人事が知っておくべき人体の秘密
ひらめいたアイデアをつぶすのは"誰"か
社内から斬新な意見が出てこない。人事パーソンや現場のマネジャーから、そんな声を頻繁に聞く。アイデアを"誰"がつぶしているのか。それはヒエラルキー型の組織や多様性の少ない職場などさまざまな要因があろうが、今回は脳研究的なアプローチから原因を探ってみた。
まずは、生物がどれだけ環境に影響されるか、という話だ。「大脳の神経細胞(ニューロン)を調べると、縦ジマ模様を見ると反応するものや横ジマ模様に反応するもの、斜め30度に反応するものなどが見つかります。ところが縦ジマしかない部屋でネコを育てると、縦ジマに反応するニューロンのみが発達する。このネコの足もとに横長の障害物を置くと、ネコはつまずきます。横ジマに反応するニューロンを持たず、障害物が目に入らないからです」と、脳研究分野で数々の著作を持つ東京大学教授・池谷裕二氏は説明する。
"正しい"は"どれだけその世界に長くいたか"
同じことは人間にも起こる。「私たちにとって"正しい"という感覚は、単にどれだけその世界に長くいたかというだけのこと」(池谷氏)だという。私たちは長くいた環境でクセづけされた脳でこの世界を認識し、自分の周辺の世界が"正しい"と考える。正しさを決めるのが経験の記憶だとするならば、私たちの認知する世界はすべて錯覚からできているともいえる。自分の生きるコミュニティの外で起こることを"間違い"と認識したり、前出のネコの前に置かれた横長の棒のように、存在すら否定することもあるだろう。
「本来、人の脳は勝手にいろいろひらめいているもの」(池谷氏)だが、それを口にせずに終わることが多い。私たちの脳の"正しさ"の認識が、少なからずこれに影響を与えている。
米国の生理学者ベンジャミン・リベットによる、人間の自由意志のありようを調べるための有名な実験がある。イスに座った被験者に対し、好きなタイミングで手を動かすよう命じる。そのとき、意識していることは、手を動かそうとする「意図」と、実際に手が動いた「知覚」だ。一方、脳の無意識レベルでは、手を動かすための「準備」と、実際に動かすための「指令」がなされている。「この4つが時系列で機能して手が動きます。どんな順序でこれらが起こっているか、と問うと、多くの人は、自分で動かそうと意図し、脳がそれを受けて準備して指令し、動いたと実感する、と答えます。しかし、実は私たちが手を動かそうと意図する0.5〜1秒前に脳の無意識レベルでは動かす準備を始めている。自由意志などないのではないかというのが、この実験で投げかけた大きな疑問だったのです」(池谷氏)
アイデアをつぶす張本人は自分自身
アイデアを出す、ということにおいても、私たちの脳は無意識レベルで次々と勝手にさまざま(かつ雑多)な思いつきや意思を紡ぎ出している。
しかし、これを「口にするかどうか」は、また別問題だ。話そうと意図した後、実際に話す(話したと知覚する)まで1秒程度時間がかかる。「この間に、人は意図したことをやめる選択ができます。つまり、"自由意志"はなくても、"自由否定"は持っているのです」(池谷氏)。これは私たちにとって大事な力だ。誰かの悪口がふいに頭に浮かんでも、大人は胸の内にしまい込む。一方、子どもは口を衝いて出てしまう。「"自由否定"できるようになることは、人にとって社会的な成長なのです。ただし、アイデアを出すという意味ではいわば"老害"ともいえます。自分が生きてきた世界の"正しさ"を基準に、言うのはやめようという圧力が働くからです」(池谷氏)
"正しさ"というその世界が生み出した錯覚をもとに、せっかく浮かんだ面白いアイデアを、"自由否定"して心にしまい込む。アイデアをつぶしているのは、ほかでもない、自分自身だ。
人事としては、アイデアが出ない、と嘆く前に、組織内の常識にまみれた自分たちの"正しさ"の感覚は、今後も修正の必要がないか点検してはどうか。
あるいは、人の話を"でも......"といきなり切り返さない、という小さな心がけは、案外、有効に機能するのかもしれない。
Text=入倉由理子、白谷輝英 Photo=平山諭 Illustration=寺嶋智教
池谷裕二氏
東京大学薬学部教授。
Ikegaya Yuji 脳情報通信融合研究センター主任研究員、日本薬理学会学術評議員を兼務。脳の中にある「海馬(かいば)」を研究することで、脳が変化するメカニズムの解明を目指している。著書に『進化しすぎた脳』『ココロの盲点完全版』(講談社)、『脳には妙なクセがある』(扶桑社)など多数。