ローカルから始まる。

NPO法人越後妻有里山協働機構 事務局長 原 蜜(みつ)

2024年10月17日

現在では日本中で開催される地域芸術祭の草分けとして、20年以上の歴史を持つ、新潟県越後妻有(えちごつまり)の「大地の芸術祭」。
芸術祭では広大な自然の里山や棚田に現代アートが約200点常設展示され、人口5万人の地域に50万人以上が訪れる。
計画段階から企画・運営に携わる原蜜氏が語る、地域の社会課題の解決にアートをめぐる活動が貢献できる可能性とは──。
(聞き手=浜田敬子/本誌編集長)


―――「大地の芸術祭」の始まりは1990年代半ば、当時の新潟県の平山征夫知事が、アートディレクターの北川フラムさんに「地方でアート」をと依頼したことだと聞きました。どのような経緯で原さんが関わるようになったのでしょうか。

原蜜氏(以下、原):北川フラムは私の叔父で、十日町市の越後妻有里山現代美術館MonETの建築を担当したのが父で建築家の原広司なんです。建築やアートについて学んだことはなかったのですが、ある日北川から、「新潟で面白いことをやろうとしている。若い人の力が必要だ」と声をかけられたのがきっかけです。

――― 北川さんは瀬戸内国際芸術祭にも関わっていらっしゃいますよね。

原:今でこそ瀬戸内国際芸術祭のほうが有名ですが、実はこちらが先なんです。瀬戸内は香川県の事業ですが、こちらは十日町市、津南町という小さい行政と私たちが作ったNPO法人、越後妻有里山協働機構が果たすべき役割が大きいのです。

―――「地域×アート」という立て付けはここが最初だったんですね。地域の自然や景観を生かしてアート作品を展示するという発想は、当時は画期的だったのでは。

原:2000年ごろには誰1人としてピンときていませんでした。バブルはとっくに崩壊していましたが、「東京がよくなれば世の中がよくなる」、もう一度日本は右肩上がりの時代に戻れるのでは、という幻想がまだあった時代です。そういうときに、田舎に、しかも点々と非効率に作品を置いて展示する、ましてや現代アートというのは理解されなかったですね。

―――当初は地元の方々の理解を得るのが大変だったとか。現在は市町村合併で十日町市と津南町ですが、当時の6市町村の全議会が反対という状態から、どうやって説得したんですか。

原:北川は2000回以上、説明会で話しました。僕自身がやったことの1つは、「こへび隊」という、都市の美大生らの組織化です。当時は今ほど情報がなく、海外の有名作家が来て作品を作ったり展示したりすることをまず彼らが面白がってくれた。そして住宅地図を頼りに集落全戸を訪問して、宣伝してくれたのです。

――― 彼らはアートの価値をわかっていて、ワクワクしたんですね。

原:最初は宗教の勧誘と間違えられたりして苦労しましたが、それでも1戸1戸回ってくれたのは、都会の子たちが地方に好奇心を持ってくれたから。直感的に都市の限界を感じ、都市でできないことを楽しんでいたと思いますね。美術をやっている人のなかには、競争や経済合理性に違和感を持つ人が結構いることも、こうした場所に興味を持つきっかけになったと思います。

――― 原さんご自身も、最初から地方×アートという組み合わせに直感的に面白そう、と感じましたか。

原:僕の父は東大教授で、子どもの頃からアカデミックやアートの世界が日常にあり、僕自身も中高一貫の、同級生の多くが東大に行くような進学校にいました。でも、僕は東大から続く世界にリアリティが持てずに、大学には進学せず、26歳までギャンブラーとして暮らしていました。そんな僕でも何かできることはないかという思いと、「体制側」のような大きなものに加担するのは嫌だという思いが交錯していたような時期に、北川に十日町に連れてこられたんです。

―――何を感じましたか。

原:十日町の中心部を少し離れるとすごくきれいな田んぼがあって、そこでおじいちゃん、おばあちゃんが農業をしている。でもおじいちゃん、おばあちゃんは田舎にコンプレックスを抱えていて、経済的に無理をしてでも、子どもたちは都会に出すと言っていたんです。
こんなに美しい場所で僕らがいつも食べているお米を作っている人たちが、なぜそんなに寂しい思いをしなければならないのか。東京が偉いわけなんてないのに、コンプレックスを持たざるを得ないのがとても不思議でした。ここで、この人たちのために何かしたいという気持ちは、その頃からずっと持ち続けています。

都市の限界を感じ都市でできないことを楽しむ若者が集まった

地域の人々の日常の営みをともに行い、助ける

――― 今思えば、「何か面白いことをやってほしい」という余白のある依頼をした新潟県もすごいですね。入場者数や経済効果、移住者数の目標というような話はなかったんですか。

原:数字の話がなかったわけではないのですが、同時にこの雪深い地域で「できるわけない」という認識もあったはずです。それが僕らにとってはチャンスでした。最初は抵抗があっても、結果的に地域の人たちが20年もの間、芸術祭を受け入れてくれたのもすごい。懐が深いエリアだと感じます。

――― 最初に田んぼのなかに作品を展示したとき、「この強度だともたない」と、農家の人が手伝ってくれたそうですね。

原:作家はすごく地道にものを作っていく。それが農家の方々と重なる部分があるのでしょう。実際、農家の人たちは杭を打つとか、ぬかるんだ田んぼにものを置くということに関しては作家以上に経験と知恵がある。手伝ってもらっているなかで自然と受け入れてもらえたように思います。
2008年には、3年に1回の芸術祭だけでなく、通年で人が訪れる場所にするためにNPOを立ち上げました。地域の人たちの日々の営みを一緒にやるべきだと考えたのです。

――― 普段はどんな活動をしているんですか。

原:まずは農業。農業人口がどんどん減り、地域の人たちが作れなくなった田んぼを引き受けて米を作って販売しています。この地域には棚田が多く、僕らも「まつだい棚田バンク」という制度を作り、150枚ほどの棚田を所有し、里親耕作面積ともに日本一となりました。NPOの常駐のメンバーは今40人程度。農業の手伝いや雪かきなどもしています。そうやってやっと最近受け入れてもらえたかなと。

――― 原さんにとっても「やっと最近」という感じなんですか。

原:20年いる僕でもよそ者的な感じです。地域のお母さんたちに聞くと、40年いて初めて地元の人と認められるそうです。まだまだです。

――― 地方を活性化するといって入ってきた人たちが、2、3年で予算を使って出ていく。だから信用できないと、地域の取材で聞くことがあります。

原:NPOのメンバーは全員移住者で、8〜9割が女性です。地域の人と結婚して子どもができた人もいる。だんだん、「この人たちはここでやっていく」と認識してくれたのだと思います。

セカンドキャリアのために 責任ある仕事を任せたい

――― 女子サッカーチームのFC越後妻有の選手の方たちが、NPOの仕事と兼業しているんですね。なぜサッカーチームができたんですか。

原:設立は2015年。芸術祭に来られた日本サッカー協会の方からJリーグのセカンドキャリア問題について聞いたんです。男性だと、やめる平均年齢が24歳。でも、やめるまで小中高からずっとサッカーだけをやってきています。社会経験もないまま24歳で放り出されても、なかなかきちんとした仕事に就けないことが多いと聞きました。ここでセカンドキャリアに役立つスキルを獲得しながらスポーツができないか、と話をもらったのがきっかけです。
北川と、農業とサッカーの兼業ができるのではと考えました。僕らにとっても、棚田バンクの耕作面積が増え、新しいスタッフを雇用するタイミングとうまく重なった。双方にとってメリットがあったんです。

――― サッカーだけでなく、バスケットボールでも、今やスポーツと地域とは関わりが深い。でも、その後のキャリアをその地域で見つけられるかというと難しいです。

原:最初は農業とサッカーと考えていましたが、今いるメンバー12人のなかには、芸術祭の広報もいれば観光業務もいて、午前は仕事、午後は練習というように両立させています。
雇用する側として感じるのは、一人ひとりの能力や可能性を見極めるのがとても難しいということ。だから誰でもできる仕事に就かせがちですが、それではもったいない。うちのメンバーは僕から高いミッションを与えられて、サッカーでも結果を出さないといけない。同世代の人よりも何倍も時間と頭と体を使わないといけないから大変だと思いますよ。

── 農業の担い手を増やすという地域の課題と、スポーツ選手のセカンドキャリアという課題を、地方の芸術祭という舞台で掛け合わせることで解決のモデルになりそうだと感じます。

原:単体でやると経済的に難しいので、芸術祭という大きなテコに支えられています。

越後妻有里山現代美術館MonET「モネ船長と87日間の四角い冒険」写真越後妻有では芸術祭の期間中だけでなく、自然のなかに配された約200点のアートを楽しむことができる。
越後妻有里山現代美術館MonET「モネ船長と87日間の四角い冒険」(photo= 伊藤 圭)

「棚田」イリヤ&エミリア・カバコフ 写真「棚田」イリヤ&エミリア・カバコフ(photo=Nakamura Osamu)

「リバース・シティー」パスカル・マルティン・タイユー 写真「リバース・シティー」パスカル・マルティン・タイユー(photo =Yanagi Ayumi)

示せるのは、厳しい場所でもできることがあるという希望

――― 芸術祭を20年継続するなかで、一番大事にしてきたことは何ですか。

原:大前提は、この土地が美しかったこと。幸か不幸か経済成長から取り残されてきたエリアなので、美しい里山が残り、それを支えている人たちがいる。そのうえで、やはり情熱は必要です。「こんな厳しい場所でも可能性がある」と信じる人がいないと続かない。


――― この20年で地域の方たちの変化はありますか。地域のなかにもワクワクした感じや熱量は生まれていますか。

原:なかにいる僕はよくわかりませんが、よく言われるのは、とても広い街全体を会場としているのに「すごくきれいだね」と。それは、住民の人たちみんなが意識しているから。人が来ない家は汚くなっていくように、人が来るから田んぼをきれいにしたり、庭の花を整えたり、ゴミを出さないようにしたり。

――― 外の人たちが美しい地域と言ってくれることで自分たちの住んでいる地域の価値を再発見したということもあるんですか。

原:あると思います。だって、棚田すらコンプレックスだったんですから。耕作機械すら入らないと。でも人がたくさんやってきて棚田を美しいと言ってもらってはじめて、「そうか」と気づいたようです。
最初は誰にでも、都会の人や外国人などよそ者にバイアスがあります。でも交流するうちに、住んでいる地域や国による違いはないことがわかってきます。多様性に対して許容する力も生まれていると思います。


――― 日本には厳しい地域が多くあります。地域での芸術祭のようなものが今後、どんな影響を与えると思いますか。

原:僕らに人口減少に歯止めをかけることなんてできるわけがない。僕らが示せるのは、厳しい場所でも可能性はあるということ。僕らのように技術を持たない人でも、アートやスポーツ、農業などさまざまな取り組みによって生きていける。それがいろんな地域の希望になればいいですね。

単体では経済的に難しい課題を芸術祭というテコで支え解決

Text=入倉由理子 Photo=伊藤圭

原蜜氏

Profile
1994年 越後妻有アートネックレス整備構想に参加
2000年 越後妻有アートトリエンナーレ2000開催。全体の企画立案から広報、ツアー、グッズ、宿泊、運営まで幅広く統括
    「房総里山芸術祭 いちはらアート×ミックス」「瀬戸内国際芸術祭」に関わる
2008年 NPO法人越後妻有里山協働機構の立ち上げ。通年運営化
2024年 越後妻有アートトリエンナーレ2024開催。9回を数える