人事は映画が教えてくれる
『南極料理人』に学ぶ閉塞空間における集団生活の要諦
人間にはそれぞれ弱さがあり、壊れるときもあることを踏まえて生活を組み立てる
【あらすじ】海上保安庁の調理担当だった西村 淳(堺 雅人)は、派遣予定だった同僚のケガにより、思わぬかたちで南極観測隊に料理人として参加することに。昭和基地からも遠く離れた高地にあるドームふじ基地で、気象学者のタイチョー(きたろう)、雪氷学者の本さん(生瀬勝久)、医療担当のドクター(豊原功補)、大学院生の兄やん(高良健吾)ら8人の個性的な隊員たちとの共同生活がスタート。西村が腕によりをかけた料理の数々が厳寒の地での孤絶した生活に彩りを添える。
『南極料理人』は、南極大陸のドームふじ基地での約400日におよぶ南極地域観測隊の生活を描いた作品です。原作は観測隊の料理人を実際に務めた西村 淳さんのエッセイです。
大きな昭和基地とは異なる、小さな孤立したドームふじ基地で8人の男たちが生活をともにするという設定から、どんな修羅場が飛び出すのかと思いきや、物語は淡々と、時にユーモラスに進んでいきます。小さなもめごとはそれなりに起きるのですが、大爆発は起きません。むしろ「何も起きないこと」こそがこの映画の一番のポイントなのです。
さて、閉塞的な環境での生活といえば、私たちはそれに近い体験をしました。そう、コロナ禍によるステイホームです。家から出ることなく、家族と常に一緒にいる生活は、私たちのメンタルに想定以上のネガティブな影響を及ぼしました。あのような状況を乗り切るためのヒントが『南極料理人』には描かれています。
まずポイントとして挙げられるのが食事です。この作品では隊員たちがテーブルを囲んで食事をするシーンが度々描かれます。これが実に美味しそうなんですね。できる範囲で豊かな食材を揃え、毎回品数は豊富。塊肉を丸焼きにしたステーキ、伊勢エビのフライ、回転テーブルで楽しむ中華料理、フルコースのフランス料理など、要所要所でハレを演出するご馳走も用意されます。料理人の西村(堺 雅人)は隊員のために日々腕を振るい、工夫を凝らします。あれが仮に、輸送や調理の効率を重視した簡易食ばかりだったら隊員のメンタルはもたなかったでしょう。
食事以外にも、ミッドウィンター祭などのイベント、雪上での野球といった日々の楽しみを大事にしていたことも気晴らしになりました。
もう1つ重要な要素として挙げられるのが、チーム全体にあった寛容さです。恐らく隊員たちは心理テストを経て選ばれているでしょうから、精神的に閉塞環境での集団生活に不適格な人はそもそもいないはずです。それでも時には壊れてしまいます。
主任(古舘寛治)は早々にホームシックになって仕事を放棄し、貴重な水を出しっぱなしにしてシャワーを浴びてしまう。盆(ぼん:黒田大輔)は夜中に調理室に忍び込んで食材のバターを丸かじりしてしまう。タイチョー(きたろう)までもが、自分が夜食で食べ過ぎたせいでラーメンの備蓄がなくなると、この世の終わりのような顔をして落ち込みます。
そんなことがいくつも重なっていくと各自のイライラが募り、チームは破綻に向かいそうなものですが、決してそうはなりません。なぜかというと、「人間というのはそういうものだ」という理解に基づく寛容さが隊員それぞれにあったからです。
たとえば、主任が朝の挨拶をしないことを本さん(もと:生瀬勝久)がしつこく咎めるシーンがありますが、タイチョーはどちらかを注意するでもなく、「まあまあ」と本さんをいなします。あの何気ない行動にはタイチョーのリーダーシップの本質が集約されています。そもそも南極観測隊は、研究者、技術者、医者など、それぞれ担当する仕事がバラバラな完全分業制のチーム。全員を1つにまとめる強いリーダーシップは不要で、うまくチーム内のバランスを取る参加型リーダーシップこそが求められます。タイチョーはそんな自分の役割をわかっていたのです。
また、朝食後、各自が、ほかの隊員に関係のないことも含めて当日の予定を簡単に発表していたシーンも印象的です。それぞれができるだけ秘密をもたず、オープンであることも集団生活の要諦の1つです。
ここで挙げたことはいずれも集団生活の基本といえます。しかし、私たちは効率を重視するなかで、これらの基本を時に軽視してきました。生活の基本をないがしろにすれば、集団も人間も根本が壊れていきます。今回のステイホームで私たちはそれを痛感したはずです。
Text=伊藤敬太郎 Photo=平山諭 Illustration=信濃八太郎
野田 稔
明治大学大学院グローバル・ビジネス研究科教授
Noda Minoru リクルートワークス研究所特任研究顧問。専門分野は組織論、経営戦略論、ミーティングマネジメント。
Navigator