人事のアカデミア

江戸の読書会

江戸時代の読書会は自由で平等な討論の空間だった

2022年06月10日

「日本人は討論が苦手だ」とよく言われる。そもそも「討論」という言葉自体、明治期に「ディベート」の訳語として作られたものだ。自由でオープンな環境で、多様な価値観をぶつけ合うことが重要だとわかってはいても、いまだ討論に苦手意識を持つ人も少なくないだろう。ところが、日本人にはなじみが薄いはずの自由で平等な討論が、江戸時代の読書会で盛んに行われていたという。日本思想史を研究する前田勉氏に、江戸の読書会について聞く。

素読、講釈、会読という段階を踏んで学んだ

梅崎:江戸時代に討論形式の読書会が行われていたという話は大変興味深いです。

前田:「会読(かいどく)」といって、藩校や私塾で盛んに行われました。江戸時代には儒学の経書を読むこと、つまり読書することが学問だったのです。

梅崎:学問の方法として大きく3つのスタイルがあり、それが「素読」「講釈」「会読」ですね。

前田:最初は、7、8歳くらいから素読を行います。『論語』などの本を頭から声に出して読み、丸暗記していくのです。江戸時代の勉強といわれて多くの人が思い浮かべるイメージに近いかもしれません。
ただ、暗記しただけで内容を理解できていないので、15歳くらいになると、講釈が始まります。基本的に一斉授業の形式で、それぞれどういう意味なのか、先生が解釈を講義してくれるのです。逸話を交えてわかりやすく話をしてくれる先生は評判を呼び、なかには講釈で生計を立てる学者もいました。
それを踏まえて、いよいよ会読に進みます。10人程度が集まり、自分たちで本を選び、皆で討論しながら読んでいくのです。必ず予習をして、自分なりの疑問や意見をこの場で出し合う形になります。いわば大学のゼミのようなものでしょうか。

梅崎:段階を踏んでいく必要があるのですね。

前田:そうです。会読まで進めるのはかなりの上級者で、皆が皆、できるわけではありません。試験のようなものもあり、それを通過して初めて討論に参加できるのです。

梅崎:もちろん講釈は必要ですが、それが聴衆を意識した人気講師によるエンタテインメントに陥ってしまうと、結果的に学ぶ人の能動性を奪ってしまう危険があります。そこから一歩進んで、会読という刺激的な学問の場が、この時代に既に生まれていたとは驚きです。

前田:ただし大前提として強調しておきたいのは、江戸時代は世襲身分社会で、国家が教育に関与していなかったということです。
江戸後期には全国に数万校もあったといわれる寺子屋は、農民や町人などの庶民が、主に読み書きを覚える場でした。一方、素読、講釈、会読が行われたのは藩校や私塾であり、3つの学習方法は、武士を中心とした基本的な教養を持つ人たちだけの上級の課程だったのです。
そしてこれらの学校は、ほとんどが自発的に作られました。近代的な国民教育の始まりは、明治5年の学制公布以降。江戸時代には私塾はもちろん、藩校でさえ最初は一部の物好きな大名が作ったもので、全国に広がったのは18世紀後半以後のことでした。権力の関わらないところで教育が生まれたことは、江戸時代の大きな特徴といえるでしょう。

梅崎:これは日本が科挙制度を導入しなかったことと関わります。

前田:原則として科挙は誰でも受けることができるので、当時の中国や朝鮮では、庶民でも国家試験に通れば立身出世の道が開かれました。ところが科挙のない日本では、武士と町人の間には明確な身分の違いがあり、ずっと変わることはありません。日本では国家が学問に関与せず、立身出世につながるような利益は得られなかったかわりに、ある意味では自由に学問に取り組むことができたのだと思います。

w172_acade_main.jpg出典:『江戸の読書会』より編集部作成

最高の討議空間だった「遊び」としての会読

梅崎:今では多くの企業がオープンイノベーションを掲げて、多様な人々との創造的な議論の場を模索しています。ただ、必ずしもうまくいっていません。

前田:江戸時代も、村の寄合などでは、議論などしていません。お互いの顔色を見ながらダラダラと話をして、最後には長老が出てきて「このあたりが落ち着きどころだろう」と話をまとめて終わるのが常でした。そもそも身分制社会ですから、多様な人と話をすること自体が非常に難しかった。時代劇で見るように、下級の武士が主君に直接話しかけたり、別の藩の人とごく自然に会話することはまずあり得ませんでした。自由に意見を言い合える会読は、江戸時代の社会のなかでも極めて特別な空間だったのです。

梅崎:特別な空間であった会読には、3つの原理があったと前田先生は指摘されています。相互コミュニケーション性、対等性、結社性の3つです。

前田:会読は、一方通行で先生の話を聞くだけの講釈とは違い、お互いに意見を言い合う相互コミュニケーション性がありました。討論を奨励しており、恥ずかしがったり、遠慮して話をしないことはむしろ戒められた。また、他人の意見を聞かないのは見苦しいこととされ、反対意見も積極的に容認したのです。
ここでは所属や肩書にかかわらず、議論が行われる対等性がありました。たとえば大隈重信や江藤新平などを輩出し、明治政府で存在感を発揮した佐賀藩では、藩校の優秀な若者が藩主と会読を行っていました。極めて異例のことですが、日常の縁を離れて活発な議論が行われたことが、藩を活性化したのです。

梅崎:忖度することのない、特別な空間だったわけですね。

前田:まさにそうです。こうして対等な交わりを持った人たちが、自分たちのグループを「社」として認識しました。3つめの結社性です。坂本龍馬の亀山社中が有名ですが、結社とは自発的に集まった同志集団のこと。「会社」という言葉もここに由来します。同じ目的の下に身分を超えて集まり、同じ規則を守るなかで仲間意識を高めていきました。

梅崎:なぜ身分社会の江戸で、このような会読が広まったか。前田先生は、人間の遊びを考察した歴史学者のヨハン・ホイジンガ、その研究を批判的に発展させたフランスの批評家ロジェ・カイヨワの理論を援用して、会読の本質が「遊び」であると
説明されています。

前田:カイヨワの分類でいえば、会読は、競争の遊びである「アゴーン」に相当します。ルールに則って誰が一番よく読めるかを競い合うのです。ただし単なる他者との競争にとどまらず、より競技性の強い「ルドゥス」でもあったと思います。子どものかけっこのように、勝ち負けを競い合って楽しむだけではなく、陸上競技のように、より高い目標を設定して乗り越えていく喜びをもたらすものだったのです。いずれにせよ、利害の絡まない遊びだから面白く、純粋に熱中できる。それこそが、会読が全国に広まった理由だと考えています。

梅崎:モチベーション理論でいえば、内発的動機付けに基づくものですね。相手が失敗すれば、自分が勝てるから得だということではなく、目標に向けて切磋琢磨し、お互いに高めあっていく。ある意味では、人格形成の場だったといえるかもしれません。まさにイノベーションの創出につながる最高の討議空間だと思います。

前田:その好例が、前野良沢、杉田玄白らによる『解体新書』の刊行でしょう。辞書もない時代、玄白にいたってはアルファベットも知らない状態から、同志でオランダ書に立ち向かいました。日本初の本格的な西洋医学書の翻訳という偉業は、会読を通じて果たされたのです。

w172_acade_03.jpg出典:編集部作成

会読の精神が新しい国家の形を作った

梅崎:やがて幕末になると、会読の場が、政治的な議論や行動を促す場に転換していきます。

前田:象徴的な例が、尊皇攘夷思想を打ち立てた後期水戸学です。水戸藩はもともと熱心に会読を行い、藩主自ら藩士と議論したり、優秀な若手を登用したりしていました。議論はしてもけんかはしないのが討論の基本ですが、政治学者のカール・シュミットが「政治は敵と友を区別する」と述べたように、政治が絡むと、基本的に争うことになってしまう。これが大変難しいところです。

梅崎:ドラマや映画を観ていると暴力的な印象を持たれがちですが、決してそうではなかった、と。結社のなかは自由で平等でも、結社と結社の間では対立が生まれてくる。微妙なバランスの上に成り立っているということですね。

前田:ですが、会読が明治維新のエネルギーになったことは確かです。政治思想家の藤田省三は、著書『維新の精神』で、一人ひとりが議論し、行動し、横につながったときに、維新が起こったのだと指摘しています。黒船が来航してから急に危機感が高まって連帯したわけではなく、既に江戸時代には、縁を離れて自由に討論する会読という場があり、そこから各藩のエリートたちが藩を超えた横断的ネットワークを築いていったことが、維新につながっていったと指摘しています。

梅崎:会読の場から広がった横断的ネットワークが、その後の明治維新、自由民権運動へとつながっていく一方、明治に入ると、会読は徐々に忘れ去られていきます。

前田:学制の公布により、日本でも国民教育が制度化されます。それまで学問は自主的に学ぶものでしたが、「education」の訳語にあてた「教育」という言葉が普及していきました。学校では西欧式の教授法が導入され、多くの生徒を効率的に教育できるように、一斉授業の形が主流になっていきます。社会的にも身分制が廃止され、誰もが教育を受けられるようになると、学問が立身出世の手段となっていくのです。

梅崎:会読の精神が生み出した新しい国家が、その精神の原理を奪っていく。まさに歴史の物語を読んでいるような感慨があります。しかし、会読という制度は失われても、読書会自体は我々にとって今も身近なもので、その精神は地下水脈のように続いている気がします。

前田:実際、明治以降も、旧制高校の寮でしばしば読書会が行われていたようです。社会の画一化が進む今だからこそ、近代以前の日本に、会読という自由な議論の空間があったこと、会読を通じて、自分とは異なる意見を受け入れ、寛容の精神を身につけてきた人たちがいたことを、ぜひ知ってもらいたいですね。

梅崎:おっしゃる通りです。いわば会読とは、異質な他者との出会いである読書を、異質な他者である仲間とともに体験する場。異質な他者とのつきあい方を学ぶのに、格好の訓練の場ではないかと思います。

Text=瀬戸友子 
Photo = 刑部友康(梅崎氏写真)、アトリエあふろ・古川公元(前田氏写真)

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前田 勉氏
愛知教育大学名誉教授

Maeda Tsutomu 1988年東北大学卒業、東北大学大学院博士後期課程単位取得退学。専攻は日本思想史。東北大学文学部助手、愛知教育大学助教授、教授を経て現職。
◆人事にすすめたい本
『江戸の読書会』(前田勉/平凡社) 近世、全国の私塾、藩校で広がった読書会=会読。その対等で自由なディベートの経験と精神が、明治維新を準備した。会読の思想史を紡ぐ。

梅崎修氏

法政大学キャリアデザイン学部教授

Umezaki Osamu 大阪大学大学院博士後期課程修了(経済学博士)。専門は労働経済学、人的資源管理論、労働史。これまで人材マネジメントや職業キャリア形成に関する数々の調査・研究を行う。

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