「子どもの発達・教育の視界から」 白梅学園大学 無藤隆氏

2018年03月29日

~子どもの発達・教育の視界から~
白梅学園大学大学院 特任教授
白梅学園大学 名誉教授
無藤隆氏

「いつでもどこでも、アラカルト方式で自分の学びを設計する時代になる」。そう語るのは、教育者であり、ことに保育・幼児教育の分野で名高い無藤隆氏だ。人生100年時代においては、就業も80歳まで継続できる環境が現実のものとなり、人々が学ぶべき対象も学びのスタイルも大きく変化する。長い人生としっかり向き合い、新たな活動の場を自ら創出するには「学び続けることが大事」。伴って、これから成長する子どもたちの学びはどう変わっていくのか――「内閣府子ども・子育て会議」「文部科学省中央教育審議会」などで委員も務める無藤氏の見解は示唆に富んでいる。

ジャンルや順序にとらわれず、
自分仕様の学習を組み立てる時代に

――教育現場からご覧になって、「学びのかたち」に変化や進化は起きていますか?

私がかかわっている保育業界でいえば、懸念されている人材の不足や育成課題を受けて、映像教材を活用した学習が進んでいたり、厚生労働省が保育士のキャリアアップ研修を創設したりと、新しい学びの場が出てきています。うまくシステム化し、機能させるには未だ課題はありますが、研修についていえば、従来15コマで1セットだった授業が、将来的には分野や順序にとらわれずに必要な授業を選べる、つまり自分仕様の学習の組み立てができるようになっていくのではないでしょうか。今は「15コマ用意するから1番から受けなさい」という話になっていますが、それはいかにも学校的発想。学校のように強制された空間に存在するカリキュラムと、社会人が学ぶ自由な空間にあるそれとは当然違うべきで、遠からずそういう流れが明確になってくるでしょう。

――これからは、個人が学び方を選ぶ時代になるということですね。

たとえば大学の単位にしても、学部のカリキュラムは15と決まっていて、大学はそのすべてを賄っています。でも本当は、その一部に著名な先生の講義をもってきてもいいし、あるいは別の大学で取得した単位をもってきてもいい。そうすれば、学習者はいろいろなところの学びを集めた、いわば"自分学部"をつくれるというわけです。

社会人になってからの学びは、その必要性がもっと高くなります。社会人ともなると、身につけた知識や経験が多くなるから、仮に大学や大学院で学び直そうと思っても、カリキュラムのなかには不必要なものがけっこうあるんですよ。勢い、「専門分野だけ学びたい」という人は専門学校に行くわけで、それが現在、生徒として社会人が増えている所以です。学びたいことに行き着く前に「まずAから、次はBを」というのも順当ではあるけれど、今般は多岐にわたるデバイスやツールを使って予備的な勉強ができるから、効率化は十分可能なのです。セットされた学びを「定食」や「コース」とするなら、これからは自分なりに学習を組み合わせる「アラカルト」化が進んでいくと思いますね。

広がり、多様になった正規学習以外の場。
肝要なのは、うまく組み合わせること

――学びの場やツールが多様化してきたなか、その選択において重要になる点は?

テクノロジーの進化は学習機会の拡大に大きく寄与し、いわゆる「教室で座って」という正規学習以外の学びの機会がものすごく増えましたよね。それらから学んだこと、得た知識が身について拡張されると、「体と道具」の関係になっていくと思うんですけど、一方で、対人でのやり取りから生まれる"共同知"みたいなものがあります。face-to-faceでやり取りをしていると、それぞれ別の考えでありながら、一緒に考えることで新しい展開をみたり、面白くなったりするでしょう? 昨今は、メールやチャットなどで大概のことは済むけれど、やはりどこかで顔を合わせる時間をつくらないと、「何か突破しないよね」という感覚は皆持っているんですよ。

今のところ、この感覚をカバーするのはAIでも無理で、そこは人間として大事にしていこうという話です。逆に、読めば済むこと、一方的に話せば済むことはテクノロジーを活用すればいいわけで、その見極めというか、時代の流れと感覚を見逃さないことが大事になってきます。

――内容によって「どういう学び方がいいか」という議論は、教育の現場で進んでいるのでしょうか。

少なくとも先進的な大学や高校では始まっています。アクティブラーニングのような、共同の学びの場を教育の中核に据える機運は高まりつつも、すべてを討論形式にするのは明らかに無理だし、無駄も出てくる。加えて基礎勉強をしない学生も出てくるから、それはダメですよと。要は組み合わせですよね。

それと、元来勉強は1人でやる部分が大きいですから、それを講義というかたちで100人、200人集めてやらなくてもいいんじゃないの?という話もあります。個別にテクノロジーを活用しながらそれぞれのペースで学習するといった新しいスタイルも含めて、組み合わせの転換が起きています。従来のような単線カリキュラムの発想を回転させたアイデアは世界中で出ていますけど、近未来的には、それらを整理し、うまく特定の題材や仕事に合うかたちに編成していく流れになるはずです。

――学習習慣のあり方も変わってきますね。

学習の習慣化というのが、これまた非常に学校的発想です。特に社会人はいろいろな都合があるので、毎日30分といった習慣化は難しい。普段は忙しいから2週間集中してやるとか、さまざまなやり方があっていいのです。むしろ、そういう多様なあり方にシステムを適応させていくことを考えるべきです。たとえばテレビドラマの視聴にしても、習慣化している人は決まった曜日、時間に必ず見るけれど、オンデマンドなどの普及でそういう人はどんどん減っているわけでしょう。習慣として必ずというよりは、面白い、役に立つとか、また「1年やったら確かに成長した」という実感を得ることで、モチベーションを上げていかなきゃいけないと思います。そこから本来の習慣、継続が生まれるのですから。

学びは小さな単位に切り替わりつつある。
自覚的に選び、学び、積み上げていくことで「次を拓く」

――人生100 年時代。まさに、これからは「学び続けること」が人生の一大テーマになると考えています。

これまでは、学校で学んだらその"利子"で何とか食えたわけです。でもこれからは、学びをどう定義するにしても、学び続けざるを得ないということ。労働期間が50年とされ、2つ、3つの仕事で生きていくのが当たり前になってきたのですから。実際、今どきの60代以上の人って、多くは定年後も別の職場やボランティアなどの場を通じて、何かしら活動をしているでしょう。「定年までやってあとは余生」という図式はもう成立しませんから、今一度、長い人生としっかり向き合い、未来を充実させる学びを継続していく必要があります。

――学びを継続することに加え、そもそも種となる学習意欲を醸成するには何が重要だと思われますか?

動機、意義付けですね。漠然と「教養を高めるため」では弱くて、学び続けることによるROI 、つまり報酬が必要です。給料が増えるとか、自分にとっていい転職ができるとか、そういう明確なもの。その際に材料となるのは資格や学習履歴なので、どういう年齢でも取りやすく、また、その証明を確かなものにしていく仕組みもまた重要になってきます。

前提にあるべきは「何のために学ぶのか」「この学びはどこに向かうのか」という問いに対する明確な答え。とりわけ社会人は、学生のように学習活動が"降ってくる"環境にないわけだから、しっかりとした自覚がないと、学び続けられないと思うんですよ。

――自覚的な学びをするには、その時々の"自己点検"のような機会が必要になると思うのですが。

そうですね。自分から学習テーマを探す、そして「自分がわかっているのか、わかっていないのか」を自己点検する学習者にならないと充実しません。何も難しい話ではなく、それをサポートする機会やツールはたくさん出てきていますよね。たとえば、本を読んだあとに書くレビューは「要約をする」エクササイズを通じた点検学習になるし、また、ブログやTwitterを通じて得られる「こういうのが面白い」「役に立つ」といった情報から、自分の段階に合った材料を選ぶこともできます。さらには、「今、あなたはここを学んでおかないと先に進めませんよ」と助言してくれるアドバイザー、メンターの存在も有効で、そういう意味では、教師の役割も今後は変わっていかざるを得ないでしょう。

先述したように、学びはセグメント傾向にあり、小さな単位に切り替わりつつあります。それは、いつでもどこでも、アラカルトで自分の学びを設計していける時代になることを意味しています。一つひとつは断片的でありながら、それらをつなげ、積み上げ、その先に自分の新たな活動の場を創出する――それが、これからの学びの姿ではないでしょうか。

執筆/内田丘子(TANK)
※所属・肩書は取材当時のものです。

無藤 隆(むとう・たかし)

白梅学園大学大学院 特任教授 / 白梅学園大学 名誉教授

東京大学大学院教育学研究科修了。お茶の水女子大学生活科学部教授などを経て、2004年、白梅学園短期大学学長に就任、翌年より2007年まで同大学学長を務める。2017年より現職。教育学のなかでも保育関連や心理学系統を専門とし、保育・幼児教育に関する政府審議会・調査研究会などの座長として公的活動にも尽力する。『現場と学問のふれあうところ』(新曜社)、『保育の学校』(全3巻/フレーベル館)など、著書多数。