野田一夫氏 財団法人 日本総合研究所会長
野田一夫氏は過去四半世紀の間に3つの個性的大学の創設責任者の任を果たした後、初代学長として自ら大学改革を実践してきた。学者としての氏は若い頃から主に企業経営の分野で著書・論文を次々に世に問う一方で、業界を異にした各社の経営革新プロジェクトに関わった上に、P・ドラッカーの学説の最初の日本への紹介者ともなった。また、わが国のシンクタンクの先駆け、日本総合研究所や日本初のベンチャー起業家団体、ニュービジネス協議会の発足も主導した。零細起業家だった孫正義氏が友人の勧めで野田氏のもとを訪ね、「夢なんか追うな、常に志を磨きつづけろ」と発破をかけられ悟りを開いたというエピソードまである。その野田氏から、骨太の「社会リーダー論」を伺った。
明治の軍人、昭和の軍人
社会リーダーとしての比較
― 新たな社会価値を創造し、人々の未来を豊かにすることを自らの使命と自覚している人、われわれはそういう人を「社会リーダー」と呼んでいます。具体的には、政治家、企業人、社会貢献家などを含んだ幅広い概念です。
野田 僕に言わせれば、言葉の真の意味の社会リーダーとは本来的には、その社会的地位とは関係なく、その"生きざま"が世間の人々の手本となるような人物のことだと思います。同質社会だったわが国では昔から、そういう人物は、別に新聞とか雑誌といったものが無かった時代でも、何となく世間に広く知られるようになったものです。
ところで、どんな国にも時代を超えて存在しつづける職業もあれば、時代の要求で生まれてくる新しい職業も多種多様にありますが、巨大規模の職業集団ともなれば、その指導者が言葉の真の意味で社会リーダーでなくなったあかつきには、いわゆる「驕れる者久しからず」で、少なくともその職業集団そのものは次第に斜陽化、時には消滅の憂き目に遭うのが自然の理ですし、場合によっては、そのことが国家の命運を左右することすらありますね。
― 例えばどんな職業でしょうか。
野田 日本なら典型的には、戦前における軍人でしょう。明治維新による近代国家の誕生とともに「国家と国民を守る」という目的で軍が誕生し、軍備と組織は欧米先進国に学びましたが、精神はわが国古来の"武士道"を引き継ぎました。以来、国家としての日本の政治的・経済的発展の過程で、軍は次第に強大となり、職業としての軍人の社会的ステイタスも向上して行きました。日清・日露の両戦争を決断した政治家の最終判断の是非は別として、その命に服した軍人の行動は、その実績を支えた精神において、多くが高く評価されました。象徴的実例は、日露戦争の勝敗を決した旅順港攻防戦終結後の出来事です。
ロシア軍総司令官ステッセルが敗北を正式に認めて、日本軍総司令官の乃木将軍の元へやってきた時。乃木将軍はたった2人の息子をともにその戦いで失った直後だったにもかかわらず、敗将ステッセルに帯刀を許したばかりか、終始温かな態度でその労をねぎらった上、ロシア軍の善戦健闘ぶりを称えさえしました。まさに「武士の情け」で、この水師営会見の情況は、有名な歌にもなって日本国民に長らく大きな良き精神的感化を与えつづけました。乃木将軍は軍人という職業人であるとともに、典型的な社会リーダーでもあったのです。
― 考えてみますと、太平洋戦争では、"軍神"として名を成した立派な戦士は何人か生まれましたが、社会リーダーと称えられるに足る人物は遂に生まれませんでした。とくに戦後になってむしろ、武士道に反した軍人の行為が、国内外に流布されました。
野田 その通りです。最初から僕にはその感がありました。陸軍が緒戦の電撃作戦でシンガポール占領に成功した際、司令官山下将軍は敗戦を認めにやってきた英国軍司令官パーシヴァル将軍に対して、終始実に高圧的な言動で接しました。この言動は、明らかに日本軍創設以来の武士道の精神に反していたにもかかわらず、軍の最高司令部は訓告すら与えようとせず、報道で両将軍会見の模様を知った国民の多くも、その反応は複雑でした。
大正から昭和へと日本の経済・社会情勢が変わって行く過程で、国内で軍の勢力=権力は高まりながら、逆に指導者たちは創設の理念=武士道の精神を失って行き、そのことと並行して、軍という職業に対する国民の敬意と信頼も当然急速に低下して行きました。その軍部が主導した太平洋戦争の敗北とともに日本軍は解体され、軍人という職業集団は消滅しましたが、それを惜しんだ庶民がほとんど居なかったのも自然の理だったのです。
日露戦争で軍というすでにかなり大型化していた職業集団から、乃木希典という社会リーダーが生まれたのは、勝ち戦だったからではなく、軍という大型化した職業集団の指導者が精神的に堕落していなかったからです。逆に、太平洋戦争が敗戦だったから軍から社会リーダーが生まれなかったのではなく、職業集団としての巨大化の過程で、軍の最高指導者すら、軍創設の理念である武士道の精神を事実上全く失ってしまっていたからです。もし日本軍が「大東亜共栄圏確立」といった戦争の大義に真に沿った戦いをつづけた末に破れたなら、戦後アジア諸国民はこぞって日本の敗戦を惜しんでくれたばかりか、日本人の大部分も、国家指導者は別として、少なくとも軍に対しては深い敬意を失わなかったはずです。
国会議員の人間的質の低下
敗戦直後と現在との対比
― ところで、戦後日本において最も問題とすべき職業集団と言えば何でしょうか。
野田 何と言っても政治家、とくに国会議員でしょう。現在の日本の国会議員は衆・参両議員とも選挙権を持つ全国民の直接選挙によって選ばれた人々で、その数も衆院は500人弱、参院は約その半分で、戦前の大日本帝国時代の二院制時代に比すれば、何より議員数が圧倒的に多い。その上戦前の天皇親政の大日本帝国時代と違って、国会の議決により国政を左右する大小各種の法律の立法権を与えられているわけですから、戦前の国会議員とは比較にならぬほど重要な職責を担っているわけです。
ですから、国会議員こそ"選良"と言う言葉にふさわしく、年齢と性別にかかわりなく、
日本人の中で最も見識がありかつ人格高潔な人物であるべきです。ところで、どうでしょう? 現在、そういう判断基準で選挙民によって選出された国会議員は、何人いるでしょうか? そして、その数は民主選挙が始まった敗戦直後より増加しているでしょうか?
― 誰でも首を横に振るでしょう。職業の性格上、国会議員こそ全員が、それぞれ選挙区の人々にとって社会リーダーと呼ばれるにふさわしい人物であるべきですが・・・。政治家の人間的資質の低下は、どこの民主主義国にも共通した社会現象なのでしょうか。
野田 程度の差は国によって大きいはずですが、日本の国会議員の質的低下度合いが民主主義各国の中ではマシの方だとは、日本の成人の大部分は思っていないでしょうね。何しろ僕は個人事務所を赤坂に置いてからすでに半世紀、その間隣の永田町界隈の方々の情報は、良いにつけ悪いにつけ筒抜けに聞こえてきますからね(笑)。ともかく、デモクラシーの語源は古代ギリシャ語で「貴族ないし知識人の支配」を意味するaristokratiaに対し「人民の支配」を意味するdemokratiaで、最終的には衆愚政治と同義語と化したと言われていますから、本来的に「要注意の政治体制」だったということを忘れてはなりません。
しかし、古代ギリシャ滅亡後約2000年、18世紀末から19世紀にかけて、デモクラシーは力強く復活しました。アメリカ大陸の英国植民地の人民は本国との戦いを制して民主国家としての独立を宣言し、フランスでは「自由、平等、友愛」の目標を掲げた人民の団結力が絶対君主を打倒し、ともに近代デモクラシーが西欧諸国はもとより日本を含む世界の多くの国々の基本的政治形態となる先駆的役割を果たしたのです。
しかも、すでにその頃英国内に進行し始めていた産業革命は19世紀に入るや目覚しい成果を達成しつつ、相呼応して拡がった自由主義経済思想と一体化して、驚くほど短期間に北西ヨーロッパの諸国と新興国・米国を世界の経済先進地域に押し上げて行きました。しかし他方、20世紀の世界を再度にわたって震かんさせた大戦の震源地はともにヨーロッパでしたし、とくに第二次大戦後の敗北後のドイツがその文面においては史上最高と言われる民主憲法=ワイマール憲法を制定して国家再興を期しながら、あのナチスがその後合法的にドイツを徹底した全体主義国家に改変するのにはほぼ10年で事足りたという歴史的事実も、われわれ敗戦後の日本人は片時も忘れてはなりませんね。
選挙に打って出るが悪い冗談になる時代
― 敗戦後早くも70年、終戦後の日本を経験された方々の中には、国会議員の人間的質の低下を嘆かれる方々が多いようですが、その理由は何でしょうか。
野田 理由はいろいろで、そう簡単にはお答えできませんが、僕の記憶では、終戦直後から暫くの間、つまり、日本国民がこぞって「復興から成長へ」の努力を傾けていた頃の国会議員の多くは年齢・性別・経歴を問わず、また現在の国会議員に比べて与・野党を問わず、少なくとも人間的に信頼できそうな人物が多かったと確信します。何しろ当時の日本は総体的に貧しくて、誰にとっても職業選択の余地が極めて限られていましたからね。
そうした時代には、経歴や前職が何であろうが選挙に立候補して当選さえすれば一躍名声と収入を確保できる国会議員という職業に魅力を感ずる人の数は当然多かったはずです。しかし、1955年の好景気を契機として日本経済が予想外の成長軌道に乗ると共に、産業界を中心に日本の各界には魅力的な就職が持続的に増加して行った上に、国会議員に関わる芳しからざる大小の事件の増加なども影響して政治家のイメージは逆に急速に下落して行きましたから、事実上家業が政治家だった家に生まれた人だとか、ある地域とか団体の声を代表する人とか、中央官庁のエリート官僚で政治家の御めがねにかなった人を除いては、普通人で敢えて国会議員になりたいような人は漸減したのは当然です。
国会議員という名の政治家と言えば、われわれの日常世界とは別世界の人というイメージが日本国中に今や定着していますから、能力・人物とも信頼されているある会社のボスが「今の国政に我慢できないから、オレも選挙に打って出ることにした」と言えば、周囲はワルイ冗談だと受け取ってどっと笑うでしょう(笑)。まともな日本人の誰が考えても、現在の国政はすでにマンネリ化しきった政党政治である以上、ある選挙区の人々の圧倒的支持を受けて、一人の有能かつ志高い新米の議員が政界入りしたところで、国政の状況がいささかも変わらないことは、選挙権を持つ大部分の日本人の常識ですからね。
非大都市圏は衆愚政治を免れ
リーダーの質も高い
― さきほど先生が言われた「古代ギリシャの昔から、一般市民の投票による政治家選出=デモクラシーの向かう先は衆愚政治だ」というお話が改めて思い起こされます。
野田 18世紀末のフランス革命のスローガンをほぼ共通の精神的基盤とし、やや遅れて進行した英国発の産業革命による工業化の成果を経済的基盤として実現した先進欧米諸国の近代デモクラシーは、その実態も確立された時期も国々によりそれぞれ異なってはいていながらも、少なくとも、古代ギリシャのデモクラシーはもとより、太平洋戦争敗北後の日本の民主主義よりははるかに安定感があるように、僕には思われます。工業化後進国の民主主義は総じて、工業化の成功に伴う「(物的に)豊かな社会」の進展につれ、欧米の工業化諸国に比して何故か早々と衆愚政治化して行ってしまうような気がしてなりません。これが、ここ数十年の日本の、とくに「都市化の進んだ地域」での選挙の情況に接するたびに、僕が抱く実感です。
― 「都市化の進んだ地域」とおっしゃったのは・・・?
野田 個人的体験から、強くそう主張したいのです。父親の仕事の関係で、僕は名古屋の都市部で生まれ、中学生の頃からは戦争中をはさんで今まで東京の都市部に住み続けてきましたが、1997年から4年間だけ、県立大学の学長として仙台に単身赴任していました。その間に仕事の関係で宮城県だけでなく東北各県の小さな町や村を訪れる機会が何回もあったのですが、その際お会いした町長や村長の方々には、何とほぼ例外なく、その態度と物腰には敬愛の念を、そしてお話の内容には深い感銘を受けた経験が忘れられません。
それらの地域の選挙民の多くの方々は、自らが選ぼうとした首長の単なる形式的履歴だけでなく、その生い立ちから社会人としての生きざまや実績、人柄や人間関係まで全てを、直接的にとは言えないまでも十二分に知った上で進んで投票されたに違いないと僕は感じました。結果として、それら地域での政治は「少なくとも衆愚政治に堕してはいない。だから、選挙にはそれだけの意味がある」と、僕は確信できたのです。
これに対して都市、とくに大都市と言われるような地域では、各選挙区で実施される選挙の実感は、国会議員選挙はもちろんのこと、都・道・府・県議員から市・区議会選挙にいたるまで、僕を含め大部分の選挙民は立候補者については、形式的履歴とか、ポスター上の顔つきとか、誰かに頼まれたからとか・・・といった判断基準での投票が普通になっています。この事実こそ、政治の衆愚化の根源でしょう。これを改めるためには、現在の選挙制度を根本的改革せねばなりませんが、現在の国会議員の大半はそれに賛成するはずはありませんから、国政という国家の"要"からして、日本国の将来はすでに不安ですね。
「出たい人より出したい人」の徹底を
― なるほど、戦後の民主国家日本では国会議員こそが言葉の真の意味での社会リーダーでなければならないのに、時を重ねるにつれて一国を担う国会議員の人間的資質が明らかに低下してきたわけですね。そういう時代においては、われわれは社会リーダーにふさわしい政治家をますます持つのが難しくなっていると。裏を返せば、志の高い人間にとって、現在の政治家という職業が魅力のあるものと思われているのかどうか、大問題でしょうね。
野田 そんな敗北主義に立てば"革新"は永久に実現しませんよ(笑)。今はとうに忘れられてしまった選挙用の名モットー「出たい人より、出したい人」を思い出してください。実例もあります。吉田茂氏は、敗戦後旧憲法により天皇の大命による最後の総理を務めた後、民主憲法が公布直後の1947年から54年まで実に4期の総選挙に立候補しては圧勝を収め、実に7年半にわたって総理の重責を果たしました。しかし自らは一切選挙活動を行わず、選挙期間中は、大磯の自宅の書斎でパイプを吹かしながら、悠々と読書を楽しんでいたとのことです。ですから、民主選挙とは本来、本人の意思より支援者の熱意と努力の産物なのです。
TEXT=荻野進介 PHOTO=刑部友康
プロフィール
野田一夫
社団法人 日本マネジメントスクール会長
財団法人 社会開発研究センター会長
多摩大学名誉学長
1927年愛知県生まれ。
東京大学社会学科卒業。その後3年間東京大学大学院特別研究生。立教大学助教授(この間、マサチューセッツ工科大学ポストドクトルフェロー)を経て教授に。(財)日本総合研究所設立、初代所長。多摩大学、宮城大学の設立に深くかかわったのち初代学長に就任。このほか多くの機関の設立を手がけ、創業の基礎を固めた。「日本の大学改革」と「日本企業の経営近代化」の推進者。行動派大学教授。