第10回 「精神保健学」 川上憲人 氏・渡辺和広 氏
5つの幸福感をバランスよく職場で実現する
【プロフィール】
川上憲人(かわかみ・のりと)東京大学大学院医学系研究科教授、医師。産業精神保健、精神保健疫学の専門家。特に職業性ストレスに関する研究、地域住民の精神保健疫学研究を中心に、幅広い研究活動を行う。著書に『ここからはじめる 働く人のポジティブメンタルヘルス』(2019)。
渡辺和広(わたなべ・かずひろ)東京大学大学院医学系研究科助教、臨床心理士、公認心理師。臨床心理学をバックグラウンドに、職場のメンタルヘルスを主なテーマとして研究。中でも、身体活動・運動の促進を通じた労働者のメンタルヘルスの改善を専門に活動中。
探求領域
Well-beingの尺度「PERMA-Profiler」職場版の日本仕様を開発
私たちの教室では、公衆衛生、および精神保健(Public Mental Health)に関する研究を行っています。個別のカウンセリングや治療だけではなく、一つの施策でより多くの人の健康を保持・増進することを目的とした研究で、中でも労働者の心の健康や、仕事の中のどのような要因が心の健康を阻害してしまうのか、より生き生き働くために何が必要なのかといったことは主要なテーマとなります。研究においては生き生き働く労働者を定義する概念をいくつか使用していて、その代表的なものが「ワーク・エンゲイジメント」です。ただ中には、何か社風に合わないと別の目標を模索する会社もあり、ワーク・エンゲイジメント以外のポジティブな概念についても調べていました。そんな中、非常に多義的な概念であるwell-beingの考え方の一つに、ポジティブ心理学の権威セリグマンが提唱した「PERMA」という概念と、その職場版があることを知り、その測度(調査票)の日本語版を、我々で開発することになりました。
PERMAは一時的な幸福感と持続的な幸福感の両面をとらえたモデル
PERMAとはwell-beingを構成する要素の頭文字です。労働者で言うと、職場でのポジティブな感情(Positive)、仕事へのエンゲイジメント(Engagement)、職場の人との関係(Relationship)、仕事の意味 (Meaning)、仕事における達成 (Accomplishment)の5つで、これらが労働者のwell-beingを構成しています。Well-beingには大きく2つの側面があり、一つは、快楽的な幸福感、楽しい気分あるいは満足など一時的な幸福感で、もう一つは人生の意味、生きがい、自分の成長を測るような持続的な幸福感があるのですが、PERMAモデルはその両方を測ることができるのが特徴の一つです。
探求領域×「生き生き働く」
この5要素は、共通して仕事の満足感と関連
我々が行ったのは、職場版PERMAを測定する日本語版を作って、それが日本での調査票として妥当かどうか確かめる研究です。生き生き働くことの効果を研究したものではないのですが、既存の尺度での調査も同時に行うことにより、職場版PERMAの得点が高い人がどのような特徴を持つかを明らかにすることができました。まず、はっきりしたのは、どのPERMA要素であれ、得点が高い人は、既存の尺度で測定された仕事や家庭での満足度が高い傾向にあったということです。
心身のストレス反応の低さ、パフォーマンスの向上とも関連
神経過敏に感じるとか、何をするのもおっくうだと思うとか、自分を価値のない人間だと思うといった心理的なストレスの症状も、職場版PERMAの得点が高い人は、少ない傾向にありました。また仕事のパフォーマンスについて自己申告してもらう質問では、職場版PERMAの得点が高かった人はパフォーマンスも高いことが確認できました。
日本人は、5つの幸福感が互いに強く結び付いている
5つの要素それぞれにどのような効果があるのかについては、ワーク・エンゲイジメントに関しては、高ければ生産性が上がるとか、健康状態がいいとか、中ぐらい以上であればうつ病のリスクが減るというような研究が多くありますが、職場版PERMAの5つの要素についてはあまり研究が進んでいません。これからの研究が待たれるところです。
また、海外では5つの要素は独立しているものと言われていますが、私たちの研究で使った日本人のデータでは、一つが高いと他の要素も高いなど、各要素が非常に強く結び付いているところがありました。気分がいいと、生きている意味もなんとなくあるように思ったり、場合によっては区別が付いてないのかもしれません。日本人がポジティブな感情をあまりたくさん持っていないということも、研究を難しくしている気がします。
「生き生き働く」ヒント
ソーシャルキャピタルの強化が有効
生き生き働くための施策としては、組織レベルで言うなら、職場のチームワークや一体感を高める、いわゆる職場のソーシャルキャピタルに注目する作戦が、今のところ一番有効でしょう。職場のみんなが、チームに参加している感覚を持って、お互いに信頼し合って情報交換したり意見を言い合ったりして、誰も置いていかれていないような一体感を作るのは大きな力になると思います。
個人のアクションとしては認知行動療法
個人レベルでは、認知行動療法を応用したアプローチが今非常に成功しています。ものの受け取り方や考え方を柔軟にしたり、行動のレパートリーを増やして悪循環に陥るのを防いだり、認知に働きかけて気持ちを楽にする心理療法です。最近では「マインドフルネス」「ACT(Acceptance and Commitment Therapy)」など新しい認知行動療法も出てきているので、着目してもよいかもしれません。ただ1人では限界があるので、組織として研修を組む、eラーニングを導入するなど、職場というリソースを活かして全体で底上げをするようなことも大事だと思います。
人のつながりや信頼は、意識して作らないと維持できない
いろんな会社でお話をしていて感じるのは、人のつながりや信頼がとても大事なことは、誰しも認識しているのですが、今は意識してそれを作らないと維持できないことに、皆あまり気づいていないということ。当然あるはずのものではなく、もはや仕掛けをしたり設定をしたりしないと維持できなくなっていることをはっきり認識して、そのための仕組みを職場の中で作ることは、大事でしょうね。ミーティングの頻度など、職場で話し合って工夫していく必要があると思います。
うつも不安も、どちらもメンタルの不調ですが
その違いは、割と明確に区別しやすい。
でも、幸福と満足など、
ポジティブな概念の微妙な違いは、特に日本人の場合、
言葉で説明するのはなかなか難しいんですね。
――渡辺和広
今政府がAI(人工知能)の導入による近未来の社会、
「ソサエティ5.0」をうたっていますね。
そうなったとき、仕事や職場がどう変わるのか、
健康管理をどう変えなければいけないのか、
これらも、今後の重要なテーマとなるでしょう。
――川上憲人
執筆/荻原美佳(ウィズ・インク)
※所属・肩書きは取材当時のものです。