野中郁次郎の経営の本質

日本電信電話(NTT) 代表取締役社長 澤田 純氏

光駆動の通信システムでゲームチェンジに挑む

2022年06月10日

w172_keiei_main.jpgIOWNについて熱弁を振るった澤田氏。IOWNはInnovative Optical & Wireless Networkの略。東京・大手町のNTT本社にて。

経営においていちばん大切なことは何か。経営とは人間が行ういかなる行為なのか。これらの問いに対し、経営者はおのおの、思索と実践から紡ぎ出された持論を備えているはずだ。今回は、2019 年、インターネットの先を見すえた意欲的な構想を打ち出したNTT のトップ、澤田純氏を取り上げる。

日本電信電話(NTT) 代表取締役社長 澤田 純氏
Sawada Jun 

1955年大阪府生まれ。京都大学工学部土木工学科卒業。1978年日本電信電話公社(現NTT)入社。電柱などの設備業務を担当した後、1998年NTTアメリカ バイス・プレジデント、2000年よりNTTコミュニケーションズにて経営企画部担当部長、コンシューマ&オフィス事業部企画部長、関西支社長を経て、2008年取締役経営企画部長、2012年代表取締役副社長経営企画部長。2014年NTT代表取締役副社長、2018年6月より現職。2022年6月、代表取締役会長に就任予定。著書『パラコンシステント・ワールド—次世代通信IOWNと描く、生命とITの〈あいだ〉』(NTT出版)。

NTTが2019年に発表した「IOWN(アイオン)」構想をご存知だろうか。端末からネットワークまで、すべてに電子ならぬ光技術を使う「オールフォトニクス・ネットワーク」、さまざまな機器やネットワークを一元的に管理する「コグニティブ・ファウンデーション」、実空間の人や物をサイバー空間に再現する「デジタルツインコンピューティング」という、いずれも先進的な3つの技術から成り立つ。2021年に実証実験がスタートし、まずは2025年の日本国際博覧会(大阪・関西万博)への導入を目指す。

端的にいうと、光技術を基盤にすえた超高速大容量の通信ネットワークをつくるということだ。これが実現すると、私たちの身の回りで何が変わるのか。社長の澤田純が話す。「半導体のなかに光素材が入ることで、電力効率が現在の100倍、電送容量が同125倍にまで高められ、コンピュータの処理速度やコストが劇的に変化します。ネットワーク内での遅延もなくなり、これまでにない臨場感を伴った映像サービスが実現できます。ハード面でもソフト面でも従来とはまったく異なる形式のコンピュータがつくられることになるでしょう」

このタイミングで、なぜこのような構想を発したのか。「1つにはニーズです。これだけのデータ社会を維持するには、データセンターが莫大な電力を必要とします。現在の半導体方式では間もなく限界が来るのが確実です。2つにはゲームチェンジ。この30年間、日本はインターネットをはじめとした情報通信分野で欧米や中国の後塵を拝してきた。ここで、競争の土俵を変えたい。最後は経済安全保障。経済がうまく回ると、人々のウェルビーイング(幸福)が実現するベースになる。日本国内にそうした基盤を形成していかなければなりません」

インターネットの改良版

「インターネットはどうなるのか」という疑問をぶつけてみた。「インターネットを否定するわけではありません。インターネットの改良版がIOWNで、双方が併存することになる。インターネットはデジタルですが、IOWNは実はアナログでもありデジタルでもある。光がその両方の性質を持っているからです」 

NTTがこの構想に取り組んだきっかけは、光と電子を融合させる基礎技術の開発に成功したことだった。情報処理分野への光技術の応用は困難とされてきたが、光信号の受光で発生するわずかな電荷だけで、電気から光への転換を可能にする光トランジスタを形にしたのだ。その詳細は2019年4月、英国の科学誌に掲載された。

NTTはこれまで、1979年のINS(高度情報通信システム)構想、1994年のマルチメディア基本構想、2004年のNGN(次世代ネットワーク)構想など、いくつもの構想を打ち出してきた。それらとIOWNはどこが違うのか。「大きく3つあります。まずは通信の枠を超え、端末からネットワークまで、すべてを対象にしていること。これまでのものと比べ、コンセプトが大きく、しかも深い。次はグローバルに展開し、オープンイノベーションを希求していることです。その仕様の策定を進めるため、IOWN Global Forumという組織をアメリカで設立しました。そこにはインテルやマイクロソフト、エリクソン、ソニーといった世界の名だたる企業が参画しています。最後は構想の背景に哲学を取り込んでいることです」

われわれとしての自己

情報通信と哲学がどう結びつくのか。
両者の接点はIOWN構想の3本柱の1つ、デジタルツインコンピューティングに関わる。個人の思考などをデジタルの仮想空間内にコピーし、最適な意思決定を実現させることまでを目指している。そこに現れるのは「もう1人の自分(アバター)」だ。仮想空間(メタバース)の自分と現実世界の自分。自分が2つになるということは、自己とは何かという哲学的問いについて考えざるを得ない。

澤田はその問いを説くヒントは主著『善の研究』で知られる西田幾多郎が打ち立てた西田哲学にあるのではないか、と考えた。「西田先生は真なる自己とは何かを考え続けた哲学者で、京都大学教授でもありました。私も京大出身で山極壽一(じゅいち)総長(当時)とは旧知の間柄だったこともあり、西田哲学の継承者を教えてほしいとお願いしたら、文学部の出口康夫教授を紹介されたのです」

澤田は早速会いに行き、IOWN構想を説明したところ、出口はこう反応した。「これ(IOWN)は新しいインフラですね。新しいインフラには新しい哲学が必要です」と。

そこからNTTと京都大学との共同研究がスタートする。テーマはデジタルツインの社会的な課題解決である。研究は継続中だが、鍵となる概念は出てきた。「Self-as-We(われわれとしての自己)」である。「私」が集まり「われわれ(We)」ができるのではなく、「われわれ(We)」があって「私」があるという考え方だ。その場合のわれわれには、人間はもちろん、物や機能、技術なども含まれる。

たとえば、ある人が自動車で道を走るとする。それを可能にしているのは、「私」とその身体だけではない。車とそれをつくった人、道路とそれを整備・管理している人、関連する法律や保険の仕組みなど、さまざまな「われわれ」が絡み合っているという考え方だ。

デジタルツインが形になると、アバターがアバターと法的契約を交わすことが想定されている。ただし、アバターが契約を破った場合、誰が責任を問われるのかがはっきりしていない。法体系が未整備なのだ。このままだと、大きな混乱が生じてしまう。「アバターを『Self-as-We(われわれとしての自己)』としてとらえ、持ち主の責任の範囲を拡大すれば混乱どころか、デジタルツインの世界に秩序が生まれ、より豊かに発展する。われわれが法体系まで整備するわけではありませんが、その基盤となる考え方は提示したいと考えています」

このSelf-as-Weは人と人、あるいは人と事象との垣根を限りなく低くする考え方ともいえるだろう。IOWN構想とは別に、同社が2021年に制定したNTTグループサステナビリティ憲章にもSelf-as-Weが反映されている。

現代社会には、グローバルとローカル、環境や疫病と経済、権利と義務、デジタル化の光と影など、二元論では解決不能な事象が存在している。それを解決するために、〈「Self-as-We」という考えを基本に据え(中略)利他的共存(自らの幸せと他の幸せの共存)のもと「われわれ」の「Well-being の最大化」をめざす〉と、同憲章の前文にある。「西田哲学に『絶対矛盾的自己同一』という有名な言葉があります。これは世の中のあらゆるものの違いを認めたうえで包摂する、という意味につながると私は考えています。矛盾を認識するのは簡単です。自己同一、つまり包摂が難しい。われわれは企業の成長と社会課題の解決を包摂して考え、同時に実現することを目指したい」

w172_keiei_01.jpgIOWN構想の概略。端末からネットワークまで、光技術を使う「オールフォトニクス・ネットワーク」、さまざまな機器やネットワークを一元的に管理する「コグニティブ・ファウンデーション」、実空間の人や物をサイバー空間に再現する「デジタルツインコンピューティング」という3つの技術から成り立つ。

トレードオフよりコンセンサス

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澤田は哲学徒なのかといえば、そうではない。
「工学部で土木工学を専攻しました。最初に叩き込まれたのがトレードオフという二元論の考え方です。橋をつくるのかトンネルにするのか。その橋やトンネルも、ニーズや交通量、環境と土壌の条件に応じ、最適化したコストでつくる。まさにトレードオフの世界です。一方で、土木工学にも環境アセスメントという概念が入りつつあり、単純なトレードオフが成立しなくなってきていた。世の中はトレードオフだけで成り立つほど単純でない。いろいろな構造のなかから、多様な関係者の同意を取りつけるコンセンサスが必要だと気づきました」

NTTにはエンジニアとして入社し、電柱の敷設などの設備業務を担当。その後、社長室に入り、社内変革のプロジェクトに携わる。さらには米国の子会社に赴任と、数年単位で目まぐるしく仕事が変わった。「そのアメリカで、再び二元論の限界を実感しました。異なる言葉や文化の持ち主が話をし、何かを決めていくには、あれかこれかではうまくいかない。両者を同時に実現する第三の道を選ぶことが肝要だと考えるようになったのです」

そんな澤田にとって経営の本質は何か。「よりよい未来をつくりたいという志を持ち、それを実現する過程が経営であり、その未来に向け、多様なメンバーをそれこそ包摂し、導いていく役割を担うのが経営者です。やり甲斐のある仕事ですが、社内では孤独な存在です。他社の社長とは、その苦しみがわかるので、仲よくなれますね(笑)」

澤田が見すえる未来は地上に留まらない。NTTには宇宙と水中をターゲットにした2つの技術構想もある。「太陽光が存分に使える宇宙でデータセンターをつくる計画が進んでいます。宇宙の観測データをそこで処理するわけです。一方の水中では超音波を使い、資源掘削のための画像を地上に送るサービスを構想しています」

日本中に電話と電信のサービスを普及させる目的で、NTTの前身の日本電信電話公社が設立されたのは1952年のことである。それから70年が経過し、電話はスマホに、電信はインターネットに取って代わられた。光を活用し、宇宙や水中にも事業を拡げ、通信という幅広い領域でよりよい未来をつくり出す。NTTは、澤田のリーダーシップのもと、第二の創業を果たすべく走り出している。(文中敬称略)

Text = 荻野進介 Photo =勝尾 仁

Nonaka's view
歴史の転換点だからこそ企業にも哲学が必要だ

光技術を基盤に、内外の企業とスクラムを組みながら、インターネットとは異なる情報通信ネットワークをつくり上げ、米国に牛耳られた情報覇権を取り戻し、経済安全保障にもつなげていく……いい意味で、日本企業の“大風呂敷”を久しぶりに耳にした。
澤田氏はエンジニアでありながら主流の電気系ではないキャリアを歩み、社長室での社内変革担当、米国赴任と、「前任者がいない仕事」(澤田氏)を数多く担当してきたという。経験の質量が人より多様なのだ。しかも、哲学の素養もあり、物事の背後にある本質を直観する力にも優れている。
IOWN構想のコンセプトは大きく、深い。こうした澤田氏の多様な経験と本質直観力が同構想を生み出したのだろう。
出身は湯川秀樹はじめ、ノーベル賞受賞学者を日本で最も多く輩出している京都大学。その京大出自の西田哲学から派生した概念が構想のバックボーンとなっているのも興味深い。構想の要となる光がアナログとデジタルが融合したものというのだから、光こそまさに西田のいう「絶対矛盾的自己同一」なのだ。
しかも、その概念が同社のサステナビリティ憲章にも入り、経営自体のバックボーンにもなっている。
新型コロナウイルス感染症の蔓延、ロシアによるウクライナ侵攻と、予想だにしなかった事態が次々に起こっている。まるでSFのようなメタバースも現実のものになろうとしている。われわれの生活はもちろん、経営環境も激変する歴史的転換点ともいえる時期だからこそ、企業にも哲学が必要ではないか。
哲学には認識論、倫理学など、いくつかの範疇があるが、突きつめると存在論になる。何のために存在するか、ということだ。そういう意味で、パーパス(存在意義)という言葉が頻繁に使われるようになったのは喜ばしい。一方で、SDGs(持続可能な開発目標)が幅を利かせ、子どもの成績表よろしく、クリアしている項目の数がよき経営を図る指標として使われている。そこには哲学はない。

野中郁次郎氏

一橋大学名誉教授

Nonaka Ikujiro 1935年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。カリフォルニア大学経営大学院博士課程修了。知識創造理論の提唱者でありナレッジマネジメントの世界的権威。2008年米経済紙による「最も影響力のあるビジネス思想家トップ20」にアジアから唯一選出された。『失敗の本質』『知識創造企業』など著書多数。