人事は映画が教えてくれる

『あん』に学ぶ「働くこと」の意味

「何者かになろう」と焦る私たちは、仕事の本当の楽しさを見失ってはいないだろうか?

2019年06月10日

【あらすじ】ある日、千太郎(永瀬正敏)が雇われ店長として働くどら焼き屋に、徳江(樹木希林)が自分をアルバイトで雇ってほしいと訪ねてきた。最初はあっさり断った千太郎だが、徳江が置いていった手づくりのあんが絶品だったため、雇うことを決める。徳江のあんが評判となり、一時、店は行列ができるほど繁盛したが、元ハンセン病患者である徳江の指の変形が人々の噂になり、急に客足が途絶えてしまう。客が来なくなった理由を自ら悟った徳江は店を辞めるが、千太郎には納得できない思いが残り……。

『あん』は、小さなどら焼き屋を舞台に、あんづくりのアルバイトとして働きはじめた元ハンセン病患者の徳とく江え さん(樹木希林)と雇われ店長の千太郎(永瀬正敏)との短い期間の関わりを描いた映画です。
ハンセン病患者への差別問題はこの作品の大きなテーマですが、『あん』にはもう1つ、重要なテーマが示されています。それは「『働く』とは何か?」という問いです。
千太郎は、過去に罪を犯し、そのために生じた借金を肩代わりしてもらった代償としてどら焼き屋の雇われ店長をしています。彼にとってどら焼き屋はやりたい仕事ではありません。仕事は自分を縛りつけるものであり、あの狭苦しい店は彼にとってはもう1つの監獄です。私たちの多くは自分で選んだ仕事に就いているはずですが、自分は千太郎とそう変わらないと、はたと気付いてしまう人も決して少なくないでしょう。
対照的なのが徳江さんです。長年、社会と隔絶された施設内だけであんづくりをしてきた徳江さんがはじめて社会に出て実に楽しそうに働く様子が生き生きと描かれています。
千太郎と徳江さんのこの違いは何でしょうか。
人は、「自己肯定感(自分で自分を認めること)」「自己効力感(自分には何かを成し遂げる力があると感じること)」「自己有用感(自分が誰かの役に立っていると感じること)」の3つが合わさって、自己を確立し、自信を抱くことができます。
徳江さんにはおそらく自己肯定感はあったのでしょう。しかし、自己有用感を味わったことがなかった。いくら丹精を込めておいしいあんをつくっても、それを施設の外で誰かに味わってもらう機会がなかったのですから。自己有用感が得られなければ、本当の意味での自己効力感も得られません。つまり、徳江さんにとって、社会に出て自分の能力を生かして働くことは、自分の人生を、自分の幸福を完結させるために欠けていた最後のピースだったのです。  
あるいは、次のような角度からも徳江さんの行動は説明できます。米国の心理学者 、ロバート・A・エモンズは、「幸福の4 因子」として、「仕事」「目先の利益を超えた理想」「高い目的意識」「社会とつながっているという実感」を挙げています。徳江さんは無意識に同じようなことを感じ取っていたのかもしれません。
私たちは、「働く」ということを「何者かになるための手段」としてとらえがちです。しかし、「働く」ことは決して手段ではありません。エモンズが指摘するように、「働く」行為自体が幸福の因子なのです。

優しい目で小豆を見つめ、小豆に話しかけながらあんづくりをする徳江さんの姿が、千太郎の仕事に対する鬱屈した気持ちを少しずつ変えていく

店を辞め、その後に亡くなった徳江さんは千太郎と店の常連だった中学生のワカナ(内田伽羅)に向けて次のようなメッセージを残しました。
「私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。だとすれば、何かになれなくても私たちには生きる意味があるのよ」
じっと鍋のなかの小豆を見つめ、小豆の声を聞き、小豆を炊く湯気の香りの微妙な変化を感じ取る徳江さんは、あんづくりという仕事を通して世界を見て、聞いていました。私たちは働くことによって、世界に自分が実存していることを感じ、自己を完結させることができる。徳江さんが楽しそうに働く姿が私たちに伝えるのは、まさにそれだったのです。
「何者かにならなければ」という焦燥感に追われている私たちは、そのような仕事の本質、働くことで得られる幸福感を見失いがちです。働くすべての人たち、そして人を雇う側のすべての人たちも、この本質を見つめ直さなくてはいけない──。自戒も込めて、そう強く感じました。
作品のラストにかけて、千太郎の仕事への意識は明らかに変わります。徳江さんと共に働いた経験、徳江さんの楽しそうに働く姿が彼を変えたのです。素晴らしい仕事をする人と同じ職場で共に働くことの大切さも、この映画は教えてくれます。

Text=伊藤敬太郎 Photo=平山諭 Illustration=信濃八太郎

野田 稔

明治大学大学院グローバル・ビジネス研究科教授

Noda Minoru リクルートワークス研究所特任研究顧問。専門分野は組織論、経営戦略論、ミーティングマネジメント。

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