人事は映画が教えてくれる
『2人のローマ教皇』に学ぶ 「ディスカッション」と「対話」の違い
ローマ教皇ベネディクト16世は2013年、教会の不祥事の責任を取るかたちで、異例中の異例である「生存中の退位」を選択した。その退位の裏には何があったのか。歴史的な事実をベースとして、退位前年の、教皇と、結果的に後継者となるベルゴリオ枢機卿との対話劇『2人のローマ教皇』。この映画で繰り広げられる2人の対話が私たちに示唆するものとは何だろうか。
『2人のローマ教皇』は、2012年当時のローマ教皇ベネディクト16世(アンソニー・ホプキンス)と、その後、教皇の座を継ぐことになるホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(ジョナサン・プライス)とのやりとりを描いた、実話に基づく映画です。
この作品は、対話(Dialogue)とは何かを私たちにあらためて考えさせてくれます。
まず、設定としてポイントになるのが、2人の考え方が徹底的に違うことです。教皇は、教会の権威は何としても守られなければならないと考える厳格な保守派。かたやベルゴリオ枢機卿は時代に合わせて教会にも変化が必要と考える進歩派です。性格も正反対で、厳格なゲルマン系の教皇に対して、枢機卿は陽気なラテン系。まさに水と油の関係で、お互いにとって相手は「圧倒的な他者」です。
かつ、お互いに相手に対して強い要求をもっています。枢機卿は硬直した教会の体質に違和感を覚え、枢機卿を辞して一介の司祭になることを望んでいました。しかし、教皇はこの願いを頑として受け入れません。進歩派で人気のある枢機卿が辞めれば、教会の権威への反発として世間に受け取られる。それは絶対に許さないという姿勢を貫きます。また、教皇は、最初の会談では口には出しませんが、当時教会内で起きていた問題の解決のため、枢機卿の力を借りること、あるいは教皇の座を譲ることを考えていました。
教皇の別荘である宮殿の庭で行われた最初の会談は、厳密にいえば、「対話」ではなく「Discussion」でした。ディスカッションはお互いの意見を主張して相手を叩くことで(「~cussion」には「叩く」という意味があります)、何らかの結論に至ることをめざす目的的なコミュニケーションです。このピリピリした空気で行われたディスカッションは、2人がお互いの意見を拒否することで決裂します。
普通ならここで会話は終わります。しかし、その晩、宮殿内で寛いだ時間をともにしながら、この2人は「対話」を始めるのです。この流れは決してどちらかが意図したものではないように見えました。ディスカッションは決裂したが、要望を曲げるわけにはいかず、会話は続けられなければならなかった。そこで2人が無意識に選んだのが対話だったのです。
では、ディスカッションと対話は何が違うのでしょうか。対話の目的は第一義的に「お互いを深く知ること」です。「理解」はできないかもしれないが、丹念に対話を重ねれば「知る」ことはできます。そして相手を知るためにまず必要なのは「自己開示」です。この宮殿の晩の対話で、2人はお互いに自己開示を始めました。教皇は得意のピアノを披露し、枢機卿は好きなサッカーについて楽しそうに話します。翌日、バチカン市に場所を移して対話は続けられ、物語のクライマックスでは、お互いに過去の罪を告白し、許しを得ます。
自己開示をともなう対話は、それぞれの人格の深層にある、本人も気づいていないかもしれないものを知ることにもつながります。2人の深い対話はまさにそこに到達したのです。
退位の理由を「神の声が聞こえなくなった」と告白した教皇は、「この2日間はまた神の声が聞こえた。そのとき同時に聞こえてきたのは君の声だった」と続けます。枢機卿はこのとき、深いところにある教皇の真意を知ります。この翌年、教皇は退位し、枢機卿がローマ教皇となりました。ディスカッションの決裂で始まった会話は、結論を目的としない対話という迂回路を経て、そもそもディスカッションの目的だった、お互いが納得する結論に至ったのです。
この映画では、ほかにも、「対面ではなく横に座って話す」「庭などの広々とした空間で歩きながら話す」など、対話の具体的なヒントが数多く描かれています。部下や同僚と対話をしたくてもディスカッションになってしまうという人にとっては、参考にしたい作品の1つといえるでしょう。
Text=伊藤敬太郎 Photo=平山諭 Illustration=信濃八太郎
野田 稔
明治大学大学院グローバル・ビジネス研究科教授
Noda Minoru リクルートワークス研究所特任研究顧問。専門分野は組織論、経営戦略論、ミーティングマネジメント。
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