さらなる「賃上げ」に向けた3つの推進政策
「100年キャリア時代」における賃上げ
「人生100年キャリア」モデルにおいて、企業から個人へ賃金という形での分配は、個人の成果に対する還元だけでなく、人生100年を生き抜き、生計を立てるうえでも重要である。しかし現実を見ると、足元では景況感が回復し人手不足基調のなかで、賃上げがなぜ弱いのかといった議論が続けられている。人手不足で経済の需給関係からいえば賃金が上がりやすい環境であるにもかかわらず、賃金が上がらない理由として、非正規雇用や賃金の相対的に低い業種での労働需要が増えていることなどが挙げられており、賃金による還元を進めていくためにも政策的な後押しが重要であろう。
以下では経済環境を振り返ったうえで、どのような政策的後押しが重要であるかを考えていきたい。
労働分配率は世界的に見ても低下傾向
労働者への賃金の分配を見る指標として労働分配率がある。これは人件費を付加価値で割ったものであるが、日米欧の労働分配率を見ても日本は、2000年の約73%から多少の変動はあるが低下傾向にあり、2015年は約68%までに落ちている。財務省「法人企業統計」によると、2017年4~6月期の労働分配率は資本金10億円以上の大企業では43.5%と、約46年ぶりの低水準となっている。労働分配率の低下傾向は世界的に見る状況である。
世界的な労働分配率低下の背景にはいくつかの理由が考えられる。第1にグローバル化による生産拠点の移転や安価な製品の輸入拡大がある。特に日本において、労働力は付加価値を生む源泉ではなく、削減すべきコストととらえる傾向が強く、グローバル競争が激化するなかで、賃金を圧縮する力が働いている。第2に、テクノロジーの進展により、定型的な業務が機械やITに代替されるようになり、いわゆる中間層の雇用が失われていることが考えられる。第3に、コーポレートガバナンスの変化である。これまでのメインバンク制から株式調達に代わり、株主利益の最大化を求める資本市場の圧力から、労働コスト削減に取り組むようになった。著者の過去の研究(「なぜ賃金は抑制されたのか」)によって日本においても株式調達をしている企業ほど労働分配率を下げていることが確認されている。
ほかにも要因はあるがこれらは不可避の現象であり、労働分配率を低下させる要因を取り除くことは現実的ではない。このような状況のなかで労働分配率を低下させないように、賃上げに向けた環境整備として3つ挙げたい。
生産性向上が中小企業にとって最善の打ち手
第1に、生産性を引き上げることが企業の賃上げを引き上げる余地を生み出すことになる。ただし、設備投資による生産性向上のみでは人間の仕事を機械に代替させることにつながるため雇用を失い賃金を低下させることにもなりかねないが、あわせて付加価値を生み出す人材を活用することが賃金引き上げを促す生産性向上へとつながるものと考える。その意味でも、生産性向上の推進は中小企業において特に考えるべきだ。中小企業においては、IT投資などがそれほどなされておらず生産性の向上の余地が大きくある。現に中小企業においてIT投資を積極的に行っている企業では労働生産性が高く、賃金も高いという傾向が見られる。その意味でも中小企業に対してはIT投資を積極的に行うように税制優遇をするとともに、人手不足のなかでも使いやすいツール開発が、賃上げにつながる可能性がある。このように「急がば回れ」の政策を行うことには、低迷する日本企業の生産性を上げ、賃上げにつながる突破口となる可能性が十分ある。
図表2 労働生産性の高い中小企業の特徴(平均値、例:小売業)
最低賃金引き上げも人手不足期に行うと悪影響を回避できる
第2に、最低賃金の大幅な引き上げも現時点では悪影響が少なく賃金の下支えに効果的である。現政権の政策として最低賃金を毎年3%ずつ引き上げ、全国平均で1000円を目指しているがこの点に触れておこう。最低賃金の引き上げに関しては、これまでの研究では雇用を減らすことにつながり、貧困に陥っている人を救うことにはならないという結論である。しかし、これらは1990~2000年代の景況感が悪かった時期におけるデータの結論である。
著者の研究によると、人手不足に陥った2013年以降は、最低賃金も上がっているが、人手不足によりアルバイト・パートの募集時時給も上がっているため、最低賃金が上がってもアルバイト・パートの求人件数減少につながっていない。OECDの統計により、かつては日本における最低賃金の低さが指摘されただけでなく、最低賃金と生活保護費の逆転現象が指摘されたこともある。最低賃金による影響は厳密な検証がさらに求められるところだが、現状のような人手不足が続く限り、最低賃金の引き上げによる雇用への悪影響は限定的であり、最低賃金を引き上げていくことは、100年キャリア時代を生き抜くための最低限の賃金の分配を確保する点ということからも必要であろう。
政労使の賃金協議による下支え
第3に、政労使の賃金協議についても賃金下支えの効果がある。安倍政権は毎年経済界に賃上げを要請しており、「官製相場」と揶揄される。しかし、こうした取り組みは労働分配率の構造的な低下に対して一定の効果があると筆者は考えるし、過去には政労使の協議によって難局を乗り越えた経緯もある。
その代表例が、「生産性基準原理」である。1970年代のオイルショックの頃、GDP成長率が低下し始めているにもかかわらず昇給率が10%を超えており、昇給をいかに抑えるかが課題となっていた。この状況下で、経営者側から「インフレを抑制し経済に安定化をもたらすためには、昇給を生産性上昇に見合ったものにするべきだ」という意見が出た。これを生産性基準原理と呼び、この観点から労使が協議を開始したが決着はつかなかったため、結局は政府も協議に参画し、政労使で生産性基準原理に従って昇給することに決着した。
この例は、政労使による協議により大きな課題を解決できることを示唆しているが、生産性基準原理のポイントは、どの程度までの賃上げであれば許すのかといった基準を明確にして議論した点だ。その意味では賃金を引き上げることについてもどこまで許容されるかという点も議論できると考える。労働分配率低下の構造的要因に対して、根治できないとしても一定程度解決の道筋をつけるためには、労使自治が前提となっている賃金協議のなかでも政府を巻き込んだ政労使の協議を進めていくことも一案だろう。
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