人事のジレンマ

積極的にデータを活用したい × 個人情報は保護すべきだ

2017年08月10日

人事におけるデータ活用が本格化し、これまで人の経験に頼ってきた人事業務が一変する可能性が広がってきた。ー方で、個人情報取得のハードルが高いなどの理由で、データ活用を躊躇する企業もある。従業員の活躍を推進するためのデータ活用が、従業員の不信感を煽ることにもなりかねない。このジレンマにどう向き合うべきか、日本アイ・ビー・エムで人材マネジメントツールの導入を担当する民岡良氏と、個人情報保護法に詳しい板倉陽一郎弁護士との対談から考える。

板倉:人事分野でのデータ活用が広がってきており、マネジメントツールもさまざま登場しています。現状どのようなデータをどのように活用されているのでしょうか。

民岡:たとえば当社で提供している「IBM Watson Career Coach」は、従業員がWatsonにキャリア相談できるツールです。今の自分のポジションには過去に同僚たちが平均して何年在籍していたか、次にどのようなポジションヘの異動の可能性があるか、スキルギャップを埋めるためにどのようなトレーニングを受けたらいいかなど、従業員の職歴情報をもとに、今後のキャリア形成に向けた助言をもらえるというものです。
前提として、自分の強みや専門分野をキーワードにして貼り付けることができるタグ付けのような作業を行ったり、ジョブやコンピテンシー体系を整備しておく必要があります。板倉:専用のツールを使わなくても、日常的なメールのやり取りやウェブサイトの閲覧履歴などをチェックしている企業もありますよね。

民岡:実際にどれだけの企業が行っているかはともかく、一般論として社内にサーバ一を持っている以上、技術的には可能です。当社のお客さまではありませんが、どういうファイルを送受信しているか、どんなウェブサイトを検索しているかをウォッチして、コンプライアンス違反や離職の兆候を検知しようとする企業や、勤怠データを見て、過重労働の兆候やメンタルヘルスのリスクをチェックしている企業もあるようです。

板倉:企業側のメリットはわかりますが、従業員側は同意しているのでしょうか。

民岡:個々の従業員に寄り添い、よりきめ細かいオーダーメイド人事を実現していくには、人間の経験や勘のみに頼った施策では限界がくるのは明らかです。従業員の工ンゲージメントを高めていこうと思えば、データ活用は今後ますます必須になってくるでしょう。
このような状況下で、従業員からの同意をどのように取っていくかは企業にとって非常に難しい課題になっています。厳密に同意を取ろうとして、従業員が過度に構えてしまうのは避けたいという思いもあるようです。

一人ひとりの同意を取り快く情報を提供してもらう

板倉:従業員の反発を気にして黙ってやるというのは適切ではなく、個人情報については、もっと丁寧に取り扱うべきです。個人情報保護法の観点からいうと、情報を取得する際にきちんと同意が取れていればいかなる取り扱いも可能です。何のデータを何の目的で使うのかを明らかにし、その範囲内であれば自由に使用できます。逆にいえば、その範囲を超えて使用してはならない。たとえば健康診断のデータを、安全衛生管理の目的を超えて人事評価に使うのは違法とされる可能性があります。

民岡:我々ベンダーからしても、まずは従業員の同意を得ることが第一だと考えています。システム導入を決めても、一部の同意しか得られなかったとなれば、その投資が無駄になりかねません。
何より、同意もなしに勝手に使えるような情報をいくら集めても、意味のある分析結果が得られるとは思えません。データ活用の目的が、オーダーメイド人事を実現して一人ひとりの幸せを高めることだとすれば、実は全従業員の同意を得ることが、いちばんの近道だと私は考えています。

板倉:「法律に違反しない」という以上に重要なのは、従業員に気持ちよくデータ活用に賛同し、協力してもらうこと。同意を得るのはいわば大前提であり、そのうえで従業員の気持ちに十分配慮することが求められます。
まずは、目的とプロセスヘの理解を深めること。労使関係の下では、同意を求められたとき、本意ではなくても承諾せざるを得ないという従業員もいるでしよう。立場上断れないが、内心では納得していないというケ一スもあるのです。法的には問題なかったとしても、従業員の不信感を払拭できなければ、あとあとの火種となりかねません。何度も説明会を開いて意図を説明し、しつかりと理解・納得してもらったうえで、運用を開始する。合意形成を丁寧に進めるなど、配慮が必要です。

民岡:その点ではユーザー企業に任せきりにしないで、ベンダー側も力を尽くすべきだと考えています。製品を納めればいいというものではなく、従業員に納得していただけるように責任を持って説明していく必要があるでしょう。

板倉:従業員がどんな点に不安を感じるか、実際に運用を開始したらどんな問題が起こり得るか、ベンダーが積み重ねてきた経験・知見が頼りになるでしょう。その支援によって、人事は従業員への理解浸透やアフターフォローまで、きめ細かく行うことが望ましいと思います。

人のことは人が決めるべき丁寧な説明も欠かせない

板倉:次に、責任の所在を明らかにする必要があります。データを活用したとしても、最終的に決定するのは「人」である必要があるということです。
アルバイトのシフト管理程度であれば、自動的に行ってもよいかもしれませんが、いくら人材マネジメントツールが賢くても、重要な人事判断まで全面的に委ねるわけにはいきません。従業員が処遇に不満を持った場合、異議申し立てを行う先はどこなのか。人事部長なのか、取締役なのかを明確にしておくべきでしょう。
異動にせよ、昇進にせよ、人事は、家族も含めたその人の生活にダイレクトに影響を及ぼすものですから、「機械がこう言っているから」では、従業員としても釈然としない。人の人生にかかわる決定を下す以上、最後は人が責任を持つということが、納得感を高めるためにも重要だと思います。

民岡:まして近年の人事評価は、従業員のランク付けをしない「ノーレーティング」の方向に向かいっつあります。従来のように、ランクごとにAが何割、Bが何割と相対評価で振り分けていくだけなら、むしろ機械に自動的に決めてもらってもよかったのかもしれません。しかし、上司と部下との1対1の対話を増やし、日常的なコーチングとフィードバックを通じて、個人の活躍と成長を促していくノーレーティングは、人間の存在を抜きに成り立ちません。
製造現場のように、ある工程を完全に自動化することは人事領域においては難しい。責任の所在を明確にする意味でも、納得感を高める意味でも、人事の世界では必ず人間が介在すべきと考えています。

板倉:加えるならば、責任者が徹底的に、何もかも包み隠さず説明するということ。従業員から異議申し立てがあったときに、「データ分析した結果だったから」と責任回避するのは最悪のパターンです。結果的にデータから導き出された結論と同じだったとしても、会社としてはなぜその決断をしたのか説明できなければなりません。
確かに、データに甚づく人事判断の背景には開示できない情報が含まれるかもしれない。どのようなアルゴリズムでデータを分析しているのか、専門家でなければよくわからない部分もあるでしょうが、言えないこと、わからないことも含めて、企業として意思を持ってやってきたことを徹頭徹尾、誠実に説明することが重要になります。

個人にとってのメリットも正しく伝えていこう

民岡:個人情報を提供することに不安はあるかもしれませんが、ー方で、データ活用のメリットも多々あります。従業員がきちんとメリットを享受できるようにしていくことも、重要でしょう。
これまでは、不本意な異動に異議を唱えても、明確な理由を示されず、形だけの話し合いで終わってしまう例もあったのではないでしょうか。ところがデータ活用を進めていけば、少なくとも根拠は見えてくる。となると、むしろ企業が大した根拠もなく安易に異動させることは難しくなります。

板倉:ワンマン社長に勝手に決められるより、ずっといいですよね。
また、自社内には異動先はないけれど、同じシステムを使っている他企業にポジションを求めるということもできるようになるかもしれません。そうなると、個人にとってのキャリアの選択肢が広がっていきますよね。共通のフォーマットでパフォーマンスが測れるのであれば、本人の同意を取って、投げかけることは可能です。

民岡:データ活用のオープン化ということですね。まだまだ現実的に解決すべき課題は多いですが、方向性としてはオープン化の流れは進んでいくと思います。
これまでは「キャリアパス」といっても、実質ははしごを上っていくしかない「キャリアラダー」でした。でも、これからは前後左右、斜めに行ったり、真横に移ってちよっと遠回りしてみたり、いろいろなキャリアパスがあり得る。実際、データ活用が進むことによって、今まで思いつかなかったような新鮮な組み合わせが見えてくるかもしれません。そうして個人のキャリアの可能性がさらに広がっていけば面白いですね。

Text=瀬戸友子Photo=刑部友康