米国が構築中、リスキリング推進のインフラとは
ここまで、世界でリスキリングの機運が高まる一方、さらなる進展には課題も多く残ることを紹介してきた。
米国では、リスキリングと職業能力教育に関する戦略策定を担う、連邦政府横断の機関(米国労働者のための国家会議)と、企業や教育機関などのステークホルダーが参集し、その国家会議に助言・提言を行う委員会(米国労働力政策諮問委員会)が設置され、リスキリングの戦略策定と具体化が進められてきたことは、以前のコラム「世界が急ぐリスキリング」で述べた。
そのリスキリング戦略の一環として米国政府が急いでいるのが、個人のスキルの保有・習得の状況をデジタルに一元管理するインフラの構築である。リスキリングで新しいスキルを習得すれば、それを個人のスキル・ポートフォリオとして記録していくことが重要だ。その人がどのようなスキル、経験と知識を持っているのかを総合的に把握することでこそ、雇用主は新しく生まれる職務へ適した人材を配置できる。加えて、まだその人に足りていないスキルがあれば、さらなるリスキリングのロードマップを描ける。個人のスキルを適切に管理する体制を作ることは、国全体でリスキリングを進めるための基礎条件といえるだろう。
客観的なスキル評価をブロックチェーンで管理する
現在、IBMやWalmartをはじめとする民間企業で試験的プログラムが進行中で、2020年9月にはその中間報告があった。米国の試験的プログラムはどのようなものなのか、中間報告をもとに解説する。
米国が進めている、スキルを一元管理するインフラの名称はLearning and Employment Records(以下LER)だ。その名のとおり、学習履歴と雇用履歴を一括に記録するものである。ここには、大学の学位や職務経歴は当然のこと、公式の教育ではない学習、仕事としてではなく個人的に参加した研修、軍隊での訓練経験なども含まれる。
これまでであれば、学習履歴や職務経歴を証明するためには卒業証書や成績証明書、履歴書、資格認定証などを、各所に発行依頼するか問い合わせをする必要があった。そのため、以前の勤め先が解散したり、一定期間を経て記録が破棄されたりすれば、証明が困難になることもあった。また、スキルに関しては社員の自己申告制にしている会社が多く、客観的な評価にはなっていないという問題もあった。そこでLERは、教育機関や勤め先企業、認定機関が客観的に証明した内容を、ブロックチェーン技術を用いて高いセキュリティのもとで記録する。LERの所有権は個人にあり、本人が必要に応じて雇用主や就職を希望する企業に対して記録へのアクセス権を付与する仕組みとなっている。
政府だからこその効率性がある
政府がLERのインフラを主導することは、2つの側面で効果的である。第1に、異なる情報システムに記録されている情報を集約できる点である。市場には数多くのソフトウェアやアプリケーションが存在し、組織によって異なるシステムで雇用と学習に関する履歴を記録している。大学が学生の履修科目を記録するシステムと、企業が従業員の部署異動を記録するシステムは異なり、通常はそれらのシステム同士を接続してデータを集約することができない。1つの組織内においても、入社時の人事データと入社後の業績データを異なるシステムで管理するなど、複数のベンダーを利用するケースがある。LERは、教育機関や企業、研修機関がどのソフトウェア・アプリケーションを利用していても運用できるよう設計されている。
第2に、産業間で用語体系を統一できる点である。同様の経験や技能でも、業種ごと、あるいは組織ごとに異なる表現を使用していることが多々ある。米国政府は、産業間で通用する共通言語はスキルであるとして、LERには学位や職歴ごとの経験をもとに、その人がそれによって培ったと考えられるスキルを明示するようにした。産業間で共通言語を用いると、業種や職種を超えたリスキリングが円滑に進みやすくなる。これまで、個人が歩めるキャリアパスは学歴と職歴によって方向づけられていたが、LERは「スキル」をもとに、その人が進める可能性のあるキャリアパスを示す。したがって、見合った学歴や職歴がないためにキャリア形成が阻まれていた個人にとっても、広く可能性が開けるというメリットがある。
学びからキャリアへ、スキルの「翻訳」
中間報告によれば、現在LERに関して、21の試験的プロジェクトが走っている。そのうちの1つが、IBMが進める、サイバーセキュリティ領域でのLERの活用だ。この領域の人手不足は深刻で、米国政府はブッシュ政権時代の2008年から同領域の人材育成に取り組んできたが、今も求人のうち350万件は埋まらないという。そこで、IBMは特定の大学と提携し、大学とサイバーセキュリティ領域の仕事との接続に取り組んでいる。STEM分野などで学んで関連するスキルを持つ人が、同領域でのキャリアを見つけやすくするものである。具体的な取り組みは、次のとおりだ。
1. サイバーセキュリティ教育の国家計画(National Initiative for Cybersecurity Education、以下NICE)が、サイバーセキュリティ領域で必要なスキル、知識と能力を定義した枠組みがあり、この領域の発展とともに、アップデートを重ねている。IBMの試験的プログラムは、個人が大学と大学外で習得したプログラミングや統計などのスキルをNICEの枠組みに置き換えてLERに記録する。
2. この試験的プロジェクトのために構築された ❝Myhub Career Pathways❞というキャリアガイダンスのプラットフォームでは、NICEの枠組みにある程度当てはまる人が仕事を探す際、アルゴリズムによってキャリアの選択肢としてサイバーセキュリティ職種を提案する。個人は、自身がすでに保有しているどのスキルが同領域で活かされ、どのスキルを今から身につける必要があるのか、それはどのコースを受講すると獲得できるのか、が分かる。
3. 必要なスキルをすべて習得した後は、自身のLERを匿名でIBMが運営するブロックチェーンのプラットフォームに公開し、企業からのアプローチを待つ。その人の持つスキルに魅力を感じる企業は、求人に応募するよう働きかける。
ほかには、小売り大手のWalmartによる試験的プロジェクトがある。同社は毎年、従業員の20万人以上を昇進させる。昇進の判断には、社員のスキルや業績を記録していくシステムが不可欠なため、大学とWalmart、そして同社が利用する採用システムのベンダーでスキル情報をシームレスに共有できる設計とした。Walmartは2020年末までに、175の職種で必要なスキルの棚卸しを完了すると発表した。
以上の取り組みが示すとおり、採用や昇進・昇格、そしてリスキリングにおいては、適切に定義されたスキルが記録されていることが重要である。中間報告でLERは技術的に可能であることが確認できたため、米国政府は今後この取り組みを全業種・職種に拡大し、企業にLERの導入を促進していくと考えられる。
日本でもスキルと経験の共通言語化は必須になる
日本では、企業間でスキルの共通言語を持つことは、これまで必ずしも歓迎されるものではなかった。企業は独自の強みや大事にする文化を強調することで、競合と差別化を図り、従業員のロイヤルティを高めることができる。それを反映して、社内でしか通用しない用語が企業の中には多数存在する。企業の特徴に合うように、導入するソフトウェアを自社向けにカスタマイズすることも一般的だろう。
しかし、テクノロジーの進歩によって、なくなったり生まれたりする職業が無数に出現する現代においては、企業間、さらには産業間でスキルに関する共通言語を持つことに意義がある。その理由は第1に、既存事業とは異なる事業領域に参入するケースが多数あることである。Works Report「リスキリング ~デジタル時代の人材戦略~」で紹介した富士フイルムは、写真フィルム事業から化粧品事業に戦略転換した。こういった場合に、スキルと経験を標準化した用語体系で一元管理していれば、写真フィルム事業に従事している従業員を化粧品事業で必要な職種へとリスキリングしやすい。第2に、日本でも雇用の流動化が進んでいることである。就業者のうち7人に1人が転職経験を持つようになっており、そのうち47.5%の人の賃金が転職後に下がっている(リクルートワークス研究所「全国就業実態パネル調査」2020)。これに対する原因はいくつかあると考えられるが、過去のスキルや経験を示す方法が一元化されていないことで、転職先企業で適切に評価されていない可能性がある。
日本経済団体連合会は、2030年に向けた提言「。新成長戦略」の中で、個人の学習履歴をデータ化し、企業が採用や処遇、評価においてそのデータを活用することを薦めている。どの業種・職種にも通じ、個人が所有できるLERのような仕組みが整えば、人材不足の職種や今後生まれる職種に就ける人の母集団が拡大する。政府と経済界、教育界が協働して、リスキリングのインフラ整備に取り組むことを期待したい。
(執筆:石川ルチア)
※参考資料
American Workforce Policy Advisory Board Digital Infrastructure Working Group, “Learning and Employment Records: Progress and the path forward,” September, 2020.