人事は映画が教えてくれる
『日日是好日』が描く「人として成る」ための東洋的学び
すぐにはわからないことを型を繰り返し、長い時間をかけて理解することの大切さ
【あらすじ】
エッセイスト森下典子が、自ら24年間茶道を学んだ経験を綴った『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』(新潮文庫)を原作とした作品。女子大生の典子(黒木華)は、いとこの美智子(多部未華子)とともにご近所の茶道教室に通い始める。武田先生(樹木希林)に一から茶の湯の作法を学んでいくが、最初は戸惑うことばかり。しかし、時には嫌になりながらも、週に1回通い続けるなかで、典子は徐々にお茶の世界の奥深さに目覚めていく。
『日日是好日(にちにちこれこうじつ)』は、20数年にわたり茶道を学んだ女性を主人公に、茶道の世界の奥深さを描いた映画です。
女子大生の典子(黒木華(はる))は、いとこの美智子(多部未華子)に誘われ、武田先生(樹木希林)が教えるご近所の茶道教室に通い始めます。
茶道の作法は多岐にわたり、すべて覚えるのは大変なことです。たとえば、水差しをもって茶室に入室するときの作法だけでも、武田先生は細かくいくつもの指摘をします。
「左手で障子を七分ほど開けて一礼。水差しを胸の高さにまでもって入ります。水をポチャポチャ鳴らさないように。指は揃えて。畳の縁は絶対に踏まない……」というように。
当然ながら、典子も美智子も最初はぎこちなく、うまく動くことができません。一つひとつの作法の意味もわからず、戸惑いを覚えます。
そんなある日、武田先生はこのようなことを話します。
「お茶はね、まずかたちなのよ。はじめにかたちを作っておいて、その入れ物に後から心が入るものなのね」
それに対して、美智子が「それって形式主義ではないんですか」と問うと、武田先生は「何でも頭で考えるからそういうふうに思うんだね」と微笑みながら答えるのです。
典子も美智子もその時点では武田先生の言っていることを理解できません。しかし、それでも繰り返し学び続けるうちに変化が起きます。ある日、典子は、一連の動作をするなかで、「何かに操られているみたいに手が動いた。それが不思議と気持ちいい」という瞬間を体験します。これは心理学者ミハイ・チクセントミハイの言う「フロー体験」です。
ここで描かれているのは非常に高度な学びです。一般的には「To Do」を知ることが学びとされていますが、茶道が教えるのは「To Be」です。
私たちは生きていくうえで、つい「生きる目的」を見出そうとします。しかし、このように生きることを「目的を遂行するための手段」と考えることは、西洋に源流をもつ操作主義、功利主義であり、私たちの心を満足させることはありません。
一方、東洋的なものの考え方では、生きることそのものが生きる目的だととらえることが多い。自らの心を満足させ、よりよく生きたいと願うこと、そのように「To Be」を追究する思いが、「日日是好日」という言葉には込められています。
典子は学び続けるなかで守破離のプロセスをたどります。まず型から入る「守」を経験し、長年学んできたのに間違えてしまうことに悩む「破」を経て、自分だけの高い境地である「離」に至る。その過程で、典子は茶道の技術が上達するだけでなく、掛け軸から滝の音を感じ、雨音に感動するようになります。心のあり方も変わっていったのです。
この考え方は「働く」ということにも応用できます。道元が残した次の言葉がヒントです。「本来本法性(ほんらいほんぽうじょう)、天然自性身(てんねんじしょうしん)」。もとより人は仏性を内に秘めている。人も自然も仏の化身であるという考え方です。人はこの内なる仏性を引き出すために修行を重ねます。
道元はそのためにただただ座禅を組みなさい(只管打坐(しかんたざ))と説きますが、在家の一般の人たちにとっては、働くことが修行です。修行とは生き方であり、それ自体が生きる目的です。つまり、道元の言葉に従えば、働くということもそれ自体が目的なのです。このように考えたとき、私たちにとって働くことの意味づけは変わってくるはずです。
修行(=働く)を続けても、すぐには正解には至りません。ラストに近い場面で典子はこう語ります。「すぐにわかることは一度通り過ぎればそれでいい。けれどすぐにわからないものは長い時間をかけて少しずつわかってくる」。重みのない表層的な学びはその局面でしか役に立ちません。逆に深い学びはその後の人生においていろいろな局面で役に立ちます。これは人生の真理です。
Text=伊藤敬太郎 Photo=平山諭 Illustration=信濃八太郎
野田 稔
明治大学大学院グローバル・ビジネス研究科教授
Noda Minoru リクルートワークス研究所特任研究顧問。専門分野は組織論、経営戦略論、ミーティングマネジメント。
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