キャリアを通じた幸福追求は、憲法に基づく働き手の権利 今なぜ「キャリア権」が注目されるのか
ジョブポスティングなど個人選択型の異動の立脚点として、キャリアを通じた幸福の追求は、憲法で保証された働き手の権利だという「キャリア権」の考え方が注目を集めている。1996年にこの概念を提唱した、法政大学名誉教授の諏訪康雄氏(認定NPO法人キャリア権推進ネットワーク理事長)に、キャリア権が今この時、脚光を浴びるようになった理由や時代背景について聞いた。
右:法政大学名誉教授(認定NPO法人キャリア権推進ネットワーク理事長)諏訪康雄氏
――最初に「キャリア権」を世に問うたきっかけは、何だったのでしょうか。
1980年代にパートタイム関連の政策立案に関わる中で、働き手のキャリア形成に着目するようになりました。当時、調べてみて驚いたのが、フルタイムよりもパートタイムのほうが、仕事に対する満足感が高かったことです。最大の要因は、働き手が個別の事情に合わせて、仕事先などを主体的に選ぶ余地のあることでした。パートなら、時給や雰囲気が良い職場、希望する仕事などを求めて、自分の判断で職場を移ることが比較的簡単にできます。しかし正社員の場合、当時は雇用の流動性も今より低かったため、新卒でミスマッチを起こしても転職は容易ではなく、職場の配属ももちろん、企業主導で行われていました。つまり他者主導で選択の余地が少なくて負担感の重いキャリアが、正社員の満足感を低下させていたのです。この構図は今も、あまり大きくは変わっていないでしょう。
こうした中で、働き手がキャリアのオーナーシップを握れるかどうかが、満足度やウェルビーイングを高めるカギになると考えるようになり、能力形成をはじめとしたキャリア展開の法的基盤であるキャリア権に行きつきました。
――「キャリア権」とは、どのような権利なのでしょうか。
働き手が自らキャリアを選択し、仕事を通じて幸福になる権利です。憲法には、個人としての尊重と幸福追求の権利や教育と学習の権利、職業選択の自由、労働の権利と義務などが、基本的人権として規定されています。これらの権利を労働者の視点から整理し、働き手が自律的にキャリアを築けるような労働政策を立案する際の、法的な根拠を構築しようとしたのです。
キャリア権は「外部労働市場が未発達で労働移動がしづらい日本では、法的な意味を持たない」と批判されることもありました。しかし、たとえ企業が契約上の指揮命令権や人事権を持っていても、それはあくまで業務に関する権利であり、社員のキャリアまで決定づける権利ではないはずです。キャリア権は労働市場の形にかかわらず、憲法に保証された基本的人権の延長線上にあるのです。
――近年は社会全体が、個人のキャリアを尊重する方向へと舵を切り始めているように感じます。諏訪先生は社会の変化をどのように捉えていますか。
2000年代に入って少しずつ、組織の組織による組織のための人事という従来の考え方から、個人による個人のためのキャリア決定の尊重へと、パラダイムの転換が始まりました。キャリア権は今のところ理念の域を大きく出ませんが、キャリアは「職業生活」という法令用語に言い換えられ、2001年に改正された雇用対策法(後の労働施策総合推進法)や、2015年に成立した女性活躍推進法などの法律にも、考え方が取り入れられてきました。また2020年代に入ると、労働者のキャリア形成を重視する高裁判決が出されるなど、司法の世界にも「労働者のキャリア」という概念が入り始めました。岸田政権も「新しい資本主義」の中で、リスキリングなどを通じた個人のキャリア形成支援を打ち出しています。こうした社会的な流れの中で、企業の側でも個人が組織に対して発言し行動する法的根拠として「キャリア権」が意識されるようになり、ジョブポスティングのような個人選択型の異動が広がり始めたと考えられます。
――企業が社員のキャリア形成支援を重視するようになった背景には、何があるとお考えですか。
日本の大企業は従来、辞令1枚で社員を都合よく動かせるような、強い人事権を行使する一方、代償として長期雇用や年功反映型処遇を保障してきました。しかし今は大企業も、生き残るためリストラやM&Aを繰り返すようになっています。雇用保障が弱まったり変容したりする中で、異動に対する考え方も、変化を迫られるようになりました。
また個人の意向を尊重することで組織が多様になり、社員同士の化学変化によって新しいアイデアや方向性が生み出されるのではないかという、前向きな期待感もあるでしょう。
働き手側も、一つの職場でしか通用しない「出世コース」に乗るより、企業横断的なスキルを身につけたいと考える人が増えています。Z世代を中心に、夫婦ともにフルタイムで働き続ける家庭が増え、会社主導の異動は新しい家族の形にも合わなくなっています。企業と社員、双方が変化する中で、人事には優秀な人材を確保して組織に貢献してもらうことと、個人のキャリア権を尊重することとの調整が求められるようになったのです。
――社員主導のキャリア形成に関する企業の取り組みは、どの程度進んだと考えられますか。
まだ大半の企業が、本音では正面切ったキャリア権の尊重に及び腰だと感じます。ジョブ型の人事制度を導入していても、労働契約は従来のメンバーシップ型と変わらない企業が多いですし、公募を実施する傍ら、企業主導の異動を残すハイブリッドなケースも多々あります。
会社主導の人事に従うことは、就業規則という形で労働契約の中に取り込まれ、事実上法的次元に入り込んでいます。その就業規則の内容も、社会通念上相当であると認められてきたからこそ、労働契約に盛り込まれてきたのです。
終身雇用の時代から、就業規則を後ろ盾として培われてきた人事権の強さは、組織内のパワーバランスにも反映されています。ひと昔前には企業のトップの多くが、人事部出身者だった時代もありました。今は往時のような強さは失われつつありますが、企業が人事権と、それをバックアップする就業規則の法理論を手放すには至っていないと考えられます。
――ジョブポスティング制度が組織で有効に機能するためには、何が必要でしょうか。
組織に活発な議論があり、上司にモノを言いやすく、意見表明もしやすい、といった「心理的安全性」を併せて確保することが非常に重要です。心理的安全性の高い職場に、公募というキャリア形成の仕組みが併存すると、社員の学ぶ意欲が高まり、その職場で働き続けたいと望む人も増える、という調査結果が出ています。公募に手挙げした人が、職場で「裏切り者だ」などと非難されず、不合格になっても後ろ指を指されない環境があってこそ、社員は堂々と学び、目指すキャリアに挑戦することができるのです。
逆に、社員が仕事でミスをした時「社会人大学院なんかに行って、目の前の仕事に集中していないからだ」などと責める雰囲気があると、学びへの意識は高まりません。「目の前の仕事」という近視眼的な考え方ばかりでは、ウェルビーイングは実現できないことを肝に銘じ、長期的な視点を取り入れ、時間をかけて組織風土をつくらなければいけません。
――日本のジョブポスティング制度について、今後取り組むべき課題はありますか。
欧米企業では公募の際、社内だけでなくしばしば社外にも同じ求人が出されます。また専門領域を前提にした採用なので、職種に必要なスキルや人材要件が明確化されており、それに基づいた賃金相場も形成されています。
日本の場合、専門性を軸とした労働移動が活発になるには時間がかかるでしょう。しかし公募を社内外に出すことで社員が刺激を受け、現状に安住せずスキルアップに努めるようになるでしょうし、そうなれば結果として、企業の生産性も高まることが期待できます。
また社員の学びとキャリア形成に対する意識を高めれば、同時に社外へ活躍の場を求めようとする遠心力も働くことは避けられません。組織への求心力と学ぶ意識との、バランスが取れる方策を工夫する必要もあります。
付け加えて言えば、学びに熱心な職場よりあまり熱心でない職場のほうが幸福度は高い、という皮肉な調査結果も得られています。社員が日常業務をこなしながら学び続けるのは、やはり大変なことです。企業として、社員の負担感にどう対応し、学びの努力に報いるかも課題になってくると思われます。
TEXT=有馬知子 PHOTO=刑部友康
千野 翔平
大手情報通信会社を経て、2012年4月株式会社リクルートエージェント(現 株式会社リクルート)入社。中途斡旋事業のキャリアアドバイザー、アセスメント事業の開発・研究に従事。その後、株式会社リクルートマネジメントソリューションズに出向し、人事領域のコンサルタントを経て、2019年4月より現職。
2018年3月中央大学大学院 戦略経営研究科戦略経営専攻(経営修士)修了。