ミシュランの「適正賃金」が示す企業の社会的責任とは
今、なぜ「適正賃金」なのか
2024年4月、タイヤメーカーのミシュランは、世界中の全生産拠点で働く従業員に「適正賃金(※1)」を導入することを発表した。適正賃金とは、労働者とその家族が食料、住居、教育などの、基本的な生活を維持するために必要十分な賃金を指す。フランスを代表するこの企業が、法定最低賃金(SMIC)(※2)に異議を唱え、具体的な行動を取った初めてのケースとして、国内外で大きな注目を集めた。この取り組みは、本社があるクレルモン=フェランの工員から、インド・チェンナイの従業員まで、175カ国にわたるグループ全体の13万2500人が対象である。
2021年に実施した社内調査によると、ミシュランの従業員の約5%(約7000人)が適正賃金を下回る水準で働いていることが明らかになった。一方、フランス国内でも非農業部門の民間企業で働く約270万人がSMICで生活しているが、SMICでは十分な生活が成り立たない現状がある。ミシュランのCEOであるフロラン・メネゴー氏は、「生活に困窮している従業員に、会社への献身を求めることはできない」と述べ、「働くことと生計を立てることが必ずしも一致しない現状」を打開する方法を模索してきた。
ミシュランのこうした姿勢は、創業以来掲げてきた地域密着型の「父性的経営哲学」に基づいている。1889年の創業以来、フランスの地方都市クレルモン=フェランを拠点とし、従業員やその家族の福祉向上に力を注いできた。同社は適正賃金に加え、地域間の社会保障格差を縮小するため、全拠点に「普遍的な社会保障の基盤(※3)」を導入するなど、さらなる社会的責任の実現を目指している。
サバイバルから持続可能へ
適正賃金の導入は、従業員が「サバイバルモード」から「持続可能モード」へ移行するために非常に重要である。生活がギリギリの従業員は、心理的・経済的ストレスにさらされ、仕事に集中できず、生産性が低下し、会社へのコミットメントも低くなる。しかし、適正賃金を導入することで、経済的不安が軽減され、精神的な余裕が生まれ、幸福度や生活満足度が向上する。これにより、生産性の向上や労働意欲の改善が期待される。
さらに、人材の採用が難しい製造業などのセクターでは、適正賃金は優秀な人材の確保と定着を促進する有効な手段である。離職率や欠勤率の低下を実現するだけでなく、企業ブランドの向上にも寄与し、競争力を強化する効果がある。
しかし、現在適正賃金を導入している企業はごく一部に限られる。その背景には、「経済的プレッシャー」「文化的障壁」「法的・税制上の支援の欠如」といった要因があり、多くの企業は適正賃金を戦略的な投資として捉えていない。社会的公正を実現するためには、企業の競争力や持続可能性とのバランスをどう取るかという課題を克服する必要がある。
適正賃金と経済モデルの両立
2024年11月、ミシュランはフランス国内での2工場閉鎖、1254名の人員削減計画を発表した。この決定は、経済的な現実に直面する中での苦渋の選択であり、現在、早期退職や配置転換、再就職支援などの取り組みが進められている。
企業が新しい取り組みを導入する際には、経済的影響を慎重に考慮する必要がある。特に低利益率の業界では、賃金を適正水準に引き上げることが競争力に影響を与える可能性があるため、持続可能性や費用対効果とのバランスを取ることが求められる。ミシュランの場合、この課題は「社会的責任の追求」と「経済的制約」という二重のプレッシャーを象徴している。
このような状況下で、Tomorrow TheoryのCEOであるジェレミー・ラムリ氏(※4)は、適正賃金が「低技能労働者にとって大きな社会的進歩を意味する」と述べ、「適正賃金を企業戦略の中心に据え、社会的進歩と経済的持続可能性を両立させることが最大の課題である」と強調している。
適正賃金の導入は、社会的公正の実現だけでなく、従業員の生活満足度を向上させ、企業ブランドの向上にも寄与する可能性を秘めている。しかし、その一方で、企業が競争力を維持しながら持続可能な形で適正賃金を実現するためには、効果的な戦略が不可欠である。これを実現するには、適正賃金を単なる人事上の取り組みにとどめるのではなく、企業全体の長期的なビジョンや経営戦略の中核として位置付けることが重要である。
拡大する企業の社会的責任
現在、企業の責任に対する考え方は大きく変化しており、社会的責任の範囲が広がっている。NovethicのCEOであるアン=カトリーヌ・ユッソン=トラオレ氏(※5)は、ミシュランの適正賃金導入について、「欧州レベルで最低限の注意義務を課す重要なメッセージであり、企業が環境的・社会的観点から世界中の労働者や生産者の扱いに責任を負うべきだという強い意志を示している」と評価している。
さらに、ラムリ氏は、適正賃金が労働市場の公平性を支えるものであると認め、「貢献収入(Revenu Contributif)(※6)」という概念が、「社会全体での公平性を追求するための包括的な仕組みとして有効な役割を果たし得る」と述べている。この貢献収入の概念は、フランスのセーヌ=サン=ドニ県に位置する地方自治体プレーヌ・コミューンで実践されており、特に会社員と非会社員間の格差是正を目指すモデルとして注目されている。
労働者が企業に長期的に貢献する意欲を高めるためには、単なる賃金の引き上げだけでなく、労働環境の改善や社会保障制度の強化を含めた、労働者の「生きる質」を向上させる包括的な社会的改革が必要である。
ミシュランは、地域に根差した「父性的経営」企業から、真の国際的企業への変革を進めている。この変革の中で、適正賃金のような従業員を重視する取り組みを、いかに経済的に持続可能な形で維持するかが、今後の重要な課題となる。
(※1)適正賃金(「フェア・ウェイジ」)は、Global Living Wage Coalition(世界生活賃金連合)によって定義された「適正賃金」の概念に基づいて算出され、2011年に国際労働機関(ILO)のリチャード・アンカーによる報告書に採用されている。内容は、「特定の地域における通常の労働時間の対価として、労働者およびその家族(両親と子ども2人)が尊厳ある生活水準を維持するのに十分な賃金」と定義されている。適正な生活水準を構成する要素には、食料、水、住居、教育、医療、交通、衣服、そして予備的な貯蓄の形成を含み、その他の基本的な必要経費などが含まれている:https://www.michelin.com/publications/groupe/media-day-michelin-2024
適正賃金の地域別水準:フランス国内でも地域によって生活費の水準が大きく異なるため、適正賃金は地域ごとのコスト差を考慮して設定されている。具体的には、住居費をはじめ、生活費が突出して高いパリでは、ミシュランが適用する適正賃金額はSMICより87%高く、また、パリと比べて生活費が比較的低いクレルモン=フェランでは、SMICより20%高い水準に設定されている
(※2)フランスにおける法定最低賃金のことであり、金額は2025年1月の時点で、額面1801.80ユーロ(週35時間勤務)である。労働省管轄の調査・研究・統計推進局(DARES)は、非農業部門の民間企業で働く労働者270万人がSMICで収入を得ていると発表している。これは全労働者の14.6%に相当する。2023年1月では17.3%を記録し、30年の中で最も高い水準であった:https://dares.travail-emploi.gouv.fr/publication/comment-mesurer-le-nombre-de-salaries-remuneres-au-smic
(※3)この基盤は地域ごとの社会保障格差を減らし、どの国でも公平な基準を提供することを目的に、従業員とその子どもたちの健康保険、最低14週間の産休および4週間の育児休暇(いずれも100%の給与支給)、子どもの教育費をサポートする教育年金、死亡保険(1年間以上の一時金支給)などが含まれている
(※4)フランスの研究者であり起業家である。21世紀における人事(HR)の課題、未来の働き方、リーダーシップ、イノベーションといった分野を専門とし、多くの著書を執筆している。特にソフトスキルに関する研究で知られている。これまでに複数の革新的な企業を創設・共同創設し、2022年にはHR分野のイノベーションスタジオ「Tomorrow Theory」を共同設立し、同社のCEOを務めている。また、講演活動や教育機関での教職にも携わり、多岐にわたる分野で活躍している:https://tomorrowtheory.com
(※5)持続可能な変革を推進するNovethic(預金供託金庫傘下)の共同創設者であり、CEOを務める。2001年より金融セクターと企業の社会的・環境的責任を加速させる活動を続けている。持続可能な金融の象徴的存在として、国内外で責任ある金融の重要性を発信し、2016年以降、欧州委員会の持続可能な金融に関する専門家グループのメンバーに任命されている:https://www.novethic.fr/
(※6)従来の雇用労働の枠を超え、社会や経済に価値をもたらすあらゆる活動を認識し、財政的な支援を行う仕組みである。具体例として、ボランティア活動、家族介護、創造的活動などが挙げられる。この概念は、「仕事」と「価値」の定義を再構築するものであり、経済的生産性だけでなく、社会全体への貢献に重きを置いている
TEXT=田中美紀(客員研究員)