フランスで「リスキリング」の全面導入が急がれる理由
リスキリングの認知度は低い
能力開発の領域で進んでいるフランスでも「リスキリング(Re-skilling)」という用語は、まだ広く知られていない。その理由の1つは、公共性の高い分野でのフランス語の使用を義務付ける法律(※1)の存在がある。「リスキリング」をフランス語に訳すと、広義の「生涯教育」や「リカレント教育」、または「職業訓練」と混同されてしまうことから、正しい定義が広まっていない。「リスキリング」という言葉を知っている、また利用しているのは一部のデジタル・トランスフォーメーション(DX)が進む企業のHRなどに限られ、一般の認知度はまだ低い。
新型コロナウィルス感染症のパンデミックによって、フランスでもDXで業務の自動化が一気に進んだ。AIツールは企業内に浸透しており、市場が求めるデジタル・スキルはすさまじい勢いで変化している。CAC40(※2)のCEOの40%は「自社がDX変革に対応できなければ10年後には経済的に存続できなくなる(※3)」と考えており、デジタル化やAIの台頭が企業経営に与える影響はとても大きい。しかし、企業でDXを推進するのに必要なスキルを持つ優秀な人材の採用は簡単ではなく、もはや外部から人材を調達するだけでは不十分であることにも気づきつつある。
80%の企業が採用の困難に直面
アマゾン・ウェブ・サービス(AWS)とGallup社が2022年に実施したAWS Global Digital Skills Study調査(※4)では、フランスの労働者が的確なデジタル・スキルを取得することで、GDPを年間約390億ドル押し上げる可能性があると推測している。しかし、同時に、調査に参加した仏企業355社の80%が「こうした人材の採用が困難である」とし、さらには、40%がそれは「フランスに優秀なデジタル人材が慢性的に不足している」からだと回答している。企業のDXへの投資の状況を見ると、デジタル先進企業の71%が過去2年間に革新的なデジタル・ソリューションやサービスを開始している、一方、デジタル化が進んでいない企業は半数弱の47%という結果だった。デジタル化への取り組みに企業間で大きなギャップがあることを示している。
フランスの労働者が、自身のキャリア向上のためのデジタル・スキル習得に関心がないわけではない。同調査では、ベーシックなデジタル・スキルのみを持つ従業員の56%が「このまま同じ分野で働き続けられるかどうか不安に感じている」とし、70%が「新たなスキルの習得に関心がある」と回答している。また、過去1年間に何かしらのデジタル・スキルを学んだ従業員の97%が「自身のキャリアに利点があった」と回答している。また報酬面では、専門的なデジタル・スキルを持つ人材の年収は、そうでない従業員よりも1万2575ユーロ高いという結果もあり、スキルの向上は従業員のモチベーションを上げる大きな要素になりえる。
スキルの需要と供給のギャップ
2014年にパリで創設されたEラーニングの大手360Learningによる、2023年のフランスのリスキリング状況に関する調査(※5)では、企業が従業員に対して求めている能力やスキルと、実際に従業員が持っているそれとが異なる「スキルギャップ」の現象が顕著であると報告している。一方、AIツールなどの急激な技術進歩によって、昨日学んだスキルが今日使えなくなるなど、スキルの短命化が叫ばれる昨今、従業員は常にスキルの更新を求められるようになった。しかし、現在のフランスでは、専門的スキルを持つ人材への需要が、採用可能な人材プールの供給をはるかに上回っており、企業の現在のニーズと個人のスキルの間に大きなギャップがあることが問題視されている。
図表 人材プールに対する人事担当の感触
意欲的なリスキリングの成功事例
フランスのリスキリングは民間企業が主体となって進められているが、ここでは意欲的なリスキリングの取り組みについて3社の事例を紹介したい。
フランス通信大手のオレンジでは、データアナリストやデータエンジニアといった需要と付加価値が高い職種への従業員の人事異動を目的にOrange Campus Data-IAを立ち上げている。デジタル技術に特化した社員研修のData Scientestとのコラボレーションで、全従業員14万人を対象にした、価値の高い育成プログラムを提供している。オレンジでは特にIT業務における女性従業員の比率向上に努めており、育成プログラムのデータアナリスト・コースでは女性の比率を40%にまで高めることに成功した。また、Orange Campus Data &IA立ち上げから2年間で、データサイエンティストなどのデータ業種に異動する女性従業員数は33%増加している。
7万9000人以上の従業員を擁する航空宇宙・防衛技術大手のサフランでは、知識の取得と伝達を企業文化の重要な一部とし、新しいスキルの習得と伝達を目的としたSafran Universityを2014年に設立している。2020年からはEラーニング大手の360Learningの協力を得て、ブランデッド・ラーニングを導入し、わずか1年で5000の育成プログラムを構築、4万人以上のアクティブユーザーを獲得して、計13万6000時間のデジタルトレーニングの受講を達成している。育成プログラムにおける従業員同士のコラボレーションは、知識を共同で創造し、共有することに成功しているが、特筆すべきは、これまでの中央集権的な企業構造から分散型の構造に移行するなど、リスキリングの取り組みが予想以上に多くの利点を組織にもたらしていることである。
リテールのZadig&Voltaireでは、モバイルでアクセス可能なプラットフォームを通じて、世界中にいる2000人の従業員のリスキリングに取り組んでいる。P2P型の交流やトレーニングの参加が促進され、よりインタラクティブな体験が可能になっている。Zadig&Voltaireの従業員は若手が多く、SNS的な育成プログラムを開発することで、従業員参加型の活発な学習コミュニティの形成に成功し、エンゲージメントの向上とスキル開発を同時に実現させている。
公共職安とタッグを組んで失業者へのリスキリング
次に、政府による公的な取り組みを紹介したい。最近の、デジタル人材の枯渇と高い失業率という2つの問題に同時に対応し、失業者のスキルと企業の特定のニーズとのギャップを埋めることを目的にした政策である。フランス・トラヴァイユ(公共職安)による「POEI(雇用のための個人的な運営準備)」がある。これは、企業の採用ニーズに応える形で設計された、失業者が再就職に役立つ、特にIT・デジタル分野における特定のスキルを取得するための訓練への援助制度である。具体的には、デジタル人材を探す企業がフランス・トラヴァイユに雇用条件とニーズを伝え、オーダーメイド・スキームでPOEIを立ち上げるパターンと、職安もしくは求職者側から企業に働きかけPOEIを構築するパターンの2つの方法があり、両者からイニシアチブがとれる仕組みとなっている。
POEIの条件は、求職者がフランス・トラヴァイユなどの組織に登録していることと、雇用主にはCDI(無期労働契約)もしくはCDD(12カ月以上の有期労働契約)、無期限の職業訓練契約などの提供が義務付けられる。求職者の研修は採用前でも可能であり、採用後の場合は仕事と研修を組み合わせることになる。研修時間は最大400時間である。この資金はフランス・トラヴァイユやOPCO(※6)、地域圏などが提供する。POEIの訓練コースで人気が高いのはやはりITとデジタル分野であるが、領域に特化した研修機関であるM2iなどが研修の受け入れ先である。最近のPOEIは、サイバーセキュリティー、プログラミング、クラウドなどの分野で需要が多いようだ。
(※1)1994年にフランス語の使用に関する法律、通称「トゥーボン法」が成立し、フランス語を保護する目的で、英語をはじめとする外来語の公共の場での使用が禁止された。これは、ラジオ・テレビ番組、新聞、レストランのメニューなどあらゆる場面でフランス語の使用を義務付けるものである。会社内の文書やコミュニケーションも同様で、Eメールを「クリエル・エレクトリック(デジタル書簡)」と言い換え、英語文書はフランス語に訳して従業員に配布するなどの配慮がなされている
(※2)株式市場におけるフランスの主要株価指数
(※3)フランスのシンクタンク、Institut Sapiensによる見解
(※4)https://assets.aboutamazon.com/dd/e4/12d668964f58a1f83efb7ead4794/aws-gallup-global-digital-skills-study-report.pdf
(※5)https://360learning.com/fr/guide/montee-en-competences-et-requalification-rapport-2023/introduction/
(※6) OPCO (Opérateurs de compétences )は職業訓練の資金調達機関である。職業訓練改革の一環として、旧OPCA(Organismes Paritaires Collecteurs Agréés)に代わって2019年に導入された。その役割は、企業、特に中小企業に対し、職業訓練を通じて従業員と求職者の能力開発を支援することである
TEXT=田中美紀(客員研究員)