「現状維持が安心」を変える政策がキャリア自律には必要だ
社会を支える、3つのピース
人の生活の最も重要な基盤は「働くこと」である。しかし、それのみで社会がうまく回るわけではなく、家族や組合などを通じた私的な助け合いや、社会政策(社会保障、社会福祉、教育、住宅支援など)が、働けない、働いても十分な収入を得られない場合の生活を支えている。つまり、働くこと、私的な助け合い、社会政策の3つのピースがうまくかみ合うことで、社会は安定して続いていく。
問題が生じやすいのは、「働くこと」が大きく変わるときだ。このピースが大きく変わっているにもかかわらず、社会政策が旧来の形に留まれば、生活が不安定になる人が増加したり、そのリスクを避けるために、旧来の働き方にしがみつく行動が生じかねない。
日本は、まさにこれから「働くこと」が大きく変わろうとするタイミングにある。グローバルな競争の激化やテクノロジーの進化により、企業が正社員など組織の長期的なメンバーの比率を引き下げ、事業に必要な知識・経験を持つプロフェッショナルを、その都度労働市場から調達する動きが拡大すると予想されている。個人の側も、組織の枠を越えたり、雇用と自営の間を行き来したりしながら、自律的にキャリアを切り拓く必要に迫られる人が増えそうだ。このような変化を前に、社会政策は個人の多様なキャリアの選択を支える、言うならばキャリア自律に「やさしい」設計になっているのだろうか。
キャリア自律に「やさしくない」日本の社会政策
結論を先に述べるなら、日本の社会政策はキャリア自律に対して、「やさしい」設計とは言えない。なぜなら、日本の社会政策は、世帯主が1つの組織で長く働き続け、賃金に家族の生計費が含まれる正社員モデルを前提としており、このモデルに当てはまらない個人や家族の生活を支える機能が弱いためだ。
その典型例として、子育て世帯への経済支援の柱である児童手当を取り上げよう。日本では児童手当の検討が開始されたのは1960年代であるが、家族の生計費を考慮した賃金制度があるなどとして、導入への反対論が根強くあり、実際に制度が始まったのは1972年、それも多子世帯の貧困対策としての性格を強く持つ内容でのスタートであった※1。さらに1970年代半ばには、年功賃金の存在などを根拠に「制度廃止も視野に入れた」議論が始まり、給付総額の絞り込みにも関わる見直しが繰り返されてきた※2。2000年代以降の児童手当は、少子化対策の一環としての性格を強め、支給対象や支給額が拡充されているものの、家族に対する現金給付にかかわる政策支出の規模は、OECD平均でGDP比1.2%に対し、日本は同0.8%と「小ぶり」である(図表1 左側)。
日本型雇用を前提とした、ミニマムな教育・住宅支援
これに近い状況は、教育や住宅政策の領域でも生じてきた。例えば、教育の領域では、年功賃金の存在や「子どもの教育は親の責任」という考えから、親の教育費の負担が重い状況が維持されてきた。また、住宅政策の領域では、企業から安定した賃金を得る中間層を念頭に置いた持家取得推進策が柱になってきたことから、いざというときの住まいを保障する公営住宅の建設や公的な住宅手当にかかわる政策には、重要な役割がおかれてこなかった※3。
実際、図表1(右側)に示すように、日本の住宅手当・住宅補助政策への公的支出規模はOECD平均(GDP比0.3%)の3分の1程度である。また、図表2に示すように、日本の公立大学の年間授業料は約5,200ドルであり、金額の高さではOECD加盟国の先頭集団にいる。
図表1 家族への現金給付、住宅手当・住宅補助政策への公的支出規模
図表2 公立大学の年間授業料の国際比較
独立・起業した人への能力開発やセーフティネットが手薄
もう1つの例として、自営業者やフリーランスなど、独立・起業した人の学び直しや、事業に失敗した時の再起を支える政策が弱いことが挙げられる。
まず自営業者やフリーランスは、雇用保険の対象ではなく、国の教育訓練給付制度(一定の要件を満たす雇用保険の被保険者や元被保険者が、厚生労働省が指定する講座を受講し、修了した場合に給付金を支給する制度)を利用することはできない。教育訓練給付制度については、従来から存在した一般教育訓練給付に加え、専門性の高い講座の受講者を対象とする専門実践教育訓練給付の創設(2014年)、妊娠・出産などで離職した人の受給要件の大幅な緩和(2018)※4など、学び直しの促進を意図した制度拡充が近年行われてきた半面、自営業者やフリーランスが働きながら学び直しを行うための公的支援の整備は遅れたままである。
また失業時の所得保障についても、独立・起業した人は雇用保険の対象でないことに加えて、日本には欧州諸国で設けられている失業扶助(失業保険と生活保護の間にある制度で、求職活動や就労支援プログラムへの参加などを条件に、失業し生活が困窮する人に税財源で所得保障を行う制度)※5が存在しないため、事業に失敗したときに生活困窮に至るリスクは、先進国の中では相対的に大きい状況にある※6。
助け合いと社会政策の充実の組み合わせで、キャリア自律を支えていくという針路
これらの状況は、所得変動リスクを伴う転職や独立・起業のハードルを上げている。これらに挑戦して失敗した際の影響は、家族の生活や子どもの教育にまで影響しかねない。そのため、仕事や職場に多少の不満や不安があっても、現状にとどまる方が短期的には安心だからだ。
すでに政府は、内部労働市場における雇用維持を重視した労働政策から、個人の主体的なキャリア選択を支えるための労働政策への転換を図っており、中高年者の転職支援やリカレント教育支援の充実を行っている。また、子育て支援の充実や格差の固定化の防止の観点から、幼児教育や高等教育の無償化を推進する方針を示している 。しかし、個人がより柔軟にキャリアを選択できるようにするためには、転職や独立・起業などの挑戦よりも「現状にとどまるほうが安心」な状況を変える施策を、より明示的に打ち出すことが必要である。
問題は日本の厳しい財政事情から、社会政策を幅広く拡充し、個人の挑戦を支えていく余裕はないことだ※7。そこで次の策として、家族の中で転職や独立・起業などの挑戦を支え合えるよう、より本格的な共働きモデルへの転換を進めていくこと、そのうえで、転職や独立・起業、本格的な学び直しなどの挑戦をしにくい人に集中して、公的な支援を充実することが重要だろう。
具体的には、大都市圏を中心とした待機児童の解消を進めるほか、女性の就労に中立的でない社会保険制度の更なる見直しを急ぐこと※8、子育てなどで離職した女性のキャリア支援や能力開発支援を充実することが考えられる。また、長時間労働が働きながらの学び直し、女性の出産後の就業継続やキャリア形成、男性の家事・育児への参画を難しくしていることを踏まえ、働き方改革を今一歩進めるためにも、法定時間外労働に対する社会保険料を引き上げることなども考えられるのではないか。
そのうえで、一人親や単身者など、家族で所得変動リスクを支え合うことが難しい人を中心に、子どもの養育や住宅支援など、生活の安定にかかわる社会政策を充実させ、転職や独立・起業などに挑戦しやすくしていくことが必要だろう。また、独立・起業した人を包摂する能力開発支援政策や公的なセーフティネット整備の可能性についても検討していくべきであろう※9。
※1 導入当初の児童手当は、18歳以下の子どもが3人以上おり、所得制限を満たす世帯を対象に、義務教育修了前の第3子以降に支給するという、多子世帯の貧困対策としての性格が強いものであった。
※2 1970年代半ばには財政制度審議会などで、企業の年功賃金や税制上の扶養控除により子育て費用がカバーされているとして制度見直しの必要が強調され、1978年からは物価上昇にもかかわらず、所得制限の水準据え置きが行われたほか、1982年からは所得制限が強化されるなど、支給総額を絞り込むための見直しが繰り返された。
※3 平山(2009)によれば、公営住宅の建設戸数は1970年代がピークであり、以後は一貫して減少基調にある。また、所得制限のもとに行われる住宅手当(日本の場合は住宅確保給付金)は対象が限定され、リーマンショックの影響で支給決定件数が膨らんだ2010年でも5.5万件(全世帯の0.1%)と規模がかなり小さい(平山洋介(2009)「住宅政策のどこが問題化-<持家社会>の次を展望する」光文社)。
※4 2017年12月までは、離職日の翌日から1年以内に、妊娠や出産などで引き続き30日以上教育訓練の受講開始ができない場合、公共職業訓練所に申請すれば、教育訓練給付金の対象期間を最大4年延長可能であったが、2018年1月以降は、この延長可能期間が最大20年へと延長された。
※5 欧州では、保険財源に基づく失業手当の他に、就労可能な生活困窮者に税財源で所得保障を行う失業扶助に該当する制度を設ける国が多い。ただし、各国はモラルハザードを防ぐ観点から、受給者が履行すべき義務の強化や給付期間・給付額の削減など、労働市場の早期復帰を促す改革を進めてきている。
※6 政府は「経済財政運営と改革の基本方針2018」(平成30年6月15日閣議決定)や「人づくり革命 基本構想」(平成30年6月13日人生100年時代構想会議決定)において、幼児教育の無償化、高等教育の無償化、リカレント教育の推進を打ち出している。
※7 例えば、住宅手当・住宅補助政策への公的支出規模をGDP比0.1%から同0.3%(OECD平均)に引き上げるためには1兆円規模の公的支出が必要になる。
※8 社会保険の被扶養配偶者制度は、厚生年金や健康保険の被保険者の配偶者の収入や労働時間が一定の範囲内の場合に、被扶養配偶者として保険料の負担なく保険給付を受けられる制度で、制度適用範囲を超えて女性が働くと、手取り収入が一旦大幅に低下する。このため、女性が働く時間の調整をする行動(就業調整)を招いていると指摘される。
※9 現状では小規模企業の経営者やフリーランスが、廃業や退職時のために積み立てる小規模企業共済制度があるので、当面の対応としては、この制度の周知を行うことも重要である。
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