「賃金のベースアップからキャリア支援」へ。三井物産労働組合のデータ改革
労働組合の果たすべき最も重要な役割は、賃上げと雇用維持―。日本の労働組合に深く根付いたこの常識を覆すのが、三井物産労働組合「Mitsui People Union」だ。個人が仕事に没頭しやりがいを感じる「エンゲージメント」を重視し、組合独自のキャリア支援にも取り組む。塩澤美緒委員長と葛西信太郎副委員長に、活動方針を大転換した理由を聞いた。
塩澤美緒氏 Mitsui People Union委員長
2008年三井物産入社。エネルギー事業部、環境事業部、インド研修員を経てオーストラリアやサハリンでのLNG事業に従事。2018年から労働組合専従となり、2020年三井物産労働組合初の女性中央執行委員長に就任。2015年に出産し、育休を取得。
葛西信太郎氏 Mitsui People Union副委員長
2011年三井物産入社。ICT事業本部で国内外の放送局との協業・出資などに携わり、2016~2018年、国内BS放送局へ出向。2018年から労働組合専従となり、2020年より副委員長。
組合員の関心は、賃金から成長実感へ
――三井物産労働組合、Mitsui People Union(MPU)が現在、重視していることは何ですか。
塩澤: MPUは「中長期的な会社の発展を通じて、組合員の利益の最大化に資する」ことをミッションに掲げています。
組合員へのアンケート調査やヒアリングの結果、組合員の利益は賃金のみならず、会社で得られる成長実感や活力を持って仕事に打ち込める職場づくりなど、もっといろいろあることがわかりました。これらは広い意味で「エンゲージメント」ととらえることができるので、MPUは組合員のエンゲージメント向上を重視しています。
またミッションで「中長期的な会社の発展」を掲げる通り、会社側に対しても「組合員の既得権益は一歩も譲らない」という対決姿勢ではなく、仮に不利益改定であっても「それが企業成長につながり、中長期的には組合員にリターンをもたらすか?」という考え方で臨んでいます。
――組合員のエンゲージメントを重視するようになった経緯を教えていただけますか。
塩澤:組合員を対象に2012年から毎年実施してきた「エンゲージメント調査」やヒアリングを通じて、賃金は引き続き組合員の関心事の一つである一方で、仕事を通じて成長実感を得たい、社内外で通用するキャリアを築きたいといったニーズが、賃金や人事評価の納得感以上に高まっていることが明らかになりました。
こうしたニーズも含め、エンゲージメントを指標にすることで、組合員が何に対してどれだけ満たされているかを把握できると考えています。
実際、調査データをさらに分析すると、エンゲージメントを高めるのに最も効果的な取り組みは、キャリア支援だとわかりました。また働き方の柔軟化や、経営陣との対話によって企業戦略を組合員に明確に伝え一体感を醸成すること、組織風土への影響が大きい組織長のマネジメントスキルアップなども、上位にあがりました。
データとエビデンスで守旧派を説得
――ベア(賃金のベースアップ)重視からの方針転換に、組合員から反対の声は出ませんでしたか。
葛西:私が中央執行委員会に参加した2016年ごろは、「ベアこそが労働組合の存在意義」と主張する中央執行委員も少なからず存在し、「組合=賃上げだけやっていればいい」という組合員の声もなかったわけではありません。
こうした方にも理解を得るには、調査データから得たエビデンスで、エンゲージメントの重要性を数量的に示す必要がありました。
さらに、データを補強するような政府の調査研究や、著名な学者、人事コンサルの分析を集め、活動範囲を拡大する意義を丁寧に説明しました。政府や有識者といった「巨人」の肩の上に立ったわけです。結果的には、活動範囲の拡大は組合員にも支持されています。
図表 毎年実施している「エンゲージメント調査」の分析レポート
塩澤:組合内の合意形成には、執行部が知恵を絞るだけでなく、外部のプロの手も借りて丁寧に進めました。アンケート調査の結果を示し、会社と社員の課題を考えるワークショップを開き、キャッチーなデザインの広報誌を発行し、組合執行部OBかつ元当社役員の先輩に組合、経営の双方の観点からアドバイスをいただく……といった手順を踏んで、徐々にコンセンサスを作っていきました。
ただ業績が好調な時や外部環境によっては、賃金も合理的水準に引き上げるべきではないか、という組合員の期待も高まります。その時々のニーズに応じて賃金交渉もしっかり対応します。
――組合活動では、過去の成功体験にもとづきよかれと思って声を上げる人が、ともすれば抵抗勢力になるという「労労対立」が起きがちです。
葛西:前提となる時代認識を更新する必要があるのかもしれません。毎年数%の経済成長が当たり前だった時代は、ベアを通じた労働分配率の維持・拡大が活動の正解だったかもしれません。しかし低成長の時代には、経済成長率や物価指数を根拠にベアを主張するロジックを無理に作り込むより、どうすれば企業が成長するかを考えたほうが建設的だ、というのが僕たちの発想です。
キャリア支援や働き方改革を通じて、人的資本を強化したほうが企業は成長し、組合員へのリターンも高まると考えています。
専従が資格を取得し、キャリア相談に応じる
――組合員のエンゲージメント向上のために、具体的にどのような取り組みをしているのでしょうか。
塩澤: エンゲージメント調査の結果をもとに、毎年全事業本部長と対話の場を持っています。各職場の課題をデータで「見える化」し「こんな施策を打ってはどうですか」と、お勧めするわけです。例えば事業部内での意思伝達に課題がある場合、部下を集めて直接対話する「タウンホールミーティング」を提案し、複数本部で実現しています。
またエンゲージメントのスコアが高い管理職の行動特性を専門家の力も借りて分析し、変革主導、思考の柔軟性など7つの要素にまとめました。ロールモデルとして全社員に共有したほか、当時、管理職の新しい人事評価指標を検討中だった会社に正式に提案しています。
「エンゲージメント」に関しては会社側も2018年に調査を始めており、労使の共通認識が作られつつあると感じています。
――とりわけキャリア支援がエンゲージメント向上に最も効果的なのですね。キャリア支援に関して、組合から会社への提案で、実現した施策はありますか。
塩澤:社内公募異動制度である「人事ブリテンボード制度」が一部停止されていましたが、2017年に制度の再開・応募要件緩和を提案して実現し、より多くの人が使えるようにしました。上司によるキャリア支援や組織力強化を促す施策として、上司と部下が面談する「1on1」の全社導入も提案し、導入してもらいました。
さらに組合独自の取り組みとして、6人の専従(組合専従者)が全員、キャリアコンサルタントの資格を取得してキャリア相談に応じるほか、キャリアセミナーも開いています。
人事に相談しづらくても、組合になら言える
――なぜ、組合がキャリアの相談に応じるのですか。
葛西:2018年時の委員長が、配属のミスマッチによる若手・中堅社員の離職に課題を感じたのがきっかけです。彼は離職の原因や予防策を知りたいと考え、キャリア理論を研究するアカデミアの教授のアドバイスももらいながら、自ら勉強してキャリアコンサルタントの資格を取りました。
当時専従だった私たちは彼を見て、相談対応を通じた「傾聴力」など、普段の業務では身につけづらいスキルを磨けそうだと感じ、全員で資格を取ったんです。
会社側に制度を作るよう働きかけることと並行して、自分たちで小さく早く始めてみよう、効果が出たらそれも提案材料にしよう、という思惑もありました。
――組合員の反応はいかがですか。
塩澤:1年目は約50人の相談に応じ、9割から「満足した」という回答を得ました。
組合は社外のコンサルタントと違って職場環境や社内制度を熟知する一方、人事からは独立しているので、「転職したい」「上司と合わない」といった悩みも話しやすいようです。
ただ私たちの役割は、相談者にほかの部署を勧めたり指示を与えたりするのではなく、本人の自律的な行動を促すことです。データを提供したり希望部署にコンタクトする方法を一緒に考えたりはしますが、基本的には自力で情報収集し、判断できるようにサポートするのが目的です。
――まさに「自律を促す共助」ですね。皆さんがキャリア支援を通じて、得たものはありますか。
塩澤:得るものは非常に多いですし、今後のキャリアに生きると確信しています。傾聴力だけでなくコーチングなどのマネジメントスキルも身につきますし、いずれ自分が組織長になった時、どのように部下の話を聴き、やりたいことを一緒に見つけていくかを日々学んでいます。
相談に来た人がやりたいことを見つけると、見違えるように「馬力」を出す様子を見るのも、とても楽しいし、やりがいがあります。
――キャリア支援を、今後どのように発展させていきますか。
葛西:専従が入れ替わっても継続できるよう、次のステージ「キャリコン2.0」への移行を検討しています。
全社に公募をかけたところ、私たち以外にもキャリアコンサルタントの資格を持つ組合員から「是非MPUの取り組みに協力したい!」と複数の応募がありました。今後は、専従以外の有資格者にも相談対応を担ってもらう案を考えています。組合員同士で支え合う「共助」の仕組みになりますし、相談に応じる側も、別の部署の話を聴くことが「越境学習」になると期待しています。
活動に共感した多くの組合員が資格を取るようになり、キャリコンが「3.0」「4.0」とアップデートしていければ面白いですよね。
Mitsui People Union(MPU:三井物産労働組合)
1962年結成。任意加入のオープンショップ制だったが、2000年代に入ると組合機能が低下し、2012年、当時の執行部が「解散宣言」を出す。2015年に全員加入のユニオンショップ制へ移行し、2019年、MPUに通称変更。組合員約4400人、執行委員約170人で運営されている。
後編「解散危機に陥った三井物産労働組合は、なぜ大復活できたのか?」へ
聞き手:中村天江
執筆:有馬知子