人事が知っておくべき人体の秘密

なぜ、仕事中に眠くなるのか

2015年12月10日

オフィスの昼下がり。社員たちはいかにも眠そうにしている。思わず、「気合いが足りない」と言いたくなる。しかし、睡眠と覚醒のメカニズムに詳しい神経科学者、金沢大学大学院教授の櫻井武氏は、「それは気合いの問題ではない」と言い切る。
櫻井氏によれば、人間は、脳内で巧みに「睡眠」と「覚醒」のスイッチを入れ替えている。睡眠を引き起こすのは、脳幹のすぐ上にある視床下部の一部、睡眠中枢である。睡眠中枢には、睡眠時のみに発火するGABA作動性ニューロンが存在する。一方、脳幹には覚醒を導き出すモノアミン/コリン作動性ニューロンがあり、この2つはお互いに抑制し合い、その力関係によって人が睡眠モードか覚醒モードかが決まる。そして、覚醒モードを制御する働きをするのが、「オレキシン」という神経伝達物質なのだ。1998年にオレキシンを発見した、テキサス大学の研究チームのメンバーの1人が櫻井氏である。「オレキシンが分泌されると交感神経が刺激され、全身の機能が向上する。同時に意識を清明にし、注意力を引き出す」(櫻井氏)といい、仕事に適した状態になる。では、どんなときに分泌されるのか。オレキシンをつくる神経細胞が興奮する要因は、主に3つだ。

喜怒哀楽の情動のすべてが覚醒を促す

1つは体内時計。地球上の生命のほとんどは、植物からクジラに至るまで、24時間の体内時計を持つ。夜行性でない限り、朝、オレキシンが供給される。2つ目は栄養状態。オレキシンが分泌されるのは、空腹のときだ。
そして、3つ目が「情動」(感情)である。情動には、さまざまな測り方の指標がある。「好き」の反対は?と質問されれば「嫌い」と多くの人が答えるが、オレキシンをつくり出す神経細胞を興奮させる情動は、これとは異なる「セイリエンシー(顕著性)」という指標で測られる。顕著性、つまりことの重大さにおいては、「好き」も「嫌い」も同じ極に属し、その対極に「無関心」がある。無関心な状態ではオレキシンをつくる神経細胞は興奮せず、睡眠モードを誘発する。
なぜ、このようなシステムを有するようになったのか。このシステムを司るのは、脳幹およびその周辺という、ほかの動物も同じく持つ「古い脳」である。「野生動物の生活を考えてみてください。食物を自ら獲得し、危険から身を守らなければ生存競争に勝てません。そのため、襲われる可能性のある時間帯や空腹時に、覚醒レベルを上げる必要があります。そして、恐怖や不安を感じるときだけではなく、食物が目の前にあるなど、うれしいこと、喜ばしいことが期待できる場合も眠ってはいられない。チャンスを逃してしまうからです」(櫻井氏)。食っていくため、食われないために覚醒が必要。この遠い記憶が、人の脳にも刻み込まれている。
研究では、喜怒哀楽すべての情動が、覚醒レベルを上げることがわかっている。なぜ、仕事中に眠くなるのか。その問いに対する答えの1つは、「目の前の仕事に関心がないから」。そこに喜怒哀楽すべての情動を揺さぶるものが、何もない。そんな状態をつくる会社、上司に責任の一端があるといえなくもない。

プラスの感情で揺さぶりをかける

恐怖でも喜びでも、好きでも嫌いでも、覚醒スイッチをオンにできるならば、人材育成の文脈でよくいわれる「修羅場体験」は最適ではないか、と考えないでほしい。理由は2つ。1つは、修羅場という常に危険を感じる状態は、夜の睡眠をも阻害するから。眠りには休息のほか、記憶の整理、強化、脳の老廃物を代謝するという大事な役割がある。
もう1つは、別のシステムの存在だ。「"期待"に対する"報酬"が得られると、ドーパミン作動性ニューロンの機能が高まり、その行動は強化されていきます」(櫻井氏)。好きだと感じればモチベーションが高まり、それにハマる。せっかく覚醒させるならプラスの情動で揺さぶりをかけたほうがいい。これも私たちの脳に埋め込まれた堅固なシステムであることを知っておくべきだろう。

Text=入倉由理子 Illustration=寺嶋智教

櫻井 武氏

金沢大学大学院医薬保健学総合研究科分子神経科学・統合生理学教授。

Sakurai Takeshi 1998年、覚醒を制御する神経ペプチド・オレキシンを発見。脳内新規分子の探索を進め、睡眠・覚醒機構や摂食行動の制御機構などの解明に取り組む。