デンマーク 転職前提の社会で「キャリアに迷わない」ための仕組みとは
デンマークは雇用が流動的で一カ所での平均勤続年数は7.2年しかありません。社会人になってからも自らのキャリアを考え、学びや就労を促す仕組みが、会社、労働組合、公的サービスと何層にもわたって提供され、生涯学習社会を支えています。
鈴木優美氏(すずき・ゆうみ)
Madogucci(マドグチ)代表。大学等の研究者を主な対象とし、日本からデンマークへの視察・訪問の際のコーディネート・通訳を行うほか、デンマークの教育・労働・福祉の現場にも関わりが深く、記事も時折執筆する。津田塾大学学芸学部卒業、東京大学教育学研究科修士課程修了。デンマークロスキレ大学教育学・心理学研究科博士課程中退。単著に『デンマークの光と影 福祉社会とネオリベラリズム』(2010年リベルタ出版)がある。
職場におけるキャリア相談「ムース」
デンマークで、今の仕事・職務に満足できず、何らかの変化を起こしたいと考える時、多くの人にとって身近なのは、職場の上司との「従業員発達のための面談」(通称ムース:MUS)の場です。ムースは職に就いている人が自分の仕事について振り返り考える機会であり、職場での二者面談です。公共セクターの労働者には、年に一回のムースが義務づけられ、民間セクターでも、いくつもの労働組合が年に一回のムースを推奨しています。
職場が個人の挑戦を支援する
1997年にはデンマーク語の新語として初めてムースが登録され、1999年には国レベルで実施されるようになりました。2008年には自治体レベルでも実施されるようになり、近年の経営・労働の現場で用いられるツールとしては、最も幅広く用いられているものとなっています。ムースを実施する前に、面談を担当する上司も本人も内容の準備をしておくこと、そして実施後はさらにフォローアップをすることが成果を生かすための鍵とされており、労働組合でも、組合員が職場でのムースに事前準備するためのツールを各種HPで公開しています。
例えば、現在の職務内容に満足していない人が、職場で今後挑戦したい仕事内容を探し、その技能を身につけるための研修コースに参加させてもらえるよう上司と話し合い、研修への参加とその後の配置転換の合意を取り付ける、といったケースがあります。その際、職場で紹介される研修コースから選ぶこともできるし、所属する労働組合で提供されるコースを選ぶことも可能です。研修中は職場がコースの参加費用を負担し、公休という形で給与補償をすることが普通です。再教育・訓練によって労働者の能力を引き上げ、より技能の高い職に使うことができるようになり、労働者自身もやりがいのある職に就き、仕事に満足することができます。
一方で、この仕組みには限界もあります。今いる会社や組織における職務の転換や能力向上に関わる支援を受けやすい半面、労働者が職種転換や転職を希望している場合、直接の上司には相談しにくいのです。こうした大きな変化をサポートしているのが、労働組合など社外のキャリアガイダンスです。
組織率7割の労働組合が転職をサポート
デンマークにおける労働組合の組織率は、2017年現在で67%です。組織率は近年下がってきているものの、ヨーロッパ32カ国のうち第2位の高さを誇ります。デンマークの労働組合は職業別で、エンジニアの労働組合、事務員の労働組合など、それぞれの専門性を持っています。デンマークでは職業教育が充実しており、若者は学生のうちから職業アイデンティティを獲得し、その職業の労働組合の組合員となるため、教育現場と労働組合の結びつきも強いことが特徴です。
労働組合が行うキャリアガイダンスにはさまざまなメニューがあります。例えば、ムースを経て社内でのキャリアアップを目指す研修への参加を提案する場合もあれば、転職の相談に応じる場合もあります。労働組合には、どの専門性を持つ人の募集がどこであるのか、昨今の傾向としてどのような技能を持つ人材が望まれているのか、といった情報が蓄積されています。「同業仲間」である労働組合は個別の状況や職業能力に応じて比較できるケースを数多く持っているため、会社を横断したキャリアの相談場として有効に機能しているのです。
組合提供の学習コースは多岐にわたる
事務職員の労働組合HKでは、様々な言語の学習、事務プログラム、ソーシャルメディア、グラフィックツールなどから、職探しや給与交渉、プレゼンテーションの仕方まで、多様な学習コースをオンラインで組合員に提供しているほか、外部の職業教育機関とも緊密に提携し、能力開発の機会を提供しています。例えばユトランド中西部支部では、地域にある8つの職業学校および職業教育センター(VUC)と提携し、学び直しを通じたキャリアアップを支援しているほか、地域にある産業アカデミー、大学等が提供する社会人向けのコースへの橋渡しをしています。学び直しのコースには、1日で終わるような短く基礎的なコースの場合もあれば、週に数時間使いながら数カ月から数年かけて学位を取るコースの場合もあります。勤務先が民間であろうと公共機関であろうと、組合員であればキャリアアップのための職業研修を受けることが可能です。
図表1 事務職員の労働組合HKウェブサイト
(出所)https://www.hk.dk/omhk/about-hk
誰にでも開かれたオンラインでのガイド
そのほかに、年齢、学歴、仕事の有無を問わず、誰にでも開かれている全国的な教育ガイダンス・キャリアガイダンスとして、ITと学習庁(子ども・教育省の下部組織)が提供している「Eガイダンス(eVejledning)」があります。Eガイダンスが開設された2011年当初は、若者とその親に対して就職ガイダンスをオンラインで提供していましたが、2017年以降は、若者だけでなく、デンマークのすべての市民と企業に向け、特定の組織から独立した教育ガイダンスを提供するようになりました。
図表2 デンマーク政府が提供するEガイダンスのウェブサイト
(出所)https://www.ug.dk/evejledning
現在、Eガイダンスは、電話、チャット、メール、スカイプでの問い合わせに年間7万件対応しています。デンマークの人口は580万人なので、日本でいえばおよそ年間150万人が利用していることになります。そのうち、義務教育を修了した若者と成人が全体の問い合わせの8割を占めます。
Eガイダンスで紹介されている職業教育・訓練コースは、就業形態や仕事の有無にかかわらず参加することが可能で、介護や保育といった人手不足が深刻な分野の一部のコースの参加費用は無料ですが、少額の参加費用を自己負担する場合が多く、職場が負担するケースもあります。失業中の場合、訓練コースの参加中は失業保険の給付が受けられるほか、失業していないものの職場から給与が出ない場合、一定の条件(※1)を満たしていれば国に既定の補償を申請することができます。職場からそのまま給与が支払われる場合には、職場に対して同額が還付されます。
キャリアガイダンスが生涯学習の基盤に
デンマークではなぜ、このように多様なキャリアガイダンスが提供されているのでしょうか。その背景を、キャリアガイダンスの定義から考えます。
第1に、キャリアガイダンスは、仕事だけでなく、余暇、学習なども含めて個人が望む人生を送るための選択や行動を支えるものと位置づけられています。北欧閣僚協議会が成人学習のための協調を促す目的で設置した「成人学習のための北欧ネットワーク(Nordiskt nätverk för vuxnas lärande)」によれば、キャリアガイダンスは「個人や団体が仕事、余暇、学習についてより多くのことに気づき、世界における自分の居場所をよく考え、その将来を計画するのを支援する」とされています(図表3)。
図表3 北欧の文脈におけるキャリアガイダンスの定義
(注)Hooley, T. , Sultana, R.G., & Thomsen, R. (2018) The neoliberal challenge to career guidance: Mobilising research, policy and practice around social justice, In Haug, E.H., Hooley, T.,
第2に、キャリアガイダンスは、支え合いやネットワークを通じて一人一人の職業上のポテンシャルを高めていくものとして位置付けられています。前出の定義によれば、キャリアガイダンスは、「個人や地域が、仮説や力関係を分析、問題提起し、ネットワークを形成して人々と連帯し、新しく共有された機会を作り出すことのできる力を育てること」であり、「個人や団体がありのままの世界の中で奮闘し、それがどんな世界になりうるかを想像するのを助ける」とされています。ここで強調されているのは、ネットワーク化や共有を通じて、個人あるいは団体の成長を支えるという観点です。
第3に、キャリアガイダンスは北欧社会の根幹に関わるものと位置づけられています。前出の「成人学習のための北欧ネットワーク」は、実践家と政策立案者、研究者が協働して、専門性とエビデンスに裏打ちされたキャリアガイダンスを生涯、セクターを超えて提供することは、生涯学習、労働力開発と社会的平等を実現しようとする北欧の国家戦略として位置づけるべきものとしています。
つまり、キャリアガイダンスは、支え合いを通じて個人が人生で希望の選択を行うためのツールであり、同時に北欧の文脈における望ましい社会を実現するための戦略という重要な位置づけがなされているのです。
働く人を共に育てるのがデンマーク流
デンマークにおいては、働く人間をその人の特性や能力、興味関心に合わせて最大限に生かす支援をするガイダンスを行い、キャリアのために必要な教育に対して公的な支援を十分に行う準備があります。労働組合や職場における共助、Eガイダンスを通じた公助の充実が、時代に即した能力を備えた労働力を常に育てていく生涯学習社会の基盤となっているのです。
(※1)1.職業コースに参加すること、2.勤務時間を休業する必要があること、3.失業していないこと、4.コースの前後14日間就業していること、5.最終学歴が職業教育段階を超えていないこと、6.生活保護等の公的福祉給付を受けていないこと、7.(実習生として給与が支払われるような)教育契約をしていないこと。