30代で所得が増えた人はなぜ増えたのか 古屋星斗
所得の状況が変わり始めている。
実質賃金は物価高の影響が大きく増加基調には至っていないが、名目賃金(現金給与総額)は2023年に入って前年同月比で0.6~2.9%のプラス(※1)となっており、すでに2024年の賃上げ幅を明言する企業・経営者が出る(※2)、初任給は2023年度に全学歴で30年ぶりに前年度から2%超の増額となる(※3)など、賃金をめぐる動きが活発化しているのは間違いない。
背景には構造的な人手不足(労働供給制約)があると筆者は指摘してきた(※4)。今後も労働供給制約により、名目賃金は継続的に上がるのではないかというのが筆者の仮説だが、その分析を進めていくにあたって、まず賃金の状況を把握することが重要である。直近の個々人の賃金、所得がどのようなメカニズムで上がっているのかを検討することで、ポイントや課題を明らかにしたい。
用いるデータは、リクルートワークス研究所、全国就業実態パネル調査である。2016年調査と2023年調査の結果を用いて、この両調査に回答した者を分析することで、個人の賃金変化・賃金上昇がどのような構造で起こっているのかを検討する。ただし年代によってその構造はさまざまであることが推察されるため、特にこの7年間の変化を分析するにあたり、年代別で最も変化量が大きかった2023年調査の回答時点で30歳代の者に焦点を当てて、分析を行った。また、就業形態での違いも大きいと考えられるために対象を両時点共に正規の職員・従業員の者に限定した。この結果、サンプルサイズは1061である。
両時点での単純集計の合計所得(※5)は、全年代合計では2016年調査で501.7万円、2023年調査で562.6万円であった。これを30歳代に絞ると、2016年調査で368.3万円、2023年調査では487.7万円であった(※6)。
性別、従業員規模、退職経験、学歴
まず、個人属性に応じた総所得増加額の違いを見ていこう(図表1)。あらためて述べるが分析対象は、2016年調査と2023年調査で共に正規社員であった回答者である。
さて、性別では男性が145.9万円増加している一方で、女性は85.3万円の増加にとどまっている(増加幅は71%男性が大きい)。男女賃金格差は国際的にも主要な論点であり、わが国において特に懸念されるポイントだが、若年層でもその差がひらく形で継続しているとすれば極めて大きな問題と言わざるを得ない。ライフイベントに対する対応の違いなどで担う職務の違いが生じている可能性などがあり、今後は育児・介護休業法に代表される制度面の整備だけでない、制度の活用に向けた議論が必要な局面に入ったといえよう。
従業員規模では(※7)、2016年調査時点で規模が大きな企業に在籍していた回答者ほど、総所得増加額が大きい結果となった。ただ、300人未満と300~999人では大きな差は生じていなかった(増加幅の差は約16%)。日本では大手企業ほど賃金水準が高く、増加率も高い(※8)ことが知られ、意外な結果ではないだろう。
退職経験別に見ると、2016年調査から2023年調査の間に退職回数が少なかった回答者の方が総所得の上がり幅が大きい。内部労働市場で昇格・昇給を積み重ねることが、総所得の増加を最大化する基本戦略というのが直近の若手社会人でも見られる結果だ。しかし、「退職せず」と「1回」で、賃金上昇額の差は19%であり、退職にはさまざまな理由があること(※9)、つまり所得を上げることが第一の目的でない(人間関係などストレスが高い職場を離脱する目的など)転職者が一定数いることを鑑みれば、こうした結果は転職者が“所得面で妥協している”ことの論拠にはならないだろう。なお、外部労働市場において賃金が大幅に上がる転職者が増加していることも報告(※10)されており、直近の状況は流動化しているのかもしれない。外部労働市場を使って、賃金を上げるという職業選択上の方策は、労働供給制約社会を迎え慢性的な売り手市場となるなかで、個人が身につけるキャリア戦略として重要性は高まっていくだろう。
学歴については、大卒未満(※11)で92.2万円増、大卒以上(※12)で149.4万円増であった(増加幅は62%大卒以上が大きい)。善悪は別として、これも予想外の結果ではないだろう。ただ、学歴の違いとして学校卒業時点で就業者としての潜在力を固定化させてしまうのではなく、リスキリングや学び直しなど教育投資によって、学歴など問わず、育てていかねば企業の人的資本経営は立ち行かないことは言わずもがなである。
図表1 個人属性と総所得増加額(30歳代・正規社員、2016年調査→2023年調査)
労働時間の長さや有休取得率は無関係、所得増加につながるのは仕事の外側の要素
図表2には2016年調査時点の仕事の状況別に総所得増加額を分析した結果を示している。
有給休暇の取得状況別には、過去の有休取得率と総所得増加額に、“取得率が高まると増加額が大きく・小さくなる”といった関係はなく、両者は独立した変数であると考えられる。つまり、休めば休むほど所得が上がりにくい、といったことはない。
同様に、週平均総労働時間と総所得増加額の間に(※13)も明確な関係はない。増加額が大きい順に「40時間未満」「40時間以上45時間未満」、次いで「50時間以上55時間未満」となっており、線形の関係は見いだせない(※14)。
他方で、仕事の外側の要素では一定の関係が見られた。例えば、副業を2016年調査から2023年調査までの間に開始した(「新たに始めた」)回答者と、両時点で実施していなかった(「未実施」)回答者では、総所得増加額が前者で201.3万円、後者で119.5万円と、実に68%も「新たに始めた」回答者の増加額が大きい(※15)。副業は経済的目的で行う者が最も多いことも指摘されており、やはり経済的恩恵が大きいことが確認された。
また、自己啓発活動を2016年調査時点で行っていたかどうかでは、「行っていた」回答者が144.4万円増に対して、「行っていなかった」回答者では114.6万円増だった(前者の増加幅が26%大きい)。巷間、社会人の学びの価値などについて議論も見られるが、若手社会人の総所得増加額という観点では一定の影響が見られるといえよう。
小括すれば、年次有給休暇の取得状況や労働時間の長短という仕事に関係する要素というよりは、仕事の外側でさまざまな活動をすることに総所得増加額上昇のポイントがあるようだ。
図表2 過去の仕事の状況と総所得増加額(30歳代、2016年調査→2023年調査)
企業内の育成機会
企業内の育成機会が、若手のその後の所得にどう影響したかも見ておこう。ここでは2016年調査のOJTとOff-JT(業務を離れた教育・訓練機会)が、総所得増加額とどう関係しているかを集計した(図表3)。
OJTに関しては、「新しい知識や技術を習得する機会は全くなかった」(111.9万円)が最も低く、「上司や先輩等から指導を受けてはいないが、マニュアルを参考にして学んだ」(112.3万円)が次に低かった。関係性としてはやや明確でないが、OJT機会がなかった回答者の増加額が小さい。
他方、Off-JTについては明確に、機会があるほど、特にその機会の時間が長くなるほどに総所得増加額が大きい傾向にある。
図表3 過去の企業内育成機会と総所得増加額(30歳代、2016年調査→2023年調査)
何が所得増に効くか
最後に、こうした結果の全体像を簡単な重回帰分析によって示す。被説明変数を総所得増加額とした重回帰分析である。上記で集計した変数を説明変数として投入し分析した(※16)(図表4)。分析結果からは以下の4点がわかる。
- 大卒以上ダミー・大企業ダミーは0.1%水準でプラスであるように、一般的に考えられているような学歴がより高い層や大企業在籍者の方が所得が高まりやすいという状況は存在している。
- 退職経験ダミーは1%水準でマイナス。退職経験は傾向としては総所得の増加に負の影響を与えている。
- 学習活動実施数は1%水準で、副業開始ダミーは0.1%水準でプラス。係数を見ると、副業開始はインパクトが非常に大きく、学歴や企業規模によるインパクトを超えていることがわかる。また、学習活動実施数は自己啓発的な活動を行った種類の数だが、係数を見ると学習活動実施数3つで退職経験によるマイナス分をリカバーできるインパクトがある。自分で可能な人的資本の蓄積という点で、学習活動実施などに一定の所得増進効果がある可能性が示されたことに、ポイントがあるだろう。
- OJT受講ダミーは有意ではない、Off-JT受講時間は5%水準でプラス。この結果は、企業による業務をはずれた教育訓練が若手の総所得向上につながっていることを示しているが、OJTには所得増の効果が乏しい。OJTが企業内特殊技能寄りの教育訓練、Off-JTは一般的技能寄りの教育訓練と理解するならば、一般的スキル寄りの機会が総所得増加額には効果があることとなり、ポータブルスキルが高い方が転職市場でも評価されやすい、といった肌感覚と整合的と解釈できる。
図表4 総所得増加額を被説明変数とする重回帰分析結果(概要)
注:有意水準は***:0.1%水準 **:1%水準 *:5%水準
いずれにせよ、所得は重要な問題である。「所得をどう上げるか」を政府も企業も考えているし、個人も考えている(それぞれ別の観点からだが目標は一緒だろう)。しかし、個人でできることと、個人でできないことがあることも事実で、上記図表4の分析では、学習活動実施や副業開始などは個人で可能な所得増進策だが、OJTやOff-JTは企業の教育訓練投資への姿勢や人事制度、職場体制にもよる。さらには、在籍企業規模や学歴などは容易には個人では変えることができない(理不尽な差を生んでいる性別というファクターもある)。個人でどうしようもない部分の差をどう考え、解消が必要であればどう手を打っていくのか。その論点が解消したとき、所得増に向けて個人が存分に力を尽くす環境が整うだろう。
(※1)厚生労働省,毎月勤労統計調査
(※2)サントリーホールディングス、松屋フーズホールディングスなど
(※3)産労総合研究所, 2023年度 決定初任給調査
(※4)日本は「令和の転換点」を越えたか https://www.works-i.com/column/hataraku-ronten/detail028.html
(※5)主な仕事からのボーナス等を加えた年収に加えて、副業や仕事以外からの年収を加えた1年間の合計収入である
(※6)それぞれについてウェイトバックを行った集計結果(xa16,xa23)
(※7)従業員規模での集計のみ「公務」回答者を除外した
(※8)「二重構造」論として指摘されてきた
(※9)離職直前の若手社会人は、離職しなかった若手と比較して、仕事の状況に大きな違和感があることがわかっている。https://www.works-i.com/column/works04/detail046.html
(※10)日本経済新聞,2023年5月13日, 転職増加、賃金の「天井」突く 3人に1人が1割以上増 などを参照
(※11)中学校、高等学校、専門学校(専修学校専門課程)、短期大学、各種学校、高等専門学校の卒業者
(※12)大学、大学院修士課程、大学院博士課程等の卒業者
(※13)「昨年12月時点についていた仕事における平均的な1週間の総労働日数と総労働時間はどれくらいでしたか」と聞き、残業時間を含め、副業等の時間も含めた総労働時間の週平均値
(※14)なお同条件での相関係数は-.02であった。無相関であるといえよう
(※15)なお、この他に「2016年調査時点では副業をしていたが、2023年調査ではしていなかった」回答者、及び「両時点で副業を実施していた」回答者が存在するが、サンプルサイズが少数のため除外した
(※16)統制変数として、2016年調査時総所得を投入している。同様に、労働時間(2023年調査時点)は2023年調査時総所得の多寡に直接影響するため統制変数として投入した。他、性別(女性ダミー)、年齢を統制変数とした。決定係数は.31であった
(※17)2016年調査から2023年調査までの間に退職を1回以上経験していた者を1とするダミー変数
(※18)自己啓発活動についてその具体的な内容を聞いた設問に対し、複数回答を得た合計数。選択肢は、「学校に通った」「単発の講座、セミナー、勉強会に参加した」「通信教育を受けた」「eラーニングを受けた」「本を読んだ」「インターネットなどで調べものをした」「詳しい人に話をきいた」の7種類。最小0、最大7の変数
(※19)2016年調査から2023年調査の間に、副業を開始していた者を1とするダミー変数
(※20)2016年調査でOJT機会に関して、「一定の教育プログラムをもとに、上司や先輩等から指導を受けた」または「一定の教育プログラムにはなっていなかったが、必要に応じて上司や先輩等から指導を受けた」と回答した者を1とするダミー変数。図表3も参照
(※21)図表3の年間Off-JT時間を選択肢の中央値(50時間以上は75時間)に変換し集計したもの
※本稿は筆者の個人的な見解であり、所属する組織・研究会の見解を示すものではありません。