学校から職業への移行支援。特にオハイオ州をフィールドとして、学校段階におけるキャリア教育と職業教育の関係性についての研究を行っている。

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