人事は映画が教えてくれる
『PERFECT DAYS』に学ぶ“ウェルオーガナイズド”な生活がもたらす幸福
孤独な年配のトイレ清掃員の毎日を淡々と描く『PERFECT DAYS』。仕事中も、それ以外の時間も、時代や社会との接点をギリギリ保ちながらも自分の世界、自分のリズムを大切にしたその静かな生活は、作品を観る者に不思議な感銘を与える。地位財を追求する生き方とは一線を画する主人公の“パーフェクト・デイズ”から私たちが得られるヒントとは何だろうか。
早朝、隣人が表を掃く音で目を覚まし、布団を畳み、歯を磨き、ヒゲを剃り、顔を洗うと部屋の植木に水をやる。そして、仕事着に着替え、玄関前に几帳面に並べられた車のキーなどをポケットに入れる。扉を開けると空を見上げ、アパート前の自販機で1本の缶コーヒーを買い、車に乗り込むとカセットテープで好きな音楽(その多くは1960~1970年代の洋楽)をかけて仕事場へ。主人公・平山(役所広司)の1日はこのように始まります。
仕事場の公衆トイレに着くと、決まった手順でテキパキと清掃作業を進め、次の公衆トイレに移動。休憩時間には神社のベンチでサンドイッチを頬張り、木漏れ日をアナログカメラで撮影。仕事を終えた午後は、開店時刻に合わせて自転車で銭湯へ。夜は布団で文庫本を読み、1日を終えます。
この平山の生活は、孤独で単調ではありますが、私たちに不思議な感銘を与えます。「こんなふうに生きてみたい」と感じた人もいるのではないでしょうか。その理由を考えていきましょう。 キーワードの1つは「ルーティン」です。人間の脳の処理能力はそれほど高くありません。日々の雑事にその処理能力が割かれると、脳の負荷は高くなり、ストレスになります。しかし、やるべきことの順番を決めてルーティナイズしてしまえば、作業は自動化され、考える必要がありません。平山はその快適さを理解しています。
もう1つのキーワードは「ヒュッゲ」です。ヒュッゲとは「居心地のよさ、くつろぎ、安心、満ち足りている」を意味するデンマーク由来の概念です。より感覚的な日本語で表現すれば、「ほっこり、まったり」といったところでしょうか。自分にとって快適なものやことで日々の生活を構成することによって、サステナブルな幸福を追求するこの考え方は、近年、地位財の追求とは対極を成す、新しい幸福の概念として注目されています。
ヒュッゲの条件の1つは自然との触れ合いです。また、デジタルデバイスと距離を置くことも大切です。木漏れ日やお手製の植木を愛し、部屋にテレビすらなく、スマホをもたない(最低限の仕事の連絡用にガラケーはもっていますが)平山の生活はまさにヒュッゲです。
平山の仕事の中身や取り組み方もサステナブルな充足感につながるものです。心理学者J・リチャード・ハックマンと経営学者グレッグ・R・オルダムによる職務特性理論では、次のような特性をもつ仕事は、人のやる気を引き出しやすいとされています。その特性の1つは「仕事の有意義性」。これはさらに、技能多様性、タスクの完結性、タスクの重要性という3つの要素に分けることができます。平山は道具を自作するなど工夫をして仕事に取り組んでいます。工夫次第で成果が明らかに変わる。これが技能多様性です。また、トイレ清掃の仕事は1人で一から十までやることができ、自分の裁量で自由に仕事を構成できる。これがタスクの完結性です。社会的になくてはならない仕事ですからタスクの重要性もあります。
残る特性である「責任」と「成果の認知」も平山の仕事ぶりに表現されています。だからこそ、平山は仕事を自分のものとして、自分の手でよりよくすることができます。それによってもたらされるフロー状態(没頭し、集中力が高まっている状態)や達成感もまた、平山の幸福感を高めています。
このような平山の仕事・生活はウェルオーガナイズド(うまく整理・構成されている)という言葉で表現できるでしょう。まさしくそれが平山にとっての“パーフェクト・デイズ”なのです。
では、極端に無口で積極的に他人と交流しようとはしない平山にとって、孤独は生活の充足度を高めるための重要な条件なのでしょうか。映画ではささやかな他人との触れ合いも描かれます。そのとき平山のルーティンや心の平穏は若干乱されますが、その表情はどこか嬉しそうです。決してルーティン化できない人とのかかわり。これがパーフェクト・デイズの最後のピースなのでしょう。
Text=伊藤敬太郎 Photo=平山諭 Illustration=信濃八太郎
野田 稔
明治大学大学院グローバル・ビジネス研究科教授
Noda Minoru リクルートワークス研究所特任研究顧問。専門分野は組織論、経営戦略論、ミーティングマネジメント。
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