「働くこと」を自らの手に取り戻すために 田中勝章
「働く喜び」感じていますか?
「できれば働きたくないと思っている人はどのくらいいますか?」
200人弱の会場の8割を超える手が挙がった。この夏、キャリアを考える大学生が集まるイベントでの筆者の問いかけに対する大学3年生の反応だ。
今同じ質問を社会人にしたらどのような反応が返ってくるだろうか。
リクルートキャリアが2015年の12月に、15~64歳の働く男女約5,000人を対象にした「働く喜び調査」の結果がある。「仕事をする上で働く喜びは必要か?」という質問について、83.7%の人が、「働く喜びは必要だと思う(とても必要だと思う+必要だと思う+やや必要だと思う)」と回答している。一方、「この1年間、働くことに喜びを感じていたか?」という質問について「この1年働く喜びを感じていた(非常に感じている+感じている+やや感じている)」と回答している人は37.2%にとどまっている。働く喜びをもたらす要因は、社会や組織、個人のレベルにも様々に存在するが、ここでは、「働くこと」に対する価値観の時代と共に変化してきている部分を取り上げてみたい。
「働くこと」に対する価値観の時代変化
古代、主な労働は農業であり、それはアミニズムに近い形での道徳と宗教の行為であった。新約聖書には「働かざる者食うべからず」と記され、労働の理念に高い価値が与えられた。宗教改革では職業労働こそが具体的な隣人愛の表れとして労働の重要性が積極的に説かれるようになった。そこに社会の統治者側の意図が入り込んでいたとしても、労働は生きるための苦役というだけではない、積極的な意味を付与されるようになっていた。
時代が下るにつれて、農業を中心に社会の生産性が上がってくる。日本においては、江戸時代は商品貨幣経済が浸透して経済格差が広がりつつも、国全体で見れば、大多数の日本人はまだゆとりと自主性のある生活を送っていた。たとえば農民は生活に関連する多くのことを自分たちでマネジメントしていたが、それで多くの場合は困らなかった。天職のように日課をこなし、余剰は消費するという自足した生活が成り立っていたのだ。
一方で西欧の一部では、生産の余剰は、投資に回された。マックス・ウェーバー(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」)は、プロテスタンティズムの倫理から生まれた「禁欲で勤勉な労働は倫理的実践」という職業観が、節約、貯蓄、投資という行動を促進したと主張した。そして18世紀後半の英で起こった産業革命はこれらの資本主義的行動を一気に加速させる。分業と協業が進み、「課題(タスク)本位」の働き方が主流になっていった。近代産業の発展は、労働のありかたを大きく変えていったのだ。武田(「仕事と日本人」2008)によるとその主な点は以下の4点に集約できる。
1)分業と協業、2)時間についての規律(生産性の概念)、3)作業場所の特定(生活と仕事の分離)、4)組織労働(個々の働き手の裁量の最小化)である。
これらは労働生産性の管理を労働者の手から奪い、そのことによって、労働における主体性の喪失をもたらしたと言えるだろう。これらは、働く喜びを損なう大きな要因だと考える。誰だって裁量を奪われて、指示通りにただ従うだけの労働は、回避したくなるだろう。
「働くこと」の主体性を取り戻す
最近、労働時間の短縮、リモートワークの導入など、働き方改革の議論が進んでいる。長時間化する労働時間は働き手の健康に重大な影響を及ぼすし、多様な働き方の実現は労働の担い手を増やすことにつながる大事な施策である。ただそれらの本質を考えると、これらの取り組みは、働き方に関する制約をなくし、主体性を取り戻すことでより生産性を上げていく、という考え方に至る。そのように考えれば、産業革命以降、「課題(タスク)本位」の働き方を突き詰めてきた流れを大きく変える「時代の区切り」に我々は今立っているのだ。本来の主体性を取り戻し、個々人や組織が持つ可能性を開放する働き方の実現を目指すために、近代産業の仕組みにどっぷりつかった体と心を取り戻す。働き方改革の背後には、大きな社会構造変革のシナリオが必要なのではないだろうか。
田中勝章
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