人事のアカデミア
ことばとキャラ
「キャラ」を学んで豊かなコミュニケーションを実現する
「キャラ」は、私たちの生活にすっかり浸透している。アニメやゲームの世界だけでなく、職場や家庭や学校にも「毒舌キャラ」や「癒やしキャラ」がひしめきあい、気付けば、自分自身も何らかのキャラを担っていたりする。キャラがあることで、集団のなかでのふるまいが楽になる半面、窮屈な思いをすることもあるだろう。コミュニケーションにおけるキャラとは何なのか、どうつきあっていけばいいのか、言語学者の定延利之氏に聞く。
挨拶の目的とは何か伝統的な人間観への疑問
梅崎:「キャラ」という言葉は、今やコミュニケーションツールとして一般的に広く使われている印象があります。
定延:もともとは英語の“character”、「登場人物」という意味の「キャラクタ」の略語ですが、現在の日本ではそれとは異なる独自の意味合いで使われています。20世紀末くらいから、特に若い人たちのあいだで使われ始めたようです。
梅崎:「キャラが変わった」「キャラがかぶっている」のような使い方ですね。定延先生は、キャラを切り口にして、人間のコミュニケーションのあり方を論じられています。
定延:これまで言語学では、コミュニケーションには何かしら目的があり、言葉はその目的を達成するための道具として使われる、という考え方が採用されてきました。主に言葉の問題にばかり焦点があてられ、人間やコミュニケーションのあり方については、ほとんど目を向けてこなかったのが実情です。すべての前提とされてきたのは、「伝統的な人間観」です。
梅崎:伝統的な人間観とは、「静的」で、「意図を前提とする」人間観のことですね。
定延:そうです。人格の分裂など病理的な事情でもない限り、人間は安定していて変わらないし、そのふるまいはすべて意図的なものだとする考え方です。ところが現実には、コミュニケーションの状況に応じて、人間が変化することはいくらでもあります。ネット上でのつぶやきを見ても、自分のキャラが変わってしまうことに真剣に悩んでいる人は非常に多いと感じます。
梅崎:定延先生の著書にもたくさん実例が紹介されています。「学校とバイト先でキャラが違う」とか、「年下ばかりの集団にいると、いつの間にか姉御キャラになってしまう」とか、似たような経験を持つ人は多いのではないでしょうか。
定延:本人は意図的にそうふるまっているわけではなく、相手ごとにキャラが変わってしまう自分は病気ではないかと悩み、「治したい」という声もありました。伝統的な人間観は、実態とそぐわないのです。
たとえば意図を前提とすれば、挨拶は「円滑な人間関係を構築し、保持するために行う」ものという説明になります。でも、多くの人は日常生活のなかで何気なくやっているだけだと思います。「ぜひあなたとお近づきになりたい」という明確な意図を持って挨拶しているのは、キャッチセールスくらいでしょう。
梅崎:そんな見え見えな挨拶をされたら、逆に相手は警戒しますよね。
定延:人間は、意図の露出にものすごく敏感です。谷崎潤一郎の『細雪』のなかに、主人公の1人である幸子が、大家の御曹司である奥畑という人物を不愉快に感じる描写が出てきます。幸子には、奥畑が坊ちゃん然とした余裕を演出しようとして、わざとゆっくりしゃべっているように映ったからです。
また、大水害の際、真っ先に見舞いに駆けつけてくれた庄吉という人物が涙声で話しかけてくるのを見て、幸子は心のなかで「芝居好きが自己陶酔している」と冷たく切り捨てます。せっかくよいことをしても、そこに意図が見えてしまうと、まったく報われない。実際のコミュニケーションのなかでは、自分の人物評を意図的にコントロールするのは完全にご法度なのです。
自然発生的に生まれてきた「キャラ」という概念
梅崎:実感として、よくわかります。にもかかわらず、伝統的な人間観は、私たちの意識に深く浸透しています。なぜかといえば、そのほうが社会を運営しやすいからでしょう。たとえば犯罪を立証するにも、人格には統一性があり、人間は意図を持って行動していることを前提にしなければ説明ができません。
定延:まったくその通りだと思います。伝統的な人間観を前提に置かないと、責任を取らせることができない。あなたの行動は、何らかの意図に基づいて自主的に選び取ったもので、あなたの行動に問題があれば、それはあなたの責任ですという形に持っていけません。伝統的な人間観は、よき市民社会の「お約束」として必要なのです。
梅崎:実際には人は状況に応じて変わり得るものですが、それは社会ではタブーとされている。そのせめぎあいのなかで、キャラが生まれてきたということですね。
定延:伝統的な人間観に基づく考え方では、キャラなど存在しません。一般の人たちのあいだで、自然発生的に「キャラ」という言葉が使われ始めたのは、既存の枠組みではやっていけないということでしょう。
梅崎:この新しく生まれてきたキャラについて、もう少し詳しく教えてください。
定延:近年いろいろな分野で研究が進み、キャラ論が展開されていますが、私が考えるキャラとは、自分の意図にかかわらず、状況によって変わってしまう人間の姿のことです。厳密に定義すると、「本当は変えられるが、変わらない、変えられないことになっているもの。それが変わっていることが露見すると、見られたほうだけでなく見たほうも、それが何事であるかわかるものの、気まずいもの」となります。
梅崎:定延先生は、キャラを、人格とスタイルに挟まれた人間の調節器の1つと説明されています。
定延:仮にある人が、上司に対しては「よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げ、部下に対しては「よろしく頼むよ」と気安く声をかけたとしても、特におかしいとは思いません。態度が違っても、その人の人格が分裂しているわけではなく、ただ目的を達成するために、状況に応じてスタイルを使い分けているだけです。つまり、人格は変わらないものですが、スタイルは公然と切り替えて差し障りがないものです。これは意図を前提とする既存の枠組みで説明できます。
しかし、「年下ばかりの集団にいると、いつの間にか姉御キャラになってしまう」といった場合、意図してスタイルを切り替えているわけでも、別の人格になってしまったわけでもありません。基本的に変わらない人格、めまぐるしく変わるスタイルの中間に、状況に対応するもう1つの調節器としてキャラが使われるようになったということです。腕の動きを調節する関節にたとえれば、スタイル、キャラ、人格は、手首、ひじ、肩のようなものでしょう。
スタイル偏重の西洋社会とキャラ化が進む日本社会
梅崎:興味深いのは、状況に対応する調節器の使い方は、社会ごとに違いがあるということです。
定延:西洋社会はどちらかというと手首(スタイル)の可動域が大きい社会といえます。米国にもキャラはありますが、スタイルを使い分けて対応することが多い。精神科医の斎藤環氏は、人格の分裂は1970年代以降の米国に多く、社会病ではないかと指摘しています。これは、ひじ(キャラ)の関節をあまり使わないので、手首(スタイル)だけで対応しきれなくなると、その分、肩(人格)に負担がかかり、人格が脱臼してしまうからではないかと考えられます。
梅崎:意図を前提とするよき市民社会の「お約束」は、西洋社会の規範でもあるので、スタイル偏重になるのも理解できます。
定延:これに対して、日本はキャラを多用する社会です。ひじ(キャラ)で圧を逃がしてうまくやっているので、米国ほど肩(人格)に負担がかかりません。ただし、手首(スタイル)の振り幅は小さい。
たとえば日本のキャビンアテンダントは、いつも笑顔を絶やさず、優しく丁寧に人と接するキャラとして知られているので、モンスター客と対するときも基本的に丁寧さを崩すことはないでしょう。ところが海外では、普段は穏やかにお客さまと接しているキャビンアテンダントが、問題のある人に対しては、スタイルを変え、断固として厳しい態度で接するのを見かけます。
日本ではキャラが発達しているので、「いい人キャラ」は厳しいことが言いにくいなど、キャラに合わないふるまいがしにくいのです。
梅崎:キャラという概念を通すと、日本人のコミュニケーションがうまく説明できる気がします。西洋社会では、議論の場でどんな意見を言っても、人格とは切り離したスタイルとして受容されます。キャラの拘束度の強い日本では、パブリックな場ではっきりと自分の意見を述べ、自由に議論するのは、なかなかハードルが高いですよね。
定延:それを何とか乗り越えたいものです。教室で学生が発言するときも、最後は「〜と思いますけど」とトーンダウンしてしまい、なかなか自分の意見を言い切ることができない姿をよく見かけます。日常生活はともかく、国際会議など公的な場では、日本人が下手な英語でも臆せず、堂々と自分の意見を言えるようになればと思います。社会全体を変える必要はありませんが、しかるべき場に出るときは一瞬で切り替えができるような仕掛けが何かできないかと考えています。
梅崎:そのために、西洋社会のようにスタイルを強めていく方法もありますが、キャラ社会は維持したまま、キャラの拘束力を緩めるような場をうまく作っていくのもありだと思います。思考実験ですが、クリエイティブなアイデアを引き出したい会議では、参加者がそれぞれ「平安貴族キャラ」や「イヌキャラ」になりきって、すべての発言の語尾に「〜でおじゃる」とか「〜だワン!」をつけるなどすると、普段とは違う奇抜な発想が出てくるかもしれません。
定延:いわばキャラを『機動戦士ガンダム』のモビルスーツのように使うわけですね。これは十分、検討する価値があると思います。
梅崎:キャラを否定するのではなく、うまくキャラをコントロールしながら自由に意見を言いやすい場を作っていくと、よりよい社会になるような気がします。
定延:人間は常に変わらないものではないし、いつも意図通りに動いているわけではない。キャラが変わるのを普通のこととして、もっと広く受け入れられるようになればよいと思いますね。
Text=瀬戸友子 Photo = 刑部友康(梅崎氏写真)、本人提供(定延氏写真)
定延利之氏
Sadanobu Toshiyuki
京都大学法学部・文学部言語学科卒、同大学院文学研究科博士後期課程修了。専攻は言語学・コミュニケーション論。軽視・無視されがちな「周辺的」な現象の考察を通じて言語研究・コミュニケーション研究の前提に再検討を加えている。
◆人事にすすめたい本
『コミュニケーションと言語におけるキャラ』(定延利之/三省堂)
コミュニケーションにおける人間の姿を、「キャラ」を切り口に広く深く明確に論じる。
梅崎修氏
法政大学キャリアデザイン学部教授
Umezaki Osamu 大阪大学大学院博士後期課程修了(経済学博士)。専門は労働経済学、人的資源管理論、労働史。これまで人材マネジメントや職業キャリア形成に関する数々の調査・研究を行う。
Navigator