人事のアカデミア

仏である自分を最大限に肯定しつつ常に自分自身を見直し続ける

2024年10月17日

禅問答を題材にしたとんち話や落語は、昔から庶民に親しまれ、禅宗の祖とされる達磨大師に由来するだるまは、縁起物としておなじみだ。
マインドフルネスは世界的に注目を集め、著名な経営者も禅の教えを実践している。
禅の思想は日本の文化や生活のなかに浸透しているが、普段はあまり意識することがない。
改めて禅とはどういうものか、仏教学者で曹洞宗の僧侶でもある石井清純氏に聞く。

仏になるのではなく私たちは既に仏である

梅崎:禅といえば坐禅や厳しい修行のイメージが浮かびますが、宗教としての禅については、よくわからない人が多いと思います。

石井:禅とは何かを説明するのは、結構難しいんです。まず「禅といえば坐禅」の発想は日本的なもので、坐禅という修行方法は、宗派を問わず行われており、仏教以前からあります。

梅崎:禅宗は、広く衆生を救済しようとする大乗仏教の一宗派です。仏教史に登場するのは、かなり後のほうですね。

石井:仏教史では、お釈迦さまの死後、解釈の違いから根本分裂が起こり、大衆部と上座部という2グループに分かれました。いろいろ説はありますが、大衆部のなかから大乗仏教が出てきたとされています。大乗仏教はインドからシルクロードを通って東に伝わり、中国で老荘思想や儒教思想などと融合していきます。そのうちの1つとして、「私たちは既に仏としてある」という流れが出てきました。

梅崎:それが禅宗の思想的基盤になった。

石井:そうです。中国の禅は、基本的にエリートのものでした。宋代に入り11世紀になると科挙を受験する人が増えましたが、試験に落ちた人たちが心の拠りどころとして禅に惹かれていきました。要するに、禅は「知識や資格に関係なくみんな仏だよ」と言ってくれるわけです。やがて受かった人たちも含めて、知識階級を中心に広まりました。

梅崎:そこからさらに日本に伝わっていく。

石井:鎌倉時代に中国から伝えられましたが、実は日本にはそれ以前から民間布教を担う「禅師」と呼ばれる僧侶たちがいました。少し怪しげなところもありますが、全国各地を遊行して病気を治したり、寄付を募って社会事業をしたりしていました。そうした禅師の活動と、中国から伝わった禅とが融合した。これが日本の禅の大きな特色だと思います。

梅崎:禅師の全国的なネットワークと結びついたから、日本では禅が庶民化したわけですね。

石井:大乗仏教の歴史は、成仏できる人の範囲をどんどん広げていく流れです。「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」といって「草も木もみな成仏できる」から、「私たちは既に仏としてある」へと展開していく。禅の根底にあるのは、ありのままの自分を受け入れようという徹底した現実肯定、自己肯定の姿勢です。

梅崎:「草も木も仏である」というのは、日本人の自然観からして感覚的にわかる気がします。とてもアニミズム的というか。

石井:すべてのものに聖霊を見ていくのがアニミズムですが、確かに日本人の根底にはこうした精神性があると思います。

梅崎:禅の変遷に伴い、修行の仕方もかなり変わっていきました。

石井:禅の最大のイノベーションは生産活動を修行としたことだと思います。もともと上座部仏教の戒律では、生産活動は禁止されていました。その根本を変え、日常生活すべてが修行だとしたのは、禅の大きな特徴になっています。
禅宗のお寺では、お坊さんがとんと地面を突いたら泉が湧いたという伝承がたくさん残されています。おそらく井戸を掘ったのでしょう。あらゆる手段で、生きていくことの問題を解決していく。それが禅だと思います。

石井清純氏(左)と梅崎修氏(右)の写真

仏であり続けるために修行が欠かせない

梅崎:「既に仏である」といっても、だから何もしなくていいわけではありませんよね。

石井:はい。宋代の中国では「私たちはもともと輝く玉であるから、何もしないのがいちばんよい」という考え方も出てきました。これに対して、やはり何もしないと光らないから、修行を大切にしようというのが、日本の禅です。
悟りとは、部屋の灯りをつけるようなものです。必要な家具はすべてそろっているが、真っ暗では暮らせない。灯りのスイッチを入れることで、部屋が部屋として完成する。灯りをつけることによって自分の仏性に気づくのです。

梅崎:修行を積み重ねて徐々に変わっていくわけではなく、仏である自分の本質にはっと気づく。悟りとは瞬間的なものなんですね。

石井:それを「頓悟」といいます。ただし、あっという間に悟れるけれども持続はしません。いわば、その灯りは自転車のダイナモライトのようなもの。常にダイナモを回し続けないと、光を放ち続けることはできません。

梅崎:そのために修行が必要だ、と。

石井:仏であり続けるために、大きく2つの道があります。1つは生活すべてが修行であるというもの、もう1つは坐禅に立ち返ろうというもの。この2つの流れが、禅のなかにずっと存在しています。互いを意識しながらも相手を否定せず、混ざり合うこともあるが、やはりずっとそれぞれの道としてある。それだけ禅は許容範囲が広いのですが、だからわかりにくいのかもしれません。

梅崎:2つの道は、曹洞宗と臨済宗の修行観に表れています。

石井:曹洞宗は、坐禅を中心に置きます。道元のいう「只管打坐(しかんたざ)」。純粋に坐ることによって、完成された自己を見つめます。鏡を見て自分の顔がわかるのと同じように、五感すべてで自分を取り巻く世界を感じ取り、周辺から学んでいくのが坐禅です。
心身を安定させることが大切なので、坐禅中は無念無想になるわけではありません。頭に思い浮かんだことも、無理に逃がそうとしたり、追いかけたりしないで、そのままにしておく。つまり最も自然な脳波の流れになります。実際に脳波を測ると、アルファ波が出ているそうです。最近では、シータ波というまどろみの脳波が出ることもわかってきました。
臨済宗は、日々禅問答を繰り返すことで悟りを目指します。師から与えられる「公案」という課題に取り組み、考えて考えて考え抜いていくと、思索を超えてあっと悟る瞬間がある。その体験を何度も何度も繰り返していきます。

梅崎:ただ、臨済宗でも坐禅を行うし、曹洞宗でも禅問答を行います。

石井:はい、少し位置づけは違いますが。いわば曹洞宗は下りのエスカレーターを常に上り続け、臨済宗は一つひとつ踊り場のある階段を上っていくイメージでしょうか。しかし、どちらも仏である自分の本質をどう確認するかであり、そのために上り続けていくことは同じです。

梅崎:修行のなかでも、禅問答は特にわかりにくいです。

石井:坐禅はほかの宗派にもありますが、禅問答はないので、これこそ禅の特色だという研究者もいます。禅は特定の経典を持ちません。文字は直接真理を伝えるものではないので、文字に頼らず、師と弟子の心から心へ伝承するものだという考え方が根底にあるのです。

梅崎:だから師と弟子の対話が重視される。ところが、我々が考える対話とまったく違って、禅問答では教えたり議論したりしません。

石井:現代のプレゼンテーションがいかにわからせるかだとすると、禅問答はいかに考えさせるか。パワーポイントでプレゼンされると、わかった気になりますが、あまり頭のなかに残らない。それを避けるための禅問答です。とらわれから自由になって、自分で咀嚼しながら考えていくことが大事なのです。

梅崎:そもそも言葉は概念を規定するものですから、言葉自体が固定観念であり、とらわれであるともいえます。あえて逆説的なことを言ったり、沈黙したり、不親切であることが逆に考えさせることにつながっている。

石井:面白いことに、私たちが昔の公案を見てさっぱりわからなくても、実は当人たちには通じていることもあったらしいのです。たとえば「暑くありませんか?」と言われて、「冷房をつけましょうか?」と答える。質問に質問を重ねているだけですが、シチュエーションがわかれば対話として成り立ちます。自分の考えを直接言わず、相手の思考を引き出す。こちらが何を言いたいのかを相手に考えさせる。それを常日ごろからやっていくと、ちょっとした気づきみたいなものが出てくるわけです。

梅崎:いわばフリージャズのセッションのようなものかもしれませんね。

代表的な禅問答

出典:『禅ってなんだろう?』をもとに一部編集部改変

禅の心は時代を超えて世界に広がっている

梅崎:一方、坐禅は禅宗特有のものではないとのことでした。たとえばヨーガやマインドフルネスとの違いは何でしょうか。

石井:ヨーガは宗教の1つですが、いろいろなポーズをとるのは、心と体を制御するため。心と体のさまたげをなくして、自分自身のなかにある一切変化しない「我(アートマン)」という本質を出現させるのが最終目的です。最後までいきつくと、心と体がなくなってしまいます。
一方、禅の修行の最終目的は悟ること。自分を変えるのではなく、自分に気づくことです。そのために心身を調えていくという方法論は同じですが、最終目的がヨーガとは異なります。

梅崎:マインドフルネスという瞑想法も世界的に広がっています。

石井:マインドフルネスは、禅をベースに心身を調えるメソッドを取り出したものです。瞑想(メディテーション)といわれると、一点集中のイメージが強すぎて、我々からすると違和感を覚えるのですが、確かにマインドフルネスをきっかけに禅に興味を持つ人は増えています。

梅崎:スティーブ・ジョブズも禅に傾倒していました。

石井:彼は純粋に参禅を好んでいましたが、GAFAMなどのグローバル企業でもマインドフルネスが取り入れられています。いつ自分の席がなくなるかわからない恐怖感にさいなまれている人が多いので、ありのままの自分で大丈夫だと言ってもらえることが救いになるのでしょう。
アメリカでは仏教はマイノリティです。一神教的価値観のなかで自分の生き方に不安や不満を感じ、新しい価値観を切実に求めてやってくる人は少なくありません。もちろん、宗教としてではなく、東洋の文化を楽しむ感覚で気楽に体験してみようという人もたくさんいます。

梅崎:日本とは受容のされ方が違いますか。

石井:日本でも、ストレス解消やダイエット目的で坐禅会に参加する人は多いですよ。本来、坐禅は具体的な目的を持って行うものではないのですが、まずは坐ってみましょうと指導しています。形式は決まっていますが、心のなかまでは縛らないので自由に坐ってもらえばいい。やっていくうちに感じ取ることもあるでしょうし、やはり自分には合わないと思えば、それはそれでいい。それも禅だと思っています。

梅崎:特別な修行を重ねて神秘体験を得るのとは対極にあって、禅はもっと身近なもの。毎朝丁寧に掃除を続けていたら、ある日ふと雨の音が美しく聞こえるみたいな感じでしょうか。

石井:禅は歴史的に日本人の感覚にとても近く、生活のあちこちに禅的な要素が浸透している。誰もが日々の生活のなかで、実践していけるのではないかと思います。

Text=瀬戸友子 Photo=刑部友康

石井清純氏

石井清純氏
Ishii Kiyozumi
駒澤大学仏教学部教授

駒澤大学仏教学部卒業、同大学院博士後期課程満期退学。2009〜2013年に駒澤大学学長、2000年にスタンフォード大学客員研究員を務める。専門は禅思想研究。著書に『禅問答入門』(角川選書)、『構築された仏教思想 道元』(佼成出版社)など。

禅ってなんだろう? 表紙人事にすすめたい本

『禅ってなんだろう?』
(石井清純/平凡社)
世界に広がる「禅」のそもそもから歴史、基本の教え、現代での活用法などをやさしく伝授、学校や社会生活で生かせる禅の智慧を学ぶ。

梅崎修氏

法政大学キャリアデザイン学部教授

Umezaki Osamu 大阪大学大学院博士後期課程修了(経済学博士)。専門は労働経済学、人的資源管理論、労働史。これまで人材マネジメントや職業キャリア形成に関する数々の調査・研究を行う。

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